社会的マイノリティについて書かれた本をメインに取り扱い、「小さな声を大きく届ける」ことを目指す新刊書店「本屋メガホン」を運営する著者による雑記。本屋を運営しながら考えたこと、自身もマイノリティとして生きる中で感じたことなどを思いつくままに書いていきます。
イスラエルによるパレスチナへの入植、虐殺、民族浄化が始まって半年が経とうとしている。(私とあなたを含む)国際社会の無関心が一つのトリガーとなって始まったこの暴力を、またもや社会の大多数の無関心が一つのストッパーとなり、我々は未だ止められずにいる。無関心層には悲しいかな多くの独立系書店も入っていて、やるせなさと憤りと違和感で居ても立ってもいられなくなった昨年末くらいから、初めてデモに参加するようになった。一番最初に参加したのが渋谷駅前で実施されたスタンディング型のデモで、その後名古屋で毎週末実施されている大規模な行進型のデモにも参加した。
いくつかのデモに参加してみて感じたのは、ここに参加したくても参加できない人もいるだろうということだった。例えば、長時間立ち続けることや長距離を歩くことが難しい人、大きな音や人混みが苦手な人など、様々な要因でデモに参加したくてもできない人の存在がどうにも気になった。現在行われているデモのあり方が悪いということではなく、選択肢があまりにも限られていて、自分に合った方法を選びにくいことが問題だと思った。そこで、神奈川県で行われていた事例を参考に、友人と「本読みデモ」を企画し、名古屋での行進型のデモに合わせて実施した。本読みデモは、文字通りパレスチナに関する本を持ち寄ってみんなで読み合ったり、本をきっかけに通行人とコミュニケーションをとったりと、通常イメージするデモとは大きく違った雰囲気で、SNSで神奈川の事例を見た時にとても衝撃を受けたのを覚えている。
名古屋にて実施した最初の本読みデモでは、天候が心配だったため屋内のフリースペースに集まって、持ち寄った本を各自読んだり、おすすめの本を紹介し合ったり、今パレスチナで起きていることをわかりやすく説明するビラを折る作業をしたり、現行のデモのあり方に対する考えなどを話し合ったりした。その後、天気が持ち直したので屋外でも実施することにし、行進デモのルート上にある交差点を拠点として、ダンボールに「本読みデモ」と書いた看板を設置し、その下に誰でも読めるよう数冊本を並べた。参加者に対しては特にこうしてくださいという指示は出さずにいたので、看板の横にみんなで一列に並んで立って読むのかなとなんとなく想像していたが、実際に始まってみると、立って本を読む人や近くにあった花壇のへりに座って読む人、さっき折ったビラを積極的に配る人、お腹が空いて焼き芋を食べる人など、各々やりたいことを好きなようにやる雰囲気が自然と共有されていて面白かった。何より、本そのものや本を読むという行為に内在する政治性を路上でむき出しにすることの快感というか、行進やスタンディングの時にも感じた、デモ独特の“異物になる感じ”が普段の何気ない行為と接続される感覚があって、小さいながらも本屋を営む身として「本/本屋ってなんて政治的なんだ!」と改めて痛感する機会にもなった(これまでゲイとして生きてきて、嘘をつくことや普通のふりをすることが全部嫌になった自分が行き着いた先に本屋があったのは、今思うと当然の帰結だったのかもしれない)。
一般的なデモでは、同じ体勢で同じコールを発し、同じルートを進むことが前提とされていると思うが、本読みデモでは各自好きなタイミングで好きなことをしていて、他の人が何をしているかはあまり気にしないような雰囲気があり、集団行動が苦手な自分としてはすごく居心地が良かった。参加者からは、長い距離を歩くと疲れるし大きい音が苦手なので行進以外の選択肢もあるのはありがたいという声もあり、長距離を歩かない/大きな音を出さない、オルタナティブなデモの一形式として手応えを感じられた。その後、本屋メガホンの店舗から徒歩15分程度(名古屋駅からは電車で30分ほど)の岐阜駅前でも何度か実施し、名古屋のデモに行きたいけど子供が小さいから不安で行けなかったという子連れの方や、大きい音が苦手だから参加できなかったという車椅子の方など、決して毎回数は多くないものの色々な方が参加してくれて、それぞれの思いを聞くことができた。
本読みデモを何回か企画・実施してみて感じたのは、(デモを含む)社会運動のあり方ってもっとクリエイティブで、自由で、なんでもありなはずじゃん!ということだった。どんな人にも不正義に対して声をあげる権利は平等にあるはずだが、肝心の「声のあげ方」は一部の人だけが参加しやすいものになっているし、そもそも選択肢が少ない。現場至上主義的なマッチョな風潮は根強く、そこから少しでもはみだすと、まるで自分は何もしていないかのような、正体のない無力感に襲われてしまう。
もちろん必ずしも屋外で実施されるそれが全てではないし、屋内でも一人でも布団の中からでも抵抗はできるという大前提はあるとして、スタンディングや行進型のデモに参加するのはハードルが高いけど何かせずにはいられない人や、何らかの事情でそういったデモに参加しにくい人を受けとめる中間地点のようなものが不足しているように思える。本読みデモは、ただハードルが低くて誰でも参加しやすいというだけでなく、既成の型に自分をはめる(=大きな音が苦手でも無理して参加する、大きな音が苦手で参加できないことに罪悪感を感じる)のではなく、こういうデモにしたいという願望を実験してみる余白があらかじめ担保されているように感じる。それは、コールもルートも目的地もなく、ただ各々本を持って集まるという出発点しかない本読みデモだからこそ生まれる創造的な余白なのかもしれない。ずっと座っていてもいいし、積極的に通行人とコミュニケーションをとってもいい。おなかが空いたら焼き芋をたべてもいいし、疲れたら途中で帰ってもいい。「こうあるべき」を打ち消し、「こうありたい」を実践してみるための土台として、本読みデモは適しているような気がする。
イスラエルがパレスチナの土地から人も文化も歴史も文脈も全て消し去ろうとしている今、本屋がそれに抵抗するためにやるべきことは、(ただパレスチナについての本を紹介して終わり、ではなく)本そのものや読書という行為が元来持っている政治性を真正面から引き受け、なかったことにされようとしている国の文化や思想や歴史について学び続け・話し続け・考え続ける場を耕すことによって、国家単位での不正義や暴力に対してまなざしとして抵抗することではないだろうか。今まさにリアルタイムで起きている虐殺や民族浄化に対する批判も抵抗もなしに、フェミニズムも人文知も文学も社会学もアートも成立するはずがなく、現状に対して何の表明も示さないまま本屋を名乗ることは、ただの消費でしかない。
今パレスチナで起きていることは、我々の無関心が一因となって始まった以上、応答/連帯するための手段はできるだけたくさんあった方がいいし、そこから取りこぼされている人に目を向けることこそ、抵抗の姿勢として真っ当であるような気がする(現地では障害者や医療従事者や子供などが巻き添えを食らうのではなく、意図的に狙って殺されている)。本屋メガホンによる本読みデモが、全ての人を包摂できているわけではもちろんないが、本読みデモへの参加を通してそこから色々な形に派生していく可能性もあると思うし、本読みデモ自体がそのための準備や実験の場になるといい。多くの独立系書店が(書店という営みを通して連綿と受け継いできたはずの文化や歴史の重要性を堂々と毀損されながら、文脈そのものを歪曲/破壊されながらも)沈黙を続ける今、どんなに小さな集まりや無意味に思える運動であろうと、むしろそれが小さければ小さいほど、簡単に消してはいけない灯火であるような気がする。
和田拓海(わだ・たくみ)
1997年兵庫県生まれ。2023年より岐阜市にて新刊書店「本屋メガホン」を主宰。
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