誰にも共有したくない読書がある。この本がどれほど私を救ってくれたのか、誰にも教えてあげたくない。そんな風に口をつぐんだままになっている、ひどく個人的な読書がある一方で、一刻も早く誰かに共有したい読書もある。一刻も早く誰かに読んでもらわなければと思うような読書。新刊本を紹介するこの連載企画で取り上げるのはもちろん、後者である。読んでほしい。知ってほしい。これは一緒に変えてほしいと呼びかけるための、政治的読書日記である。
トランスの女性と/のフェミニズム
ジュリア・セラーノ『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』(矢部文訳、サウザンブックス社)は、トランスの女性であり生物学者でもある著者が、トランス/ジェンダー理論について、フェミニズムやクィア・アクティヴィズムについて語ったものである。
本書はとりわけ、トランスの女性に対して向けられる嫌悪を「トランス・ミソジニー」として概念化したことで知られている。
トランスの人々には、様々な人がいる。だが、中でもとりわけトランスの女性が差別の標的にされやすい。それはセラーノによれば、トランスの女性がただ「トランスフォビア」を受けるばかりではなく、「トランス・ミソジニー」と呼ぶべき抑圧を被るからなのだ。トランスの女性に対する差別は、女性性を貶めてきた女性嫌悪(ミソジニー)が関係している。問題は根深く絡み合っているのだ。
だからこそセラーノの議論は、トランスジェンダー・アクティヴィズムとフェミニズムが共闘するべき理由について、この上なく雄弁に語っている。一部のフェミニストがトランス排除を唱え、あたかもフェミニズムとトランスジェンダー・アクティヴィズムが対立するかのように受け取られる今だからこそ読まれるべき一冊である。
トランスフォビア
ここでは簡単に、セラーノの議論を参照しながら、その分節化の一端を紹介しよう。
まずトランスフォビアとは何か?
セラーノによれば、トランスフォビアとは「ジェンダー化されたアイデンティティ、見た目、あるいは行動が社会規範から逸脱している人々に対する不合理な恐怖、嫌悪、または差別」のことである(p38)。
トランスの人々は、少なからずこうしたトランスフォビアを経験する。
またトランスではなくとも、トランスフォビアを被ることもあるだろう。ジェンダー規範から逸脱した見た目や振る舞いをする人々、たとえば男性のような風貌をした女性/女性のような風貌をした男性は、不躾な視線を向けられ、あからさまに侮蔑されたり、揶揄われたり、排斥されたり、暴力を振るわれたりすることがままあるのだから。この時かれらを侮辱する人々は、当人のアイデンティティを確認した上で視線を向けたり、排斥したりしているわけではない。問題とされるのは、単に見た目が「男は男らしく/女は女らしく」しているべきだという命令に合致していない、ということなのだ。
シスセクシズム
トランスフォビアは当人がトランスであるか否かに関わらず被り得るものだが、トランスの人々には「シスセクシズム」が加えて降りかかる。
それでは「シスセクシズム」とは何か?
この用語を理解するためには、まず「シス」について理解する必要がある。
トランスではない人のことを一般に「シスジェンダー」と呼ぶが、「シス」とはその短縮系である(*1)。しばしば誤解されているが、「シスジェンダー」は自らの性別を、ジェンダー規範を問題なく受け入れている、という意味ではない。自らの性別をめぐる苦しみを否定されているかのように感じてこの言葉を拒絶する人は多いが、そうではないのだ。
この言葉は端的に、各々の抱える問題をより明確にするために存在している。たとえばシス女性である私は、性差別を受けた経験はあるが、トランス差別を受けた経験はない。トランスの友人たちが抱える困難は、私が抱えたことのないものだ。それはこの社会が、「トランスではない人」を中心的に設計されていることによるものである。だから「シス」という言葉は必要だ。私たちの間の差異を表現する言葉が、困難の固有性を表現する言葉が、必要なのである。
さて、シスセクシズムとは、トランスの人々の性別をシスの人々に比べて「劣っている」「本物度が低い」とする考え方のことである。トランスの女性に対して「彼」のような男性を指し示す人称代名詞を用いるなど、トランスの人の性別を意図的に否定すること、否定しても構わないとすることは、「シスセクシズム」に基づくものである。
*1 セラーノは本書の中で「シスセクシュアル」という言葉を用いているが、ここでは概念をわかりやすく紹介することが目的のため、より一般に膾炙した「シスジェンダー」という用語を説明する。
二項対立的セクシズム
トランスフォビアもシスセクシズムも、それぞれ異なる部分は多いものの、根底にあるのはセラーノが「二項対立的セクシズム」と呼ぶ発想だ。
二項対立的セクシズムとは、「女と男はそれぞれがユニークで重複しないひとそろいの属性、適性、能力、欲求をもつ、厳格かつ相互排除的なカテゴリーだとする考え方」のことである(p39)。こうした、女性と男性は「対極にある」カテゴリーであり、決して踏み越えられない境界線が厳格に引かれている、そうであるべきだという考え方が、たとえばジェンダー規範に沿わない見た目の人々を嘲弄し、暴力に晒し、あるいはトランスの人々の存在そのものを否定する。男性/女性いずれのカテゴリーにも自分は当てはまらないと感じる人——たとえばノンバイナリーの人々——の存在を抹消するのも、二項対立的セクシズムである。
言うまでもなく、二項対立的セクシズムは、性差別を正当化したがる人々が最も強固に唱えているものでもある。女性なら女性らしく振る舞うべき、とされるのは、二つのカテゴリーが全く別物であって踏み越えてはならないとされているからである。
伝統的セクシズム
そしてこの「二項対立」は、対等な二つの項ではない。
男性性という項と女性性という項の間にはヒエラルキーが存在している。こうしたヒエラルキーを、セラーノは「伝統的セクシズム」と呼ぶ。それは「男であることや男性性が女であることや女性性より勝ったものとする信念」のことである(p40)。
女性らしさは弱さや愚かさとしばしば結びつけられ、あるいは単に「男性の快楽や利益のため」にのみ存在するとされる(p354)。女性がフェミニンな格好を好んで身につけると、それは結局「男性のため」にしているのだろうと思われる。あろうことか、フェミニンな格好をしていることで「誘惑」していたのだろうと決めつけられ、暴力を被ってもなお被害者であることそのものを否定されることさえあるのだ。
トランス・ミソジニー
トランスの女性は、こうした複数の抑圧がまさに交差する地点に立っている。
トランスの人々には様々な人がいるにもかかわらず、とりわけ注目され、冷やかしの対象になるのはトランスの女性である。
セラーノによれば、トランスの女性が中でもターゲットになるのは、「トランスフォビア」だけでは説明できない。
このことを明確にするために、セラーノは女性を割り当てられた人が男性的な風貌をすることと、男性を割り当てられた人が女性的な風貌をすることの間には差異があることへの注意を促す。たとえば女性が「メンズ」服を身につけていても問題視されないが、男性が「レディース」服を身につけることは異性装フェティシズムという心理障害と診断されるかもしれない。ジェンダー規範からの逸脱に対する「トランスフォビア」は、後者に対してより頻繁に、目にみえる仕方で発動されるのだ。
そして性科学言説を追求することによってセラーノが明らかにするのは、「女性の男性性」よりもはるかに「男性の女性性」が注目され、執着されていると言って良い様子であり、この注目の非対称には伝統的セクシズムが関わっているということである。たとえばオートガイネフィリアという概念が提案される一方で、その逆のモデル——女性が自己の「男性化」によって性的興奮を覚える——が存在しないのは、おおかた異性愛者の男性によって占められた科学者たちが「女性性がセクシュアル化されているレベルまで、男性性をセクシュアル化したくない」(p162)ためではないか。
あるいはトランスの女性は、しばしば性的にセンセーショナルな扱いを受ける。メディアは、相手がトランスの女性であることを知らないままにうぶな異性愛者の男性が誘惑される、というコメディの常套句を作り出してきた。こうしたメディアの表象によって、トランスの女性は端的に性的客体とされ、その女性性は性的ファンタジーと結びつけられるのだ。
実際、トランスの女性が登場するポルノは多い。ショーン・フェイの『トランスジェンダー問題』によれば、オンラインポルノサイトの検索カテゴリーとして「アルゼンチンやロシアを含めて、ほとんどの国でトップ10の人気カテゴリーに入っている」。主たる視聴者は異性愛を自認する男性である。フェイは言う。「目を見開くような数字だが、男性は女性よりも、オンラインのトランスのポルノグラフィを検索する確率が455%高い」(p200)。
要するに、女性であることや女性性によってこそトランスの女性は標的にされるのであって、他のトランスの人々(たとえばトランス男性)とは別の形態の抑圧を被っている。女性性はセクシュアル化されている。トランスの女性がとりわけ性的ファンタジーと結び付けられ、トランスの人々に対する暴力や性的暴行のほとんどがトランスの女性を標的にしたものであるのは、トランスフォビアというよりもトランス・ミソジニーのせいなのである。
何より、本書を読んで気付かされるのは、トランスの女性が被る差別がこれほどまでにミソジニーに染まっているにもかかわらず、過去のフェミニズム理論のなかで目立った形で分析されてこなかった事実である。この欠落こそが、現状を招いているのではないか。今現在、ゼロ年代のバックラッシュを牽引し、女性の権利を阻害し続けてきた右派の政治家らが「女性専用スペース」を「守る」と嘯いているのは、まさしくトランス差別と性差別の根が同じであることの証左ではないのか。
性別二元論批判・批判
トランス・ミソジニーの理論化をはじめ、トランスの女性に焦点を当てながら様々な理論的道具を提供した本書は、今も、いやまさに今こそ極めて有用な優れた書物である。
とはいえもちろん、本書は完璧というわけではない。たとえばトランスの女性に焦点を当てるあまり、本書はトランスの男性やノンバイナリーの人々についてはほとんど触れられていない。特に「性別二元論批判に対する批判」がしばしば全面に押し出される本書は、ノンバイナリーの人々の経験する困難を語り落としているかもしれない。ノンバイナリーには多種多様な人々が存在するが、実際、場合によっては——トランスフェミニンな人々はとりわけ——ここで挙げられたすべての抑圧を被る可能性さえあるのだ。
いずれにしても、『ウィッピング・ガール』はあらゆる点で有用である。
トランスの女性がなぜこれほどまでに標的にされ、抑圧されるのかについて、本書は極めて雄弁に語るだろう。繰り出される新たな概念の数々は、物事をより的確に理解するための最良の助けになるだろう。フェミニンなものを好むあらゆる人々は、セラーノが女性性/女性であることを力強く祝福することに、この上なく勇気づけられるだろう。
とりわけ私が好きなのは、セラーノがトランスの女性の「目」の魅力について語っている箇所だ。セラーノは言う。彼女の目を覗き込むと、「無限の強さとやるせない悲しみ」が、「平均的な人間なら押しつぶされる屈辱と虐待を克服した人」が見えるのだと(p310)。周りの人がよってたかって必死に壊そうとした夢にすがりつく女性、次から次に現れては彼女を否定しようとする人たちの話に耳を傾けることを拒否した女性がそこにはいるのだと。本書におけるセラーノの言葉はちょうど、そうした女性の姿を浮かび上がらせるものである。
水上 文
1992年生まれ。文筆家。フェミニズム・クィア批評が主たる関心。
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