本屋lighthouse’s Newsletter
本屋lighthouse’s Newsletter
映画おしゃべり会 #02/『ユンヒへ』
0:00
-1:27:34

映画おしゃべり会 #02/『ユンヒへ』

ユンヒへ

映画おしゃべり会、第2回は『ユンヒへ』をメインにして90分ほどおしゃべりしました。今回はゲストとして漫画家の綾野綾乃さんをお呼びして、3人で開催しています。

綾野綾乃さん TwitterMastodon

なお、先日配信した番外編的な記事にて、こちらの会でも映画『怪物』について触れている旨をお知らせしていましたが、そのあとじっくり考えた結果、カットすることにしました。
経緯としては、おしゃべり会の収録が5/31におこなわれ、その数日後に坪井さんが記事を執筆、記事への反響もちゃんとあり、ならばそれを踏まえてあらためて映画『怪物』について丁寧に語り直した(あるいは書いた)ものを公開するほうがいいのではないか、そのような考えに出演者3名で検討した結果なった、ということになります。圧がかかった!みたいなことではないので、特に気にせずお聴きくださいませ。

ということで、わたくし関口の音声編集技術の下手さが明らかになるブツ切りデータですが、やはり特に気にせずお楽しみください。

*音声の文字起こしも作成しました。非常に長いので、この記事の最下段、購読ボタンなどよりも下に配置しています。

そのほか『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』についても少し触れています。


今回選んだ2本は各種配信サービスで公開されていますので、ぜひ。
おそらく『怪物』関連のものを挟みつつ、第3回も開催予定です。取り上げてほしい作品があればリクエストも遠慮なくどうぞ。

宣伝ですが、わたくし関口がパンフレットにも文章を寄せた映画『アシスタント』がただいま公開中です。やはり上映館数が少なくてぴえん丸ですが……(本屋lighthouseでの上映も目論んでおります)。


坪井里緒
言葉屋。小説、映像脚本、ゲームシナリオ等言葉や物語にまつわる仕事をしています。クィア。冬とパスタと高いところ、ピーチティーが好き。本名名義でSNSやっていないので、もし何かあればお便りはこちらまで。hanagori.f◇gmail.com  ◇→@
最悪なことばっかな日々だけど、生き延びていこうね。

*こちらの連載は「web灯台より」にて読むことも可能です。
*最新号は誰でも閲覧可能、過去号はこのニュースレターを有料購読している場合のみ閲覧できます。
投げ銭していただけると執筆者と編集人に「あそぶかね」が入ります٩( ᐛ )و


Share


文字起こし部分、以下になります。


参加者一覧

・関口竜平(本屋lighthouse)→関
・坪井里緒→坪
・綾野綾乃(漫画家)→綾 *今回のゲスト

関:はじめまーす。

坪&綾:よろしくお願いします。

関:えーっと、ということで、第2回……タイトルなんだっけ?

坪:映画おしゃべり会。

一同:笑

坪:タイトルというかって感じですけど(笑)

関:始めたいと思います。今回はレギュラーメンバーの関口と坪井さんのほかに、漫画家の綾野綾乃さんをお招きして3人でやろうと思います。扱う題材はメインとしては『ユンヒへ』。韓国映画でいいのかな。

坪:韓国映画ですね。

関:日本と競作みたいな感じには何となくなってますけど、韓国映画ですね。2019年公開で、日本だと2020年の映画祭で公開された後に、2022年……結構時間経ってからですね。

坪:めっちゃ経ってますね。

関:1年以上経ってからちゃんと上映、という感じで。そういったものを取り上げつつ、いろんな作品に派生しつつ、ですね。よろしくお願いします。

坪&綾:よろしくお願いします。

関:なんで『ユンヒへ』になったんでしたっけ?

坪:最初は綾野さんの漫画にからめてパンセクシャルのものを取り上げたいと思ったんですけども、あまりにも日本で放映されてなくて、サブスクとかでも一切合切ないっていう本当に問題しかないんですけど、っていう状態でいろいろと模索はしたんですけど、まあ言い方アレなんですけども、パンセクシャルがやっぱりないから、バイセクシャルはどうかっていう話になって、そこでもやっぱりあまりなくてっていうところで、同性愛、いわゆるゲイだったり、レズビアンの作品とかはどうかっていう話になって、だんだん絞り込まれていったのが『ユンヒへ』だったんですね。

関:そうですね。それでほかにも色々と作品をできる限り観ようってなったんですけど、僕があまりにも忙しすぎて、これしか観れてないという(笑)

坪:しょうがない(笑)

関:ふたりはほかの作品も観れてると思うので、言及したいときは言及してもらって大丈夫です。せっかくなんで綾野さんから、なんかとりあえず一番最初にこれだけは言っておきたいとか、気になる観点とかあれば……。

綾:気になる観点……なんだろう……。さっきお話にも出たけど、『ユンヒへ』とあと、私は『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』っていう映画も観たんですけど、両方坪井さんがさっき指摘してくれた……さっきって打ち合わせのときだからあれかな。

坪:大丈夫です、ゆるい会なので(笑)

綾:(笑)。さっき指摘してくれたように、私の書いてる漫画もそうなんですけど、結婚してから、あるいはする前からもしかしたら自分では気づいてたのかもしれないけれども、異性愛者として結婚した後の話、した後も人生が続いていくっていうお話で、そのときにやっぱりずっと思い続けてるのは同性のパートナーというか、恋人のことっていうところでは、やっぱり自分の作品ともちょっとかぶるところもあるので、そこの折り合いというか、やっぱりそれって何て言うか一般的に言うと、よく私の漫画でもレビューというか批判として「いや、ゲイだろうが何だろうが、不倫は不倫じゃん」とか言われるんですけど、でもそれって同性婚が当たり前にできる、同性婚だけじゃなくて、どういう組み合わせのパートナーシップも認められる社会だったらなかったことだと思っているので。「不倫は不倫じゃん」っていうのはやっぱちょっと違うよなって個人的には(思う)。不倫は不倫なんだけど、傷つけてるのは間違いないんだけど、なんて言うか……同性愛者だっていうことを加味せずに論じて良いことではないとは思っていて、個人的に。で、『ユンヒへ』と『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』は異性愛者としてパートナーシップを結んだ相手に対してはやっぱり不誠実なところはあるけれども、でもそうなった根本考えてみなよ、社会構造だよねっていうところまでちゃんといけるかっていうのがこういう作品のときに大事かな、とは思っていたりします。

坪:そもそも不倫っていう言葉自体、気持ち悪いっていう感覚が私の中にすごくあって。いわゆる倫理に反してるってことですよね。あるいは倫理が不在ということなんですけど、倫理って何だよっていう。その倫理って、いわゆる社会が作った規範、良いこととされてる規範なわけじゃないですか。でも、個人によってパートナーとの関係性っていうものは、正しい正しくないでは分類できないものじゃないですか。だから結婚しているけれども、互いに恋愛関係・恋愛感情がなくて、ほかに愛してる人がいるっていう家庭を持ってる人だっているし、それってじゃあ不倫なのって話になるし、結局人と人との関係性でしかない。そこにしか、その相手と自分の間にしか答えがないものを、他人がジャッジしようっていうこと自体が何か非常に、なんだろう……なんでそこに介入していいと思ってしまうんだろうっていうところで、不倫という言葉がまず気持ち悪くないか?っていうものなん。倫理って誰が決めてんだよっていう話じゃないですか。学問としての倫理はもちろんありますよ。学問としての倫理があるのはわかるし、でもそれも開かれてるものであって、それを何をどうして定義するのかっていうところから学問として始まってるわけじゃないですか。それを一般的にどんどん落とし込んで正しい/正しくないしてること自体が、それこそカギ括弧付きの「不純」ってやつなんじゃないのかって思っちゃいますね。なので綾野さんの漫画を見てて思うのは、あれを不倫漫画だと言ってほしくないというか、3人の在り方の話だと思うんですよ。その3人がどこに自分の気持ちや考えや相手との思いを落とし込んでいくかっていう話であって、あれは不倫の物語ではまったくない、っていうことをコメント欄を見てて思います。

綾:ありがとうございます。

関:読み手、コンテンツの受け手側がどういう意識でそれを見てるかっていうのがやっぱり大きく影響を与えていて、不倫もの的な捉え方をする場合には、やっぱそれはエンタメとして消費する目線だと思うんですよね。なんかゴシップというか、人の色恋沙汰を見てワイワイ楽しむじゃないですけど、そういう見方でしか作品を見れないと、不倫だって考え方になりますよね。そうじゃなくて、これは人間関係の話であって、この3人、あるいはその周りの人たちも含めてベターな解決策っていうのはなんなんだろうっていうのを考えていく物語なんだって捉えれば、見た目上は不倫かもしれないけど、現状の社会から見た場合は不倫かもしれないけど、でも作品の本質はそこじゃないよねっていうところに気づけると思うんで……なんだだろう、やっぱり批評する観点の種類というか、その引き出しの数が多くないと、そもそも男女が出てきて、それが誰を相手にするかしないかみたいなことをやり合ってるっていう時点で、なんか恋愛バトル漫画みたいになっちゃう、脳内が(笑)。誰と誰がくっつくんだ?みたいな、それしか考えてないので、そういう見方になっちゃう。結局だから男女二元論だったり、モノガミーみたいなそういうところだけの視点で捉えると、そういうことになっちゃうので、そこの視点を打破するというか、攪乱するみたいなのがクィア映画なり作品なりっていうところだと思うんで。だから『ユンヒへ』も綾乃さんの本を不倫だって思って読んでる人は、たぶん『ユンヒへ』を見ても不倫だと思っているんだろう、そういう見方をしちゃうんだろうな、と。何を描いてるかはたぶんわかんないというか。

坪:それを社会が作っちゃってるっていうことですよね。結局、ほかに好きな人がいるということがもう罪であるというか、それが罰せられるべきであるっていう考えをあまりにも植え付けられているし、それこそ貞操みたいな。これも本当に気持ち悪いんで言いたくないんですけど(笑)、かっこつき「貞操」みたいなものをものすごく意識してしまっている、せざるをえなくなってるっていうのを感じますね。なんか自分もこの27年間生きてきて、特に10代の頃はすごく貞操観念みたいなものにものすごく囚われていて、いわゆる恋愛したり、性的な接触を持つことがもう不純である、みたいなものにものすごく囚われてたんですよ。それは自分の性的なものへの嫌悪みたいなものももちろんあったと思うんですけど、やっぱりそれも完全に社会からのものだし、そういうことを話すべきでないみたいなものが強固にある。いまの若い子たちも当然、そういうふうに思って生きてしまっているっていうことが、ここまで繋がってきてるなっていうのを本当に不倫という言葉とかを見るたびに思います。そしてどうそれを打破していけるかっていうとこですよね。

関:『ユンヒへ』の中でも、その構造というか制度みたいなものによってあらゆる登場人物が苦しんでるわけじゃないですか。もちろん主人公はそうだしで、主人公の元夫もある種の被害者ではあるわけですよね。結婚したはいいけど離婚することになって、そこに何らかの罪悪感も感じてるわけですよね。終盤の再婚の報告しにいくときの感じとか、すごい複雑な感情を表現してたなと思ったので。幸せになってごめん!みたいなとこも含めて。で、あんまり背景がわからなかったので。どこまで二人の間でセクシュアリティの話をしたのかとか、そういうのが描かれてはいないので、どういう関係性で、どこまでの事実を知ってるのかっていうのは全然わからないんだけども、でも、なんかしらの罪悪感を感じながら、再婚報告をしにきてるみたいなところを見ると、やっぱり誰もがただの悪人じゃないというか、やっぱりこの制度とかそういうものがあったからこそ、お互いに気まずい思いをしてしまう、傷つけてしまうみたいなところがあって、そういうところを描くっていうのと、それを感じ取ってもらいたいっていうか、観客側はそれを感じ取らなくちゃいけないんですけど。僕的には再婚報告のところは結構大事なシーンだったなと思うのと、あれがわりと最後のほうにきたじゃないですか。そのあと精神病院へと通わされてたみたいな、重めの事実を語るところも最後の方にさらっと、テキストだけでぱっと説明したのも、構成として良かったなと思って。小樽で再会して、希望、いい終わり方じゃないですか、あのままいけば、観客がもうちょっとテンションが上がるというか、でも、その後にサラッと結構重めの事実を入れるっていうのは、観る側に対するクッション的な効果ももしかしたらあったというか、最初の方に精神病院に通わされてた話を見ちゃうとただただ見てる側がダメージだけをくらうみたいなことになっちゃうと思うんで、その辺もうまかったなというか、凄い綺麗な映画だったな、個人的にはそういうとこも含めてうまく包んだなっていう感じが印象としてありますね。

坪:監督がその男性キャラクターに自分の身の周りの男性キャラクター、目にした男性の一例を反映させたけど、全員を悪魔化したくはないっていうふうに作ったとインタビューでおっしゃっていて、まさにそれがすごく出てるなと思います。結婚を打ち明けるシーンのところもそうだし、セボムの恋人のギョンスも一切、セボムのこれからの選択に対して何かを決めつけたりとか指示したりっていうことをしない、彼女のやりたいことを尊重して一緒に考えたり、一緒に受けとめたりするっていうことをギョンスはしていて、それもすごく監督の視点というか、女性だからそういう繊細なことをわかっているとか、男性だからむやみに他者を傷つけたりとか無自覚に人を傷つけるみたいな、性別で何かを括るような書き方を絶対しないっていう意思がすごく感じられたなって思っていて、例えば酔っ払って家にいるとかって本人は甘えてるつもりなんだろうけど、普通に怖いじゃないですか。

関:最初のほうのシーンですね。

坪:やっぱりあれはユンヒが受けとめてくれるってわかってるからやってる、許されると思ってるからやってる、ああいうところもやっぱり有害は有害だと思うんですよ。だけど、そんな彼も結婚報告のときにああやって涙を流して「ごめん」っていうシーンがあるっていうところで、ただ単に彼だけにものすごい問題があって、家族が破綻したわけじゃない、っていうのを説明しなくても説明しているというか。あれがある意味説明なんですけど、っていうふうになっているなと思ったのと、結婚報告で泣くっていうとこにやっぱ意味があると思っていて。自分は好きな女性、ですよね?好きな女性と結婚できる立場であるっていうことに対する涙なのかなって、自分はできるけれどもユンヒは、っていうこと(=ユンヒのセクシュアリティ)を(ユンヒが)どこまで明かしてるかはわからないけども、たぶんユンヒに誰かを思う気持ちがあって、それが自分には向いていなくて、でもそれはかなわないって言ったらあれですけど、もしかしたら自分みたいにはすんなりなることはできないんじゃないかっていうのを感じていて、それに対する謝罪だったんじゃないかっていうふうにも読めるっていうところが、撮り方がうまいと思います。

綾:なるほどな……。

坪:破綻した家族っていうものを描きながら、ある意味人と人とが繋がってるみたいなものを描くのが上手い監督だなと思っていて……。

関:誰もカミングアウトしてないんですよね。誰もって言うとあれですけど、なんでパパとママは離婚したの?って聞かれたときに「ママは人を寂しくさせるんだよ」みたいな感じのことを言ったシーンがあって、セボムにとってみればなんだその答えは?なんだけど(笑)、もし仮になら元夫が(ユンヒが)レズビアンであるということを知っていたのであれば、そういうことは本人(=ユンヒ)から言うべきだっていう配慮なのかもしれない。でも何かしら言わなくちゃいけない、納得させるためにそういう言い方になったのかな、みたいなことも考えられる。あと、おじさんのカメラの現像しに行ってるときも、ママの面白い話ないの?と訊いてるけど、あれも(おじさんは)あんまり答えてないでしょうね。

綾:はぐらかしてましたよね。

関:その前に手紙読んでるからなんとなく昔の友達がすごい大切な人なんだなっていうのはセボムもわかっていて、だからこそおじさんに若い頃って何か面白い話ないのって聞きにいったはずで、でもそこを上手くはぐらかしてる。しかもあのお兄さんは決していい人じゃないですよね(笑)

坪:はっきり言って嫌なやつですよね(笑)

綾:そうそう(笑)

関:諸悪の根源みたいな人なんだけど、そこは配慮してるのかな?みたいなとことか、やっぱり100%の悪人にはならない感じが(この作品の)特徴だなと。

綾:セボムで言うと、セボムはずっと写真を撮ってるじゃないですか。その設定がすごく素敵だなと思って。おじさんに現像を頼むときに、人物が全然いないねって言われて、綺麗なものしか撮らない、だから人間は撮らないんだみたいなとこで、セコムめっちゃええやんと思ったんですけど(笑)。私が印象に残ってるのがユンヒとジュンの両方がタバコを吸うシーンっていうのが結構印象に残ってて、さっきの社会構造の話でいうと、女性はこうあるべきだとか、大人はこうあるべきだみたいなのから外れて、彼女たち自身でただいるときにタバコを吸ってるのかなって勝手に思ったんです。ただの人間として。もしかしたら二人が若いときに一緒に吸ったりしたこともあったのかなとか。人は撮らなかったセボムが最後、唯一というか、人間を撮ったのがタバコ吸ってるときのユンヒなんですよね。セボムはずっとお母さんに、お母さんじゃなくてユンヒであってほしかったのかなって思って。自分のために犠牲になってるお母さんっていうのはすごく嫌だっていうのを感じて、実際に(そういうことも)言ったと思うんですけど、それは私にも身に覚えがある感情というか、親が子どもである自分のために我慢してるんだよっていうのを感じたときに「いや頼んでねえし」みたいな(笑)。それで私が幸せかって言ったらそんなことないよって。あなたがちゃんと幸せでいるほうが助かる、って気持ちが自分にもあるので、セボムのそういう気持ちがすごいわかる気がしちゃって。なので、母親であるユンヒがただただユンヒとしてたばこを吸いたいから吸ってるっていうところが「あっ……すごく綺麗だ」と思って撮ったのかなっていうふうに思って、すごくそこが好きだったんですけど。

関:仕事終わりのひとりで一服してるシーンが2回くらいありますよね。

綾:バス停のとこですよね。

関:あと、そのまま場面の移り変わりでジュンがタバコを持ってるシーンになるところがあって。タバコ吸ってるシーンが二人連続してる感じの。病院に猫を連れてきたリョウコとお酒を飲みにいっているシーンと連続するところで、たしか二人とも(=ユンヒとジュン)タバコ吸ってるんです。ユンヒが吸ってるこの(タバコを指に挟んでいる)構図がそのまんまほとんどジュンが同じポーズをとっている構図にぱっと切り替わって、煙がブワってなってるみたいなところがあって。その後にジュンが涼子からたぶんこのままだと同性愛者としてのカミングアウトをされるんだろうなってことをなんとなく察知して、それは言わないほうがいいということを、しかも自分も同性愛者であるということを隠して、在日っていうことでいいのかな、母親が韓国人だということを隠して生きてきたっていうことを引き合いにして、(リョウコに)言わせないようにするっていう、大事なところに移っていったんで、やっぱりタバコをモチーフとして、 なにかしらの意味を持たせてるんだろうなって。

坪:私はあのたばこは発炎筒というか狼煙だと思っていて、自分の居場所というものの確立というか、ジュンは彼女(=リョウコ)と飲んでいるときのシーンで吸うじゃないですか。あれはその後の話も含めて、やんわりとした拒絶だったと思うんですよね。ある意味受け入れてるんだけれども、一緒には歩めないっていう明確な区切りというか、そういうものだったし、ユンヒはユンヒで自分が孤独だったりとか、悩んでいるとき、寂しいと思うときに必ず吸うっていうふうに(場面が)差し込まれていて、意識的かどうかは別としてある意味狼煙というか、自分がここにいるっていう、それも互いをどこか意識した狼煙で、自分はここにいる/あなたはそこにいるっていう感じなのかなっていうふうに思ってて、カットバックまではいかないですけど、ユンヒとジュン(のタバコを吸う構図)が重なるシーンっていうのは、まさにその二人の時間が合わさりつつある、二人の孤独が合わさって二人になる、という暗喩をやっているのかなと。それで、セボムっていう名前が「新しい春」っていう意味らしくて、この二人の冬を打ち壊す春ということなんですよ。

綾:なるほど、そんな名前だったんだ……。

坪:ある意味停滞としての冬というか、静かで、雪と月しかない小樽の中で、美しいけれども寂しいっていうものを、悪い意味ではない暴力性によって強引に引き寄せる引力のような春、という存在がセボムで、ものすごく意識的に名前も選ばれてるなというか。

綾:そうですね。無理やり雪解けさせる春っていうことですね。

坪:というふうになっているなと思っていて。だから最後もたぶん春で終わってますよね。だからユンヒが自分は罰だと思って生きてきたって言ってるじゃないですか。ジュンと別れたあとの自分の人生に対して。その罪っていうものが罪でないってことがわかる。だから、自分に課していた手錠を自分で外すってことですよね。っていう物語になっているなって思っていて、それをセボムがやるっていうことにやっぱり意味があるというか、言い方はあれですけど、自分の娘に許されることで、自分が自分を許せるっていうことになってる。ジュンはおばに許されるってことですよね。だから他人に許されて初めて踏み出せるというか。それが初めは意図的じゃなかったにせよっていうのがよかったなと思っていて。

綾:私はその許されるっていうか、(事の)きっかけを作るのが、片方は娘であるセボムで、片方は1個上の世代のおばさんであるマサコっていうのがいいなって思ってて。ユンヒとジュンの世代じゃない、1個上の世代と1個下の世代が、手紙を出したりとかして仕向けるわけじゃないですか、ユンヒとジュンが雪解けするようにというか。それをする世代が上と下だったのが熱いなと自分は思いましたね。

関:マサコさんがどういうセクシュアリティかっていうのも明示はされてないんだけど、ジュンが「私と似ている」というようなことを言っていて、少なくとも結婚はしてないんですよね。トイレの芳香剤の匂いがする初恋の人の話をしてるだけで。上の世代としてなおさら厳しい時代というか理解のない時代を生きてきたであろう世代のマサコと、その2つ下の孫世代が、しかも二人で示し合わせたわけじゃないのにもかかわらず重なってっていうところが物語の形として綺麗だし、とにかく希望を感じられる構造になってますよね。世代という意味でも他者なので。あと、そもそも異性と結婚してなければセボムは生まれてないんですよね。そのセボムに引っ張っていかれて雪解けというか、自分の人生が罰じゃないという結論にいけるっていうのがなおさら、構造として皮肉でもあり希望でもありというか、複雑ではあるんだけども、「私たちは間違ってない」っていうようなことも最後にトラックの中なのかな?とかでモノローグみたいな感じで言ってて。だからそこも含めて、当時は異性と結婚せざるを得なかったしジュンと別れざるを得なかったっていうとことかも全部含めて、ちゃんと自分を肯定している。でもやっぱりそういう社会、制度が成り立ってない社会っていうのはよろしくないよねっていうとこもちゃんと言えるというか。そのどっちかだけになんないっていうところがなおさらよかったなと思いますね。あと、凄く細かいとこなんですけど、自分の人生は罰だと思ってたって点で、2回目観たときに気付いたんだけど、2軒目の宿に行くときに「お母さんいつも手首さすってるから病院に行きなよ」みたいなこと言われますよね。あれもだから罰の意識なんだろうなと。病院に行かない、痛いのを我慢して行かないみたいな。あのシーンに何か意味があるのかなと思うと、そういうことなんだとしか思えないので。

坪:それはたぶん凄く意識的に散りばめられていて。セボムになんで生きてるの?って聞かれたときに子どものためって答えてるじゃないですか。あれも結局そう言うことで、でも雪解けしたあとは自分の夢を語るんですよ。すべてが自分のために動き出す、自分のためにも動き出すっていうところが、そこもたぶん凄く強めに、意識の散りばめとして含まれていて。それこそジュンに会いに行かなかったこととかも含めて罪/罰だと思っていて。しかも自分には合わないって思ってる仕事を続けていたこととか。

関:配膳する仕事だから食のことなんだけど、本当はやりたいわけじゃない。妥協の産物であの食堂センターみたいなとこで働いてるってことですね。

坪:一度勇気を出してジュンに会いに行くけど、会わないじゃないですか。彼女の姿を見ただけで。あれとかももちろん、長年会ってなかったから会いにくいとか、そういうこともあるとは思うんですけど、あそこで会えないっていうところもたぶんすごく自罰的に自分は幸せになっちゃいけないっていう、いまさら都合がよすぎるみたいな自罰からきてるだろうなっていうふうに思うし……。

綾:まだ許せないでいるってことですよね、あの時点では自分を。

関:モチーフみたいな話をすると、この物語はやり直しみたいなものが一つのテーマだなとは思ってて。最初に手袋を校庭で拾ってギョンスが「リメイクするの趣味なんだ」っていうシーンがありますよね。

坪:修復する、作りかえる、ですよね。

関:セボムが使ってるカメラもユンヒが使ってたのを直して、もう一回使ってる。リユースでありリサイクルでありというか、もう一回リペアしてリユースしてっていうのだし。あと手紙もジュンが書いては出さず、書いては出さずっていうのも、リライトですよね。そういう構造、やり直して、循環というかなんていうか、そういうところから、でも一歩踏み出せないでいる、という状況があって。雪かきもそれなんだろうなとあとから気づいて。どんだけかいても雪がある。降り積もっちゃうから意味がないみたいな感じの描写をされるじゃないですか。それもやっぱり何回も同じ事、ちょっとずつ毎回違うんだけど、構造としては同じことをずっとやり続けて、でもそれがなかなか実を結ばない。だけどもやり続けなくてはいけないみたいなところがモチーフとしてあって、最終的には自分の人生をもう一回やり直す物語、最後、少なくともユンヒにとっては、自分の食堂を開きたいっていう夢ができて、履歴書も新しく書いて、証明写真も新しく撮り直して、住む場所も新しく、セボムの大学の近くなのかな?に移って、っていう。そういう生まれ変わりというか、接頭語、頭に「re」がつく感じの、そういうのがモチーフになってるんだなと思って、それがよかったですね。

坪:雪国出身として一つ文句があるのは、雪かきはもっと大変ってとこ(笑)

綾:あんなもんじゃない(笑)

坪:あんなもんじゃないってとこが結構腹たってるんですけど(笑)、『ユンヒへ』に関してはほぼ批判点がないんですけど、やっぱ雪の表象に関しては結構問題があると思っていて、やっぱり美しい景色になっちゃってるんですよね。でも、私が育ったのって雪国って言っても、東北の雪が比較的少ないところなので、こういうことを言うと北海道のことを知った感じになっちゃって怒られるかもしれないんだけど(笑)、北海道の雪とか新潟の雪って本当に命に関わるものなんですよ。その雪と、いわゆるLGBTQのことをダブらせて表現したかったんだとは思うんですね。関口さんがおっしゃってたように、雪をかいてもかいても終わらないということ、だから邪魔なものを排除して自分が生きていこうとしても、やっぱり何度も邪魔されるということだと思うんだけれど、それをやっぱりどかしていかなければ生きていけない辛さっていうものがあって、けれども、一方でそれを一気に溶かしきる季節がやってくるっていう未来への希望ですよね。というものを同時に描きたいっていう意図は伝わるんですけど、だったらもうちょっと雪かきのシーンをきつく描かないと(いけない)。「雪はいつやむのかしら……」とかっていうレベルじゃないんですよ(笑)。

綾&関:(笑)

窓の外を見ても罵詈雑言が出るくらいムカつくことなんですよ(笑)。それこそスキーウェアを着ても浸水する感じなんですよ。なので、やっぱりここはもうちょっと、あまり美しすぎない雪も描かないと、あまりにも美しいLGBTQ映画っぽくなってしまうところは批判点としてあるなというか。とはいえ『ユンヒへ』のすごくいいところは(ほかにも)たくさんあって、たとえば性的なシーンを一切描いていないっていうところ。もちろん描く作品がダメってことじゃないんですけど、やっぱりLGBTQ映画においてセクシャルなシーンを描くことが、ある意味なんだろうな……興奮として消費されてしまっているっていう危機感がずっとあって。いわゆる肉体の絡みっていうことですよね、映画でいう。

関:珍しいものが観れるって言うのも含めて……。

坪:珍しいものが見れる、エロティックなものが見れるっていうことで消費されてしまうことはやっぱり違うとは思っていて。この中年二人のレズビアンの関係っていうものを描いたところが、まず素晴らしいと思うんですけど。やっぱりLGBTQ映画って若い人の主人公っていうのがすごく多いので、それがもちろん悪いことだとは思わないんですけど、やっぱり中年・老年って人間は年を重ねるんだから、いるんですよね、当然、中年のレズビアンも中年のゲイも中年のパンセクシャルもいるんですよ。だけど、やっぱりそういうものが取り沙汰されない、そういう人たちが主人公にはならないということがやっぱり多くて、その中で『ユンヒへ』が中年女性レズビアンの関係を肉体関係だったり、そういういわゆる派手なことを取り扱わずに、かつ、いままでずっと愛し合っていた二人の再会の物語を描いてるっていうところが大きい。恋愛する映画じゃない。恋愛がもうすでに始まっていて、それが他者の暴力によってかき消されてしまって、心が折れてる二人がいるっていうところから、それこそやり直していくって話ですよね。やり直していくというか、もう一度出会い直して繋がっていくっていう話だし、それが二人が主体的に繋がっていくのではなくて、他者の助けを借りて繋がれる。その3つがやっぱり重要だし、重要なことをすべて踏まえているっていうところが『ユンヒへ』が優れてるところのひとつだなと思っていて。で、やっぱり監督がはっきりとこれはレズビアン映画だと言っているところも素晴らしいなって思うんですよね。やっぱりこの日本の邦画のひどさを見ていると(笑)。「これはLGBTQ映画だとはっきり言えるもの、これはフェミニズムの系譜でなければ作り得ない物語だ」ってはっきり監督が言ってて、かつ日本の配給・宣伝のトランスフォーマーもはっきりこの映画がレズビアン映画だってことを何回も、それが消されそうになるたびに修正してきたっていうこともあって、それは本当に重要だなって思いますね。

綾:いろんな暴力のせいで引き離されてしまった二人が、ただ引き離されちゃった……っていうので終わりじゃないのが、すごくやっぱりいいなって私も思ってて、当事者じゃない周り側が、さっき坪井さんも言ったみたいに周りとかがちゃんと助けて、それでちゃんとやり直せるっていう。しかも年齢ももう結構中年の、ユンヒにいたっては学歴とかも社会圧とかでなくて、兄弟に「お前なんて何にもできない」みたいなことを言われるシーンとか、もう本当に腹が立ったんですけど。誰のせいなんだよって感じですけど。それでもやり直そうとして、やり直す一歩をちゃんと踏み出すところまで描いているっていうのが、「大丈夫だよ!」ってなんか言っているような、メッセージを感じるというか。そうやって社会とか周りとか、いわゆる世間とかにぐちゃぐちゃにされちゃって、それを自ら罪だと思い込んで「これは罪だから罰なんだ」っていう人生を歩んでた中年のレズビアンの女性が、「いや、そんなことない。ちゃんといまからでもやり直せる」って周りにすごく背中を押されて、それを受け取って踏み出すっていうのがすごくやっぱりいい映画だったなと。途中途中、引き離されることになったこととかを思うとやっぱりやるせないし、物凄くつらいし、しんどいんですけど。でも、それでもちゃんとやり直せるっていう、関口さんがおっしゃった、全部やり直す・壊れたものを直すっていうのが本当にメッセージ性があって、ちゃんと希望を提示してるところがやっぱり素晴らしいなって改めて思いました。

坪:いや、ほんと日々生きていて、なんで当事者が頑張んなきゃいけないのって思うんですよね。もう頑張ってるじゃんってまわりのクィアの子たちを見てて、いや、もう十分すぎるほど頑張ってるし頑張り過ぎてるほど頑張ってるのに、なんで当事者がもっと頑張らなきゃいけないのって思うんですよね。『そばかす』のときも関口さんと喋ってたんですけど、やっぱり当事者が安全な道を歩けるようにする、道を作るのは絶対にまわりの責任、マジョリティの仕事なんですよ。

綾:雪かきはマジョリティがしないと……。

坪:そうなんですよ。『ユンヒへ』はやっぱり当事者が頑張って繋がる必要ないじゃんって。だって引き離されたのに、もう頑張れないよっていう、だから頑張れるようにしてよっていうところを描いているところがいいなって思います。

関:直接的に「会いに行きなよ」じゃないところがまた、配慮というとちょっと陳腐な感じになっちゃうんだけど、あくまでも自分の意志としてやったことっていう道筋が作りたい、みたいなところが感じられるというか。一緒に旅行に行くついでに会いに行きなよみたいなことを言っちゃうんじゃなくて、騙してるんだけど(笑)、高校生が考えうる最良の手段ではあると思うんですよ。みんな母親と大学入る前に旅行行くらしいよ、みたいなことも含めて。あれも本当かどうかわからないじゃないですか(笑)。そうやってもっともらしい理由をつけてうまく誘導するというかそうやってひっぱり出していって、っていうのがある種おせっかいではあるんだけども、でも、なんかそれも嫌なおせっかいではないようにちゃんと描かれているので。これはやっぱりあれですね。『そばかす』のお見合いさせたがるお母さんとは違う点ですね(笑)。

坪:そうですね(笑)。きっかけは投げかけるけれども、そのきっかけを結ぶかどうかは本人でまかせてるってことですよね。だから、リボンとリボンは引き合わせるけど結ぶかどうかは二人が決めてねっていうことだと思うんですよ。ただ、そもそもそのリボン自体が切り刻まれている状態だったから、それを縫って縫ってやり直して、で、ここから先どうする?っていう問い。で、さっき性的な表現がたぶん意図的に外されててよかったって話したんですけど、(二人が小樽で)会った先の話を飛ばすじゃないですか。あれもよかったと思っていて。やっぱり正直私も含めて観客が見たいのって、会ってなにを話すかなんですよ。会って、どんな会話するんだろう、どんな二人のエピソードがあるんだろうとか、何から話すんだろうとかって気になるし、すごい気になってたんですけど、そこを思いっきり飛ばすじゃないですか。あれがすごいよくて。ようは二人の間の大事な、二人だけの時間っていうものを消費させないっていう強い意志ですよね。で、その後は描くことでなにが話されたかを想像させるっていうのが、「手抜きの省略」じゃないっていうところが本当にすごいなと思うんですよ。脚本の授業でも散々言われているところの一つが省略をするなってめちゃくちゃ私は習っていて。飛ばすってことは、その間がちゃんとあって飛ばしたんだったらいいけれども、ただ飛ばすのは手抜きでしかないっていうのはすごい言われて、めちゃくちゃみんな怒られてたんですよ(笑)。私は逆に書き過ぎちゃうので、いつまで書いても終わらないみたいな。「お前の脚本何百枚あるんだ」とか言われて「いや、超大作ですよ」とかって言ったんですけど(笑)。省略がやっぱ手抜きになってしまうと、ただただ物語が抜け落ちるだけなので。たぶんそうやって綾野さんも意識して作ってらっしゃるんだろうなって思ってるんですけど。

関:漫画はなおさら時間の経過とかを描くの難しいから……。

綾:そうですね。なるたけ大事な、私の場合は、読者が見たいであろうなっていうものはなるたけ飛ばさないようにっていう風には(考えていて)。ここにこういうイベントがあるはずだとか、こういう投げかけがあったんだったら、こういうリアクションがあるはずだっていうのは絶対読者は見たいはずであろうっていう(想定の)もとに、なるたけ飛ばさないように描いてるんですけど。いま坪井さんの話を聞いて、あったうえで、あえて描かないっていう手法もあるんだなと思って、なるほどって思いました。

坪:でも、綾野さんの漫画は本当に気持ちが大事な作品だと思うので。気持ちが大事じゃない漫画なんてないんですけど(笑)、それを前提としたうえで、やっぱりものすごく繊細に進めなければ、ちょっと間違えたら危うくなってしまう題材なので、綾野さんも自覚的に書いてらっしゃると思うんですけど。私はどうしても脚本目線で考えちゃうんですけど、私だったらこのシーン背景同じだな、同じ場所のシーンが重なっちゃうなと思って、どうしようかなって思って飛ばしちゃうかもなっていうところを、綾野さんは絶対外さないで描くので。

綾:進まないっていう印象を持たれちゃうときもありますけどね。

坪:それがすごいいいというか。だからこそ、気持ちに置いていかれない、読者が置いていかれないなっていうのをすごく思っていて。

綾:ありがとうございます。

坪:綾野さん本当に省略しないなって思ってたので、『ユンヒへ』の意図的な省略を見て、やっぱり物語を大事にする省略と(大事にする)省略しないの精査みたいなものってやっぱり本当に重要だなと改めて思って、自分も描いてて気が引き締まりますよね(笑)。

関:受け手が期待するであろうものを描く/描かない問題、悩ましいですよね。僕はそういう作り手側のことは全然勉強もしてないし、作る側にはならない、いまはなってないので、いまのところは完全に読んでる側でしかないんですけど。映像作品はわりとそういう省略がしやすいのかなっていうのは思いますね。

坪:映像はめちゃくちゃ省略しますね。やっぱ同じ絵が重なるっていうか、背景が重なってしまうと、時間がわかんなくなっちゃうので。たとえば同じ家のシーンだったら家に時間のものってないじゃないですか。時計とかしか。でも時計急に映っても意図的じゃないですか(笑)

関:『24』みたいになっちゃいますね(笑)

坪:だから一回外のカットにいって夜ですっていうシーンを入れたりするんですよ。わざわざそのなんだろう、まあありがちですけど、家の外観を撮って「空が夜です」っていうのがあえて挟まったりするじゃないですかドラマって。あれは時間をわからせるためなんですよ。そういう省略だったり補足みたいなものの繰り返しが映画とかドラマとかにはあるんですけど、やっぱそれがないとなんか見てられないっていうのがやっぱある。停滞しすぎちゃうとなんか見られないっていうのは結構あって。私が『そばかす』に感じる閉塞感ってそこなんですよね。あんまりあの映画は背景を考えないので、ものすごく距離が近いし、顔のカットがあって背後壁だったり、白い壁とかですね。そんなカットあるか!?とか思ったんですけど(笑)。でも関口さんがそういう閉塞的な当事者の気持ちをあえてそういう狭い場所で撮ってる表現なんじゃないかっておっしゃってたんで、自分のすぐ批評するところ、反省したんですけど(笑)。

関:その場で思いついたことを言ってるだけのときもありますけどね(笑)。構図っていうのをちゃんと考えて作ってる作品っていうのはやっぱり面白いなと思って、今回『ユンヒへ』で構図に関して面白かったのが、バックに電車が走ってるシーンの描き方が面白いなと思って。1回目が、ユンヒが職場に行くのを急にやめて、バスというかピックアップしてもらう車に乗らずになんかぼんやりとした感じで歩いてるシーンに変わって、それは後ろから撮ってるんですよ。ユンヒの後頭部が映ってて、後ろ側から至近距離を電車が通り過ぎていって、それでなんかちょっと我に返ったような感じの描き方というか。ちょっと心を揺さぶられることがあって、急に仕事を休んでしまって、すごいぼーっとしてる。自分(の思考)がまとまってないというか留まってないみたいな状態で歩いてるときに、急に電車が近くを通ってハッとなるみたいな感じなのかなって思ったんですよね。で、そのあとに、自分の意思で食堂の仕事を休ませてくれと言って、たぶんあれは休んだらあなたの居場所はもうないからクビになっちゃうよっていう話だと思うのんですけど、それで「いや待たなくていいです」って職場を去って、その次のシーンで今度はユンヒを前から撮ってて、その後ろからわりと遠景で電車が通ってますよね。だからユンヒの後ろ側から電車が通って前の方に進んでいくっていうんですかね。ユンヒと同じ方向に電車が動いてるのは一緒なんだけど、1回目は後ろから撮っててわりと至近距離を音も大きめでブワンと通っていって、2回目はユンヒの前から撮ってて電車もかなり遠くであんまり音とかも聞こえないし、ユンヒの表情が自分の意志で休みとって会いに行こう、小樽に行こうということを決めたあとで、わりとすっきりした顔をしているシーンで、同じ電車を通らせる、歩いてる後ろに電車を通らせるシーンで、この明暗みたいなものを書きわけてるのかな、と。しかもそのあとすぐ小樽で電車に乗ってる車窓のシーンになって、それが映画の冒頭のシーンと同じ車窓のシーンで。でもその(中盤の)シーンではすぐにセボムが映って、人が乗ってるっていうのがすぐわかるっていう状態になるっていうところで、うまく対比させる構造はそこで作りたいのかなと思ったり。廃線になった跡なんだよとかそういう会話もあったり、なんか電車や乗り物みたいなのもモチーフにしてるのかなみたいな。雪が積もっちゃった車の写真も撮ってたし、そういうのもうまくなんかしら入れてるんだろうなって。

坪:遮断していた線路って、向こう岸とこちら側ってことじゃないですか。だから「越えていく」っていうことと、電車に乗って「本来行くべきところに辿り着く」っていうことがもう1個あって。廃線のところで一回立ち止まるわけですよね。自分がずっと来たかった過去に立ち返るってことだと思うんですよ。過去、自分がそこで遮断されちゃったわけじゃないですか。ユンヒとジュンの未来っていうものを廃線にしなくてはいけなかったっていうことで、そこに雪が積もってるってことは時が重なってるってことで。だから時間が経って廃線した二人っていうところから、遮断されてしまった二人っていうところに立ち返るっていうシーンなのかなという風に思っていて、そこから雪がとけるわけですよね。だから時がとけていくとか、わだかまりがとけていくっていうことで、あえて最後に電車を持ってこなかったのは、もうどこにでも行けるから何線じゃなくてもいいんだなっていう風に思っていて。自分で場所さえも決めていけるから。今回、ユンヒがジュンのところに来るから、電車っていうひとつの線路を、行き先が決まってる線路に乗ってきたけども、これから先はもう自分の好きなように決められるから、もう線路でなくていい、電車でなくていいってなんだな、っていうふうに私は読んでましたね。

綾&関:なるほど……!!

坪:こういう深読みで生きてるんですよ(笑)

関:そういう深読みを聞いたときに納得できる作品なんですよね。ようするにちゃんと作ってるから、受け手側の勝手な妄想を包みこめるというか、説得力あるものにしてくれる。

坪:決して「ぶん投げ」じゃないんですよね。観客にすべてを投げてないというか。監督だったり、制作陣のほうで「こうする」っていうのが決まっていて、盛り込むものは盛り込んで自分たちの答えはひとつあるけれども、どう読み解くかは観客に任せるっていう。だからこその完成度だなって思います。『ユンヒへ』と比べると、綾野さんがせっかく見てくださったんで言うんですけど、『〜ふたりの暮らし』は本当にしんどい話で。

綾:そうですね。

坪:きつい物語なんですよね。いわゆる老年のレズビアンの話なんですけれど、レズビアンということを家族に打ち明けられずに、自分は男性と結婚して家庭を持って娘と息子がいるっていうマドレーヌっていう女性と、そのマドレーヌと恋人関係にあるニナっていうパートナーがいて、ニナはマドレーヌがいつになったらカミングアウトできるのか、家族に。っていうのにちょっと焦れているというか。もう自分たちも老年になってしまって、これから二人で余生って言い方はあれですけど、余生を生きていくっていうふうに思っているのに、二人で暮らすっていうことに関して家族になにも言えてないマドレーヌがいて。マドレーヌは男性と結婚してるんですけど、結婚してる段階からもうニナとは恋人関係にあるんですよね。なのでまあ、いわゆる不倫・浮気として、子供たちにはちょっとわだかまりがあるというか。特に息子には家族で会ったときに嫌味を言われたりとか、父親が可哀想だとか、その男性の父親は死んでるんですけど。っていう話で、そんな二人がやっとローマでしたっけ?ローマで暮らしていこうって話になって、自分たちはいまアパートに住んでるんですけど、向かいの部屋に住んでて一緒の部屋に住めなくて、向かいどうしのお隣さんみたいな感じで住んでいて、家族にはお隣さんとしか紹介していないっていう状態なんですよ。だからそれにすごくニナは焦れていて、マドレーヌはどちらかというと、ちょっと弱気な性格というか、どうしても言いたいことを全部言えないタイプ。誰も傷つけたくないし、自分も傷つきたくないっていう気持ちが強い子なんですけど、ニナはツアーガイドの仕事をしていて、ものすごく主体的というか情熱的だし、オープンというか。ニナとの話の中で、ローマで引っ越すにあたって、いまのアパートの場所を売るってなったときも、その査定をする男の人に「老年のレズビアンはおかしいのか?」みたいなことを詰め寄るぐらい勇気がある人で。だけど、マドレーヌはそうではないっていう主人公で、そんな二人が本当に愛し合っていて……っていうところから話が始まっていくんですけど、結局家族に言えなくてニナが怒っちゃって喧嘩になったあとに、マドレーヌが脳卒中で倒れちゃうんですよ。マドレーヌが倒れてしまって、もうしゃべれなくなってしまって、障害が残ってる状態、失語症かつ脳の機能にも問題があって、過去のことも思い出せているのか思い出せていないのかみたいなところまで酷い状態から話が展開していって、っていう話なんですけど。最初、マドレーヌがなんで家族にこんなに明かせないんだってことがニナはわからないんですよね。ニナは家庭を持っていないし、息子も娘もいないし、本当にマドレーヌひと筋というか、マドレーヌのことが大好きで、二人で生きていきたいっていう気持ちが強い女性なので、なんで自分たちはもう夫も死んでるし、障害は一切合切ないのに、なんでいまだにレズビアンであることをこんな気にしてるのかがわからないっていうニナなんですけど、マドレーヌが脳卒中で倒れてしまってから、カミングアウトしてないから病院とかにも行ってるけど、「なんで来てるの?」みたいな扱いになってしまう。「なんで?」とまでは言わないけど、お隣さんなのにここまでしてくれて申し訳ないんで帰ってくださいみたいな感じになってしまうし、介護の方がマドレーヌにつくようになって、一緒にマドレーヌの部屋で介護をしてるんですけど、そこに会いにいったりとか、なにか手伝いにいきたくても、なんでこいつ来るの?みたいな扱いを受けてしまうみたいな。家族に対しても自分とマドレーヌとの関係をなんて説明していいかわかんないとか、そういうことに触れてマドレーヌの苦しみっていうことを体験し始めるっていうシナリオになってるんですよね。ってところがすごくうまいなっていうのはあるんですけど、いかんせん内容がしんどすぎて。家族は徹底的に引き離そうとするんですよ。気づきはじめてからも。もしかしたらそういう関係なんじゃないかっていうのもだんだんわかってくるんですよ。喋れないけど、マドレーヌがニナがいるときだけすごい行動的になったりとか、ニナと一緒にローマに行くってことが頭にあるから急に旅行カバンに服を詰め出したりとか、そういう行動したりするんですよね。そういうこととか、彼女と写ってるアルバムとかを見て「あ、もしかしたら」って自分の母親がレズビアンでニナとマドレーヌは恋人関係にあるのかもしれないっていうのを子どもたちも気づきはじめるんですけど、そうすると子どもとしては受け入れられないから引き離そうとするんですよ。それがかなりきついっていう。最終的に病院に入れてまで引き離そうとするんですよ。介護の病院なんですけど、そこに入れてまで引き離そうとして。でもその病院からマドレーヌがニナに電話をかけて、ニナは取るけど声は聞こえないんです。失語症になってしまってるので、言葉は出ないけれど、無言の電話がかかってきてニナはすぐ気づくんですよ、マドレーヌだっていうことが、っていうシーンとかがすごいつらくてつらくてしょうがないんですよ。

綾:どんどんひどくなっちゃうんですよね。ニナと会えないことでどんどん病状が。

坪:離されれば(離されるほど)病状が……。

綾:一応最後はね、マドレーヌにはニナが必要なんだってことを子どもも認めざるを得なくなって、ちょっと心を入れ替えようかな?ぐらいで終わるのかな。っていう感じで、悲劇的なだけで終わるわけでは一応ないのかな……っていう感じなんですけど。

坪:あれをどう読み解くかはわかれるかなと思うんですけど、結局引き離されてしまって、家族に自分が説明するってニナが会いに行くんですけど、そこからもう門前払いされるんですよね。息子とお姉ちゃんとそのお姉ちゃんの息子もいるんですけど、その家から追い出されて。でも、そこでニナがぶち切れて窓ガラスを割るんですよ(笑)

綾:激しいんですよね、すごく(笑)

坪:それはすごくよかったんですけど。そのあと彼女(ニナ)が病院に駆けつけて二人で逃げて自分たちの部屋に戻るってラストで。そこに娘が追ってきて「自分が悪かったから話をしたい」っていうふうに扉を叩くけれども、その扉をマドレーヌが閉じるっていう。ニナじゃなくてマドレーヌが閉じるっていう話なんですよ。元気だったときに二人がダンスするシーンがあるんですけど、最後も二人がダンスして終わるんですよね。

関:確かにそのラストは非常に解釈がわかれそうですね。過去に戻って、過去と同じシーンを再演するっていうのはある種、過去に閉じこもちゃうっていうことと同じかもしれないから。扉を閉めちゃうっていうとこも含めて。未来志向、家族に理解してもらって、別のあり方を模索する道ではなく、とにかくよかった頃の過去に戻っちゃう、その道を選んじゃう、みたいな読み取り方もできると考えるとかなりきついですよね。

坪:結局、この話において二人を理解しようとしてる人って最後までいないんですよ。理解しようとしたかもしれないけども、娘は。好意的にとれば理解しようとしたかもしれないんですけど、理解しようとした人はひとりも出てこないんですよね、この話には。そこが『ユンヒへ』とは違っていて、自分たちしかいないっていう映画、自分たちを守れるのは互いしかいないっていう映画なんですよね。

関:ある意味では徹底的にリアルなのかもしれないですね。

坪:これは舞台がちょっと前というか、現代ではないのかな。ちょっと昔っぽい感じですよね。実際に監督もインタビューで、自分の友達にレズビアンの人がいて、本当に仲の良いレズビアンの方がいて、その人たちに了承をとって、二人の物語をある意味フィクションに落とし込んだっていう、実在のレズビアンのために作ったレズビアン映画なんですよ。本人がそう公言していて。だから架空のクィアではないっていうところにものすごく意味があるなと思ってるんですよね。創造とか、いわゆる思考実験だったりとか、消費としてのケアではなくて、実在する二人の、まったく理解されないっていう現実をとことん突き詰めて「こうではいけない」っていうことをはっきり描いてるっていう意味では、すごく重要な作品だなと思ってるんですけど。本当にあまりにもきつい話なんですね。で、二人のダンスのシーンに足のカットが入るんですよ。二人が足踏みをずっとしている、足踏みをしてダンスするシーンが入り込んでいて、毎回ちょっと柔らかそうな絨毯の上を裸足で踏むんですよね。あれが自分の位置を確かめ続けてるというか、自分たちの居場所を自分たちで踏みしめて広げている、っていう表現になっている。他人から奪われている自分たちのその居場所を、自分たちの足で開拓していくっていうふうに描いてるなと私は思っていて。二人でならそれはできるっていうこと。互いに手を取って愛する人と一緒にいる状態であればできるけれども、っていう話だなと受け取ったんですけど。現代を生きている私たちからすると、これじゃ本当にダメだよねって。当事者が足を踏み踏みして自分たちの場所を作っちゃダメだよねっていうのを改めて思わせてくれる映画だなと思って、すごいある意味で重要な映画だなと思ったんですけど。

綾:絶対直面するであろうリアリティーがあるなと思って。本当にいいときの、若いどうしのいいときだけじゃないよね、人生って。そうなったときにお互いに全然違う環境と価値観みたいなのがある二人がいて、だからこれ倒れたのがマドレーヌじゃなくてニナだったらどうだったんだろうなとかも想像したりしたんですけど。そうなったときにマドレーヌはちゃんと「大事な人が倒れたのでそっちに行きます」って言えたんだろうかとか……。すごく生々しくてというか、生々しいだけにすごいつらいんですけど、映像のテンポがよくて、次々にいろんなことが起こっていくので、ずっとドキドキハラハラしながら見切ってしまったっていう感じだったんですけど。でも本当に改めてつらいなって。『ユンヒへ』の世界に二人を招いて、まわりがちゃんと道とかを作って二人が幸せに生きていけるように整備するような世界で、二人を幸せにしてあげたいなって思いましたね。

坪:監督が「どうしても老年の二人というものを取り扱うと、やっぱり死にいくときにどうするかという物語になる」みたいなことをたしかおっしゃってて。だけれども、自分はそうではなくて、これから生きていく二人の物語を書きたかったみたいなことを喋ってて。まさに生きていくってことは、こういうことにぶつかってしまう、老年のレズビアンの片方はカミングアウトしてない(そういう)二人が生きていくってなると、こういうことが起こり得るってことを徹底的にやっているっていうところがやっぱり、これだけつらいってことはリアルだっていうことでもあるし。手放しにハッピーとは言いがたいエンディングっていうところもリアルだよな……というか。

綾:そこだけ変にハッピーにされてもなんか変ですしね。「いろいろあったけどよかったよね」みたいな感じで溜飲を下げられても困っちゃうっていうか。このままじゃダメだってやっぱり思わせないといけないと思うので、リアルな作品であればあるほど。そこは変にっていうか、ハッピーエンド、「ハッピー!」って感じで終わっちゃうより含みを持たせるっていうか。やっぱりこれは辛いことなんじゃないかって、周りがちゃんと思えるような、自分事として考えるようなラストだったんだなって思いました。

坪:前回もたぶん関口さんと喋ったんですけど、クィア映画のラストをどうするかって凄い重要なものだと思っていて、じゃあ悲劇的にすればリアルなのかって言ったら、それはやっぱり違うじゃないですか。はっきりそれは違うと私も言えるんですけど。ただ、クィアが受けてる暴力だったりとか、差別を映せばいいっていう話では当然ない。未来を感じさせない、もうこの世は最悪です、みたいな感じでやればいいとはまったく私は思わないんですよね。もちろんここにいる誰もが思ってないんですけど(笑)。その面では東海林監督ってものすごくクィアの映画を絶対にバッドエンディングにしないっていう意識がある方だなと私は『老ナルキソス』を観て思ったんですね。

関:『片袖の魚』もそうですよね。

坪:最初はちょっとあまりにもご都合エンドじゃないかっていうふうに私は思ったんですけど、こんな全部が上手くいくはずがないとは思ったんですけど、ただ監督の強い意志として絶対にクィアの映画をバッドで終わらせないっていう、彼らの未来っていうものを暗いもので絶対終わらせないって強い意志を感じたので、たぶん作家性なんだろうなと。『老ナルキソス』も『ふたつの部屋〜』を踏まえると、老年のゲイの話なんですよね。パートナーのいない老年のゲイの話なんですけど、パートナーのいない老年のゲイと、若いゲイのカップルで結婚したいと思ってるけど、結婚ができないから同性パートナーシップを結ぼうって思っている片方と、自分が定まっていない片方っていうのを描いたり、いろんな現代の問題点をいろいろ詰め込んでいる作品なんですよ。ゲイが養子を取りたいって思ったときに手続きどうやるんだ?とか、そういうことも全部入れ込んでて東海林監督らしいというか、いまの問題をすべて入れ込んでいるなっていうふうに思ったんですけど、ラストが全員その抱えている問題が一定の解決に至るんですよね。なのできっと悲しく終わらせたくないっていう気持ちなんだろうなっていうふうに思っていて、そうすると対照的だな、と。『ふたつの部屋〜』とは。でも、どっちもエンディングとしてはすごい誠実だなと思っていて。クィアの話のエンディングの落とし込み方って本当に難しいなって。自分も書いてて悩むし(笑)。

関:打ち切りになっちゃった漫画みたいに終わらせちゃまずいですからね。急に場面が飛んで「全国目指そうぜ!」で終わっちゃうみたいな(笑)。やっぱりリアルなものを描くっていうことの難しさですよね。だから覚悟がないと描けないというか。ちゃんと勉強して、意識を持って、それがもたらす効果っていうのはなんなんだろうっていうのをやっぱり真摯に考えたうえでのリアルさの追求だったり、あるいはリアルではないけどこうあって欲しいという未来を描くっていう。

坪:「こうあってほしい」だったり「こうしてみせる」だったりとか。

関:意思をともなったなにかっていうのは、やっぱりそれなりの表現として外に出てこない、受け手の目に見える、耳で聞こえる、そういう表に出てくるものじゃない支えみたいなものがないとやっぱり薄っぺらなものになっちゃうというか。こう表面だけ感動させちゃう系の、マジョリティだけこう「うれしいうれしい」になっちゃうというか、「いい映画だったね〜」って言って、そのあとご飯食べたら忘れちゃってる、そういうのになっちゃうなっていうところですよね。だから(『怪物』は)元気な人は観てもらって、しっかり批評をしてもらって……。

坪:クィアは観ないでほしいですけど(笑)。

関:元気じゃない人は代わりに『ユンヒへ』を観てもらうと。

坪:そうですね。『ユンヒへ』を観てください。で、もうちょっと元気がある人は『ふたつの部屋〜」も観てもいいかもしれない。

関:パワーを溜めてね。

坪:やっぱ今回『怪物』を観たので、クィア映画においてラストを悲劇的に描かないことの意味ってものを改めて考えさせられたというか。悲劇的というかぶん投げなんですよね。答えが出されてないし、別に誰も責任をとってない。ただ、子どもたちは悪くない話なので。悪くない子どもたちが自分たちの足で走ってるっていうだけなので。

関:そのまんまですね。

坪:意味がないというか「知ってるよ」っていう話じゃないですか。それじゃダメって話じゃないの?っていうことだと思うんですけど。

関:オープンエンドではあるけど、なにも言っていないオープンエンドになってしまっている。

坪:そう思うと本当に『そばかす』のダッシュで終わるのはよかったなって思いなおしました(笑)。ダッシュで終わるなよって思っていたけれども、爽やかな音楽でダッシュで終わるなよって思ってましたけど、『そばかす』はちゃんと責任とって走ってるので、もう全然いいです、これと比べると(笑)

関:ということであっという間に時間が過ぎて……。

坪:すごい時間になってる(笑)

関:大増量の回ということで、これはもうこの、観た映画がいい意味でいい映画だったってこととダメな映画だったっていうことで、もうこれは時間が長くなるのは仕方がない。じゃあ次回もですかね。また、間をあけてやりますので、お楽しみにという感じで。

坪:よろしくお願いします。また綾野さんも来てくださいね。

綾:ありがとうございます。楽しかった。

関:また呼びます。お疲れさまでした。

0 Comments
本屋lighthouse’s Newsletter
本屋lighthouse’s Newsletter
声のニュースレターです。ようするに録音ラジオ?
Listen on
Substack App
RSS Feed
Appears in episode
本屋lighthouse(ライトハウス)〈幕張支店〉