弱いままでいられる場所を目指して #07/本屋メガホン
路上へはみだす/公園をハックする
社会的マイノリティについて書かれた本をメインに取り扱い、「小さな声を大きく届ける」ことを目指す新刊書店「本屋メガホン」を運営する著者による雑記。本屋を運営しながら考えたこと、自身もマイノリティとして生きる中で感じたことなどを思いつくままに書いていきます。
「本屋」と名乗っていると、全国から本屋が減り続けていることと強制的に紐づけて語られたり、恐らくコンセプトを全く理解していないであろう定型文の取材依頼が送られてきたり、そういう瞬間がどうしてもあって、固定の場所に縛られるのも「本屋」という枠組みに押し込められるのも、あまり居心地が良くないなと感じることがある。いわゆる「まちの本屋」を目指したいわけでは全くないし、生存と抵抗のために本屋を「始めざるを得なかった」という方が実感に近いので、こんなに手間も時間もかかることをやらないで済むならやりたくないというのが本音でもある。(『本屋メガホンの営業日誌1』「あとがき」より)上記は、メルマガにて配信している営業日誌を一冊にまとめたZINE『本屋メガホンの営業日誌1』に掲載した「あとがき」の冒頭で、思っていることを正直に書き過ぎているような気もするが、取り繕って疲弊するくらいなら本心から思っていることを書いた方がいいなと思ってそのまま載せることにした。本屋メガホンの活動を約2年間続けてみて、「本屋」という枠組みに押し込められるのも、属性や場所を勝手に代表させられるのも窮屈に感じ、(もちろん悪いことばかりではないが)「本屋」と名乗ることのわかりやすさと、それについてまわる固定概念の強さを痛感するようになった。そもそも自分自身の「生存と抵抗のために」「始めざるを得なかった」活動を、既成の概念の中にあるものとして語られてしまうことへの忌避感がどうしようもなくあって、ZINEを作成するために1年分の営業日誌を改めて読み返してみたが、全体を通してそういう“わかりやすさからくる”モヤモヤについて書いていたような気もする。
本屋メガホンとして(あるいはそこから離れて一個人として)、駅構内での「本読みデモ」を企画して実施してみたり、駅前や路上で実施される大規模なスタンディングデモや行進デモに参加したり、後述するように公園の中でスーツケースを広げて実験的に本を販売してみたりする中で、そうした固定概念や窮屈さを取り払ってくれる「何か」が路上や公園(あるいは公共空間に限らず「公園」的な性格を持ったスペース)にはあるのではないかと考えるようになった。それは、路上が持つおおらかさや余白の広さかもしれないし、公園的なスペースが持つフラットさや単純な面積の広さも関係しているかもしれない。またそれはアナキズムについてもっと勉強したり、公共空間と社会的マイノリティの居場所に関する先行研究を辿ったりすれば自ずと見えてくるのかもしれないが、ひとまず今回は、本屋メガホンとしての活動の中で思いがけず見えてきたその「何か」との接点について、断片的かつ極私的な気づきとして書き残してみたい。
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公園で本を広げて売ってみる
屋外での出店は基本的にイベント内で行うことが多いが、一度だけ事前の告知もせずに公園の中でスーツケースを広げて本を販売したことがある。それは、2024年6月に名古屋市栄で行われた「名古屋レインボープライド」に合わせて同日開催された「陰気なクィアパーティ in 名古屋」に参加した時で、名古屋市内の図書館でのトークイベント兼出店に参加していた帰りに、どうせ行くなら本も売ってみようと思いつき、主催していた友人に許可をもらって、パーティ用に用意されたレジャーシートの隣で出店用の本が入ったスーツケースを広げて販売を行った。
「陰気なクィアパーティ」は、レインボープライドのキラキラした雰囲気に馴染めないクィアのための居場所として、商業主義に傾いていくレンボープライドに対するカウンターとして、有志のメンバーを中心に東京や大阪など各地で開催されているイベントだ。名古屋市栄の中心部に位置する大きな公園の一角を会場とした名古屋での開催時もそれなりに人がいて、閲覧用に用意された本を読んだり、居合わせた人となんとなく話したり、各々好きなことをしていた。事前の告知もせずに突然本を売り始めた割には結構好評で、本屋メガホンのことを知ってくれている人も何人かいた。「陰気なクィアパーティ」自体のゆるく連帯しあう雰囲気も相まって、それぞれ思い思いに本を読んでいる光景がとても心地よくて、屋外で本の販売をした経験の中でも特に印象に残っている。
この時は思いつきでやったので、楽しかったし本も売れてよかったな〜くらいの感じで終えたのだが、冒頭で書いたようなモヤモヤを感じるようになってから、この「路上で本を広げて売る」という行為の、プリミティブな「商い」感というか、それが限りなく地面に近くてフラットで固定の場所や契約に縛られない感じが新鮮で、本屋メガホンのコンセプト的にもスタイルとして結構合っているのではないかと考えるようになった。公園で本を広げて販売したのはその一回きりだが、他にも岐阜駅で「本読みデモ」を実施した時に、公共施設が基本的にバリアフリーで設計されていて、かつ駅の改札からも近いので、例えば岐阜市外に住んでいる車椅子ユーザーの方でも参加しやすいといった気づきがあって、小さな個人店だからこそできることもたくさんあるが、公共施設だからこそのフラットさやそれを活用することのメリットにも気づくことができた。
もちろん気候やスペース自体の大きさ等には左右されるものの、場所や形式や規模を自由に変えながら本を売ったりZINEを紹介しあったり、それをきっかけに誰かとおしゃべりしたり、直接的なコンタクトはなくても同じ場を共有することで勝手に連帯しあったり、みんなで同じレジャーシートに座ったり寝転がったりして店主/客といったヒエラルキーを溶かし合ったり、そういう自由で柔軟な実践のあり方に強い可能性を感じた1日だった。そもそも今の自分の活動は、「社会的マイノリティにとって自分のことについて書いてあると思える何かに出会える場所の総数を増やす」ことを目的として始めたもので、それにたまたま「本屋」という名前をつけたらしっくり来た、くらいの感覚なので、一般的に想起される「本屋」像を丁寧になぞる必要はなくて、もっとアナーキーでクィアで捉え所のない運動体でありたいと思う。本屋メガホンの実店舗は家賃がかかっていないので毎月固定で支払っている費用はほとんどないが、店舗の家賃を払いながら本屋を運営していくことのハードルを想像すると軽くめまいがしてくる。そういう意味でも、無料あるいは安く自由に使える公共のスペースがあるということを意識しておくだけでも、この日感じた足元が軽くなって目が冴えてくるような感覚に、いつでも立ち返ることができる気がする。
「透明」にされている「公園」
2024年11月、岐阜県関市にある特別支援学校にて開催されたトークイベントに参加した。トークに誘っていただいた中部学院大学の水野友有さん、写真家の山本美里さんとの3人によるクロストークのような形式で、参加者からの質問や感想も交えながらイベントは進んだ。写真家であり、日常的にたんの吸引や経管栄養などの医療的ケアが必要な「医療的ケア児」の親でもある山本さんは、2023年に写真集『透明人間 Invisible Mom』(タバブックス)を刊行されており、そこではそうした医療的ケアを特別支援学校内の看護師の手で行うことが制度的に許されていないため、保護者が毎日学校に付き添って下校時間まで校内で待機する必要があり、“子供の自立のために”気配を消して透明人間のように振る舞うことを求められる現状を、自分自身を被写体とすることで映し出している。
トークでは、山本さんの写真集と本屋メガホンのZINE『透明人間さよなら』に共通する「透明人間」というワードをテーマに、お互いの表現活動に共通する部分や異なる部分について、書く/撮る過程の中で自分の中にある怒りや違和感を一度外部化して客観的にみること、アウトプットされたものを通してまた他の誰かとコミュニケーションをとることなどについて話した。その日特に印象に残ったのが会場である体育館の風景で、何がどう印象に残ったのか、その日配信したメルマガから一部引用してみる。
会場には山本さんと同じく医療的ケア児を子に持つ方がたくさんみえていて、それぞれ感じたことや、自分なりの怒りの手放し方、怒り以外の方法でつながったりアクションを起こしたりすることなどについて、当事者目線で色々とお話を伺えて、自分自身知らないことばかりでとても貴重な体験になった。トークと出店の会場は校内の体育館で、トークイベントの時間になると医ケア児の子も寝そべって話が聞けるようにマットが敷かれて、椅子に座って聞く人、床に寝そべって聞く人、後ろの方で床に座って聞く人など、各々過ごしやすい体勢で過ごしていた。なんというかとてもフラットで、フラットであることが当たり前で、あまり上手く言語化できないけどその風景がとても心地よくて、まだプログラムとしては何も始まってないのに会場の様子を眺めながら一人でジーンとしてしまった。
本屋メガホンとしての活動をもっと場所と家賃(本屋メガホンの店舗は家賃がかかってないので現状は縛られてはいないが)に縛られないやり方でできないかなーと最近考えていて、この日見た光景とそれを見て感じた心の揺れ動きは大切にしたいなと思った。(本屋メガホンのメールマガジン「241116_営業日誌/お知らせ」より)特別支援学校の中ではもちろん日常的な光景なのだろうが、それを見てなぜか自分がジーンとしてしまうくらいにはその光景もある種「透明」にされているということで、自分が普段見ている景色がいかに歪められていて、当たり前に凹凸があって、そこから排除されて見えていないものが多いのか、改めて考える機会になった。この特別支援学校も県立なので一応公共施設ではあるのだが、この体育館で見た光景は広い意味での「公園」的なシーンだなと思った。フラットでバリアフリーであることが前提になっていて、周囲にいる人の体勢や動きが気にならないくらいの空間としての余白と広さがある。先述したように、個人で固定の店舗を運営することには資金的なハードルもあれば、そこから起因する店舗面積の狭さ、あるいは段差やトイレ、階段等のバリアの多さも、利益率の悪い商売であることも乗じて個人の資金力だけでは乗り越えにくいハードル*1 としてある。民間の資金力や個人のマンパワーだけでそうした障壁を乗り越えたり、0からフラットな環境を作ったりすることは規模や内容によっては骨の折れる作業だが、既にあるものを活用すること、あるいはそれを上手くハックして使いこなすことには創意工夫の余地がまだまだあるはずだ。この日体育館で見た光景や感じた心の揺れ動きを、一人ですぐに再現して誰かに提供することは難しいかもしれないが、本屋メガホンとしてひらく場所やスペースに「公園」的な性格を少しでも付与できるように、小さく長く柔らかく実践を繰り返しながらそのための足腰を鍛えていきたいなと思う。
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本屋メガホンとしての活動には共通して、もっとみんな軽率に書いたり作ったり集まったりしようよ、という思いがあって、発信するコンテンツや制作するZINEのデザインなどにもそれを込めてきたつもりでいたが、自分自身もまた、やりやすい方法や慣れた場所に落ち着いてしまっていたのかもしれないと、今回書いたような路上や公園との出会い直しを通じて考えるようになった。いろんな人が軽率に書いたり集まったりした結果、「社会的マイノリティにとって自分のことについて書いてあると思える何かに出会える場所」がそこかしこに増えたり、バラバラだったものがつながったりしたらいいなと常々思っているので、その思いをまずは自分自身が体現できるよう、路上や公園やあるいはもっと未知のどこかへ、大いにはみ出して/それをハックして、規範や固定概念や「こうあるべき」を掻き乱していきたい。
*1 自治体によっては店舗のバリアフリー工事や物品の購入等に関わる助成金を活用できるケースもある。
和田拓海(わだ・たくみ)
1997年兵庫県生まれ。2023年より岐阜市にて新刊書店「本屋メガホン」を主宰。
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