社会的マイノリティについて書かれた本をメインに取り扱い、「小さな声を大きく届ける」ことを目指す新刊書店「本屋メガホン」を運営する著者による雑記。本屋を運営しながら考えたこと、自身もマイノリティとして生きる中で感じたことなどを思いつくままに書いていきます。
2024年5月、ZINE『あなたとケーキをシェアするためのいくつかの方法』(Moche Le Cendrillon 著)を本屋メガホンから発行した。今回初めて自分以外の著者に執筆をお願いし、編集(のようなもの)をやってみて色々と考えることがあったので、今回は「互いの分かり合えなさを抱えたまま連帯すること」「自分が当事者として体感しえない事象について書かれた文章を外部的な視点で整理してまとめること」について「編集」という視点から考えてみたい。
まず前提として、自分はプロの編集者ではないし編集の勉強をどこかでしたわけでもなく、完全に感覚でやっている。とはいえ、Moche Le Cendrillonさん(以下モチェさん)に声をかけて、スケジュール等の調整をして、全体の構成を一緒に考え、原稿の誤字脱字や文法の誤りをチェックして……という諸々の作業を(なんちゃってとはいえ)「編集なんて自分はそんな……」とも言ってられないし著者に対しても失礼なので、その出来なんかは横に置いておいて、一旦私が編集を担当しましたということにする。
『あなたと〜』を制作することにしたのは、アロマンティック/アセクシャル(=Aro/Ace)に関するZINEがあまりにも少なかったからだ。「社会的マイノリティについて書かれた本をメインに扱う」新刊書店を運営しているからには、アンテナを張って色々な刊行物をみているつもりだが、Aro/Aceについて、日本語で/手に取りやすい形で/「非当事者へ向けた解説」ではなく当事者自身が考えていることや経験してきたこと等について書かれた読み物はまだ少ない印象があった。モチェさんが寄稿されていた『ハッピープライドとか言ってられないクィアのためのZINE BELOW』(元気のないおさむ 編/2023)を読んで、クィアコミュニティの中でさえも不可視化され、なかったことにされるAro/Aceの現状について知り、本屋メガホンからZINEを出すことでこういった現状を少しでも打破し、孤独や不安を抱える当事者の隣にそっと寄り添うような読み物の母数を増やすことができればと考えた。
勢い余ってモチェさんに声をかけたはいいものの、シスヘテロのゲイでロマンティックなパートナーがいる自分が、セクシュアルマイノリティの中ではマジョリティであり特権的な立場にいる自分が、未だ十分に当事者の声が届けられておらず、クィアコミュニティの中であっても不可視化されやすいAro/Aceについて書かれたZINEを発行するという行為に対する逡巡がしばらくはあった(厳密に言うと今もあるし、そもそも本屋メガホンを自分が運営していることに対しても常に思っていることではある。)。ZINEを発行することに対してもそうだし、自分がこのZINEの編集という立場をとることに対しても、「自分がやるべきなのか……? そもそもできるのか……?」という思いがぐるぐるしていた。うっすらとしたもやのようなものがかかっていた編集作業において、その視界がある程度クリアになったのは、モチェさんとの原稿のやり取りがきっかけだった。
他人が書いた文章を編集的な視点で読むこと自体が初めてだったのと、文章の校正に関するスタンスみたいなものを事前にすり合わせることができていなかったので、モチェさんから送られてくる原稿に対して誤字脱字の指摘だけでなく、こうした方がわかりやすいかもとか、もっとこうした方が伝わるかもみたいなコメントもつけていた。ある部分ではそういう指摘も必要なのだろうが、自分がやっていたそれは今思い返すと、「自分ならこう書くかな」「こういう言い回しは自分はあんま使わんな」というように、自分が書く文章に近づけようとしていた感じが強かったように思う。相手の書き振りや癖、意図を理解した上での提案ではなく、自分が思う正しい書き方に同質化させようとする行為に近かったのかもしれない。後日モチェさんから原稿の修正/提案に関する共有事項をまとめたものが送られてきて、(それは私の編集の態度に対する異議申し立てというわけでは全くないのだけれど)自分が編集だと思っていたものが、あるいはただの押し付けになっていた部分もあるかもしれないということを振り返って考えるきっかけになった。
他者によって書かれたテキストを編集すること、特に未だ十分にその声が聞かれていない=比較/参照対象が少ない属性の人が書いたテキストを第三者が編集することは、その声を簒奪することと紙一重だと思った。腫れ物に触るみたいに気を遣って慎重に扱うべきだ、ということではなくて、無自覚の偏見や社会的に刷り込まれた思い込みを完全に無くすことは絶対にできないということを互いに認識しながら編集/対話を進めないと、簡単にそれを再生産するテキストに転んでしまうかもしれない。原稿の大勢には影響しない細かい部分の指摘であったとしても、もしそれが無意識のうちに内面化された規範を反映したものだとしたら、「原稿の編集」はすぐに「聞かれるべきだった語りの簒奪」にすり替わってしまう。世の編集者はそこにどう折り合いをつけているのだろう。
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『あなたと〜』では繰り返し「理解しがたさ/分かり合えなさの痛み」について言及される。
だから私と何らかのコミュニティに、私と Aro/Ace の人々の間に、私とクィアやフェミニズムの文化や運動との間に、溶け合うような共感や同一視がなくても、理解しがたさの痛みが常に存在していたとしても、それは当たり前のことだ。 同じアイデンティティや文化を共有した、楽しくて熱心な友達になれなくても、共通の問題に対して抵抗したり、学んだり、身を寄せ合うための連帯は必要で、また可能だ。自分の境界を認識することや、それを守ってただ連帯の選択肢を持つことは、その場で誰かと共感しあうことが難しい Aro/Ace の自分にとっての救いでもある。誰かに理解し難さを感じた時や、誰かに理解し難いと思われている時、それは当然のことで、あるいはもう仕方のないことで、自分には変えられないのだと思うことが、自分の境界を守ることだと思うようになった。(「境界と共感について」p46-47)
この「分かり合えなさの痛み」とどう向き合うか、が『あなたと〜』の大きな主題の一つだと自分は思っていて、モチェさんからの原稿を読み進めるにつれて、自分の編集があるいは声の簒奪になるのかもしれないという危機感だけがぽつんとあったのが、その痛みや恐れは至極真っ当でむしろ必要なものだと考えられるようになった。著者が書いていることを「自分ごと」として直ちに理解できなくても、自分のコードとは違っていても、その違いを受け入れること、分かり合えなさの痛みを引き受けつつ連帯すること、理解し難さを抱えながら互いの境界を認識してそれをまずは守ること、そこからしか編集は始めることができないのかもしれない。
これは編集だけでなくあらゆるコミュニケーションにおいて重要な視点だと思う。「分かり合えなさの痛み」は、必ずしも誰かと誰かを決定的に分断する亀裂としてではなく、“理解し合えないまま”隣に立って連帯することを可能にする結節点としてむしろ機能する。私にとってこの事実は、あらゆるコミュニケーションがおざなりにされ、「多様性」を盾にした無関心と排除が溢れ、ヘイトが吹き荒れる世界における一筋の確かな希望のように思える。
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別のZINEの編集作業でも、原稿に対してこちらからコメントを返す時に「これはあくまでも提案なので気に入らなければ無視してください」という旨の断りを入れる時があって、それはできるだけフラットに「それはこっちの方がよくないすか?」とか「それはちゃう、却下」みたいなコミュニケーションを互いに投げ合いたいと思っているからで、でも例えば自分の文章を寄稿すること自体が初めての人にとっては難しいことなのかもしれないし、フラットでありたいと望むことはそれはそれである種の暴力なのかもしれない、とも思う。寄稿する側とそれを編集してまとめる側では、上下ではないにしろ位相の違いは確かにあって、その違いを無視してできるだけ近寄ろうとすることは境界の侵犯になる可能性もある。自分が考えすぎなのかもしれないが、特に本屋メガホンとして発行するZINEは著者自身のセクシュアリティや障害などについて書かれた文章を扱うことも多いので、編集という行為が孕む暴力や不均衡さについては常に自覚的でありたいと思う。
自分の感覚や体験を通して理解できることはあまりにも狭くて少ない。自分が当事者として体感できないことを、いかに「自分ごと」として想像できるか?という視点よりも、いかに「他人ごと」として自他の境界を保ったままその理解できなさを真摯に見つめられるか?という視点の方がよっぽどヘルシーで持続可能で本質的だ。「他人ごと」というと冷たく聞こえるかもしれないが、例えば同じ傘の下にいる人の体験を「自分ごと」として共感することも文脈によっては語りの簒奪や一方的な消費になるのかもしれないし、異なる傘の下にいる人なら当然その危険性は高まる。
他者を理解できなくても、さらにそれに痛みが伴うものだったとしても、分かり合えないままつながること、同質化しない/させないまま連帯して隣に立つことは可能だ。そうすることでしか始まらない創造的な対話と絶え間ない交渉を、これからは「編集」と呼んでみる。そこには自分一人では決して体感できない、まっさらであたたかい痛みと摩擦と喜びが待ち受けているはずだ。
和田拓海(わだ・たくみ)
1997年兵庫県生まれ。2023年より岐阜市にて新刊書店「本屋メガホン」を主宰。
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