クィアであるがゆえに生じる、生きることへの苦しさ/楽しさ。
クィアであるかどうかにかかわらず生じる、生きることへの苦しさ/楽しさ。
そこには同じ日常があり、それゆえにいないことにされてしまう誰かがいる。
この世界のどこかには、自分と同じ誰かがいるということ。
その誰かも完全に自分と同じではないということ。
しかしそれこそが私たちに「ひとりではない」と感じさせるのかもしれない。
クィアを生きる人たちがその日々を綴るリレーエッセイ、はじめます。
自己紹介
自己紹介をしてくださいと言われたら、あなたは言いたいことをすぐ頭の中でイメージできるだろうか。
私は、まずその場の目的、雰囲気や居合わせた人を探り、どの一人称で話すべきか考えてしまう。「私」「自分」「うち」「僕」「俺」「(言わない)」が選択肢として考えられる。今回の文章では、「私」を使うことにするが、普段の自分をよく知っている人と話すときや、SNSの投稿、日記では、あまり定まっておらず、その日の気分で自然と好きな一人称を使っている。しかし、対面で初めて誰かと出会い、自己紹介をするときは身構えて、一人称をどうすべきか考えてしまうのだ。「俺」「うち」はそのカジュアルすぎる性質ゆえに初対面ではあまり使わないが、関西圏だと「自分」を使うとコミュニケーションに齟齬をきたしてしまうことがあり、関西圏に限っては使いづらい(一人称ではなく、二人称で「自分」を使うカルチャーがあるからだ)。無難なのは「私」だ。しかし、何も言わなければ社会から女性として扱われる自分が規範に挑みたい気持ちもあり、「僕」を選べないものかと思案する。
そして、どこまで開示するか。これはジェンダーアイデンティティの話だ。私はノンバイナリー(男性や女性に当てはまらない・当てはめないジェンダーアイデンティティ)でクィア(私自身の場合は、非異性愛者の意味で使っている)だ。基本的に、セクシュアル・ジェンダーマイノリティが集まる場だとわかっている場合は開示することが多い。そうでない場では、とても慎重になる。言ったほうがその後のコミュニケーションがスムーズだろうか、ほかに言うべきことと関係してくるだろうか、と考える。
先ほどの一人称の話に戻っていくのだが、ジェンダーアイデンティティやセクシュアリティを開示するつもりがあれば、一人称の選択肢も広い。それこそ「僕」を使いやすくするのは、こうした開示である。
さらに、そして、最も私を悩ませるのは「好きなこと」「趣味」といった類の話題である。いくつか理由がある。まずは、自分自身にそこまで熱量を持って好きになったり、頻繁に打ち込んだりしているものがあると思えないからだ。短期的に好きなものはあるが、飽きっぽいので続かない。自己紹介時、当時短期的にハマっているものを話すと、その話題を深掘りするような質問を受けて困ることが何度もあった。その困った様子を見た相手が何を思っているかは知りようがないが、大学のときの友人に「趣味と言いながら、そのレベルなの?」と言われたことが引っかかっているのだと思う。
飽きっぽく続かないとは言ったものの、ここ数年で唯一続いている興味・関心がある。それは、フェミニズムやクィア・スタディーズである。これらの本やイベントにお金を出すことは惜しまないし、図書館でも本屋でも「ジェンダー」「LGBT」「人権」「社会学」のコーナーに真っ先に行く。うつ病で休職中に図書館で読んだ本の8〜9割がこの分類に当てはまると言っても過言ではないと思う。ノンフィクションに限らず、創作物(小説、漫画、映画、ドラマ、音楽)を楽しむときも、フェミニズムやクィアの要素が入っているものを好む傾向にある(しかし、圧倒的にノンフィクションの本を楽しむことが多い)。
しかし、これは趣味なのかという疑問が残る。大学のときの専攻(社会学・社会政策)と重なるところもあるが、フェミニズムやクィア・スタディーズは政治であり、運動である。また、人権の話でもある。この歪んだ社会構造を解体していくためになくてはならない、当たり前の存在なのだ。それに、社会に存在するマイノリティの人々の切実な問題に寄り添う大切なフレームワークである。そういうものに対して、趣味と呼ぶには、なにかぎこちなさや申し訳なさを感じる。
ではどうするか。とりあえず、私は読書・映画/ドラマ鑑賞といった抽象的なレベルに落としてみることが多い。そこで起きる問題は、具体的なジャンルや作品を述べるように求められることだ。ここで、ジェンダーアイデンティティやセクシュアリティの話につながってくるのだが、こうしたアイデンティティを開示できているか否かで、私の戸惑いのレベルは変わる。
開示していないときに、「LGBT・クィアに関する作品を読みます/観ます」と言えば、相手はLGBTというフィルターを通して私を見ることになるだろう。そのフィルターにはどんな偏見が染み付いているだろうか。また、私は今どんな詮索をされているだろうか。ノンバイナリーというアイデンティティがあるのに、相手に勝手に「LGBT」というラベリングをされていないだろうか。L・G・B・T(バイナリー)のどれなのか探られていないだろうか。この戸惑いには私の一般的な人間不信と私自身のLGBTQ+への内面化された差別意識や偏見がある。
開示している場合、開示していない場合より、フェミニズム・クィア作品について話すことに対するハードルはぐっと下がる。相手にある程度の理解が期待でき、反応に怯えなくてもいいからだ。しかし、相手がLGBTQ+やアライの人々の場合、クィア作品に関心が高いことが多く、自分の知識や興味のレベルなんてたかが知れていると思うことが多い。初めに理由として述べた「趣味と言いながら、そのレベルなの?」問題に戻ってくる。また、自分にはジェンダーアイデンティティやセクシュアリティに関わること以外に何も語れるものがないのかと悲しくなる。だから、セクシュアル・ジェンダーマイノリティの人々の集まる場で、誰かがクィア以外の文脈で趣味を語っているのを見て、羨ましい気持ちを抱きながら自己紹介の時間を過ごしている。
ここまで書いていると、自己紹介だけでこんなにも拗らせているのかと情けなくなり、もはや笑えてくるぐらいだ。でも、これからも私は自己紹介に面するとき、悩み続け、戸惑い続けるだろう。
じゅごん
ヘルな日本社会で、「生産性」という言葉を憎み、「生存は抵抗」という言葉を信じて生きるノンバイナリーの一人。最近はSNSのアナキストや『布団の中から蜂起せよ』という本を通じてアナキズムに興味を持っている。
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