1月中に『哀れなるものたち』(映画/原作:早川書房)と『密航のち洗濯 ときどき作家』(柏書房)を立て続けに読んだり観たりしたところ、「書くこと/書けること」について考えてみたくなってしまった。一方は史実のふりをしたフィクション、一方は綿密な取材によるノンフィクション。しかしどちらも同じ問題を突きつけてくるのだ。歴史を綴ること。それを受け取ること。果たしてそれらはどちらも「本当のこと」なのだろうか。
以下、盛大なネタバレを含むので避けたい人はお気をつけて。
『哀れなるものたち』原作における、語りの視点と信用度について
まず、『哀れなるものたち』の原作について整理する必要がある。この小説は語りの構造が複雑で、映画を観てから原作を読むとストーリー部分の違いも含めて面食らうのではないだろうか。
端的に言うと、この小説は「誰が本当のことを言っているのか」がわからない構造になっているのだ。著者アラスター・グレイ(実在の人物)は自らを著者ではなく「編者」として位置付け、友人が拾ったとある本に手を加えて刊行したのがこの『哀れなるものたち』だと序文で書いている(つまりグレイは本書を「小説」だとは考えていないのだろう)。その本の著者がアーチボールド・マッキャンドルスであり、彼の半生がここには綴られている。主な登場人物はマッキャンドルスと、マッキャンドルスの友人であるゴドウィン・バクスター、そしてバクスターによって“蘇生”させられたベラ、ベラを誘惑し駆け落ちする弁護士ダンカン・ウェダバーン。
主人公=話の中心人物として位置付けられているのはベラなのかもしれないが、視点は基本的に著者であるマッキャンドルスにある。そしてベラがウェダバーンと駆け落ちしてからは、ベラの様子はウェダバーンとベラ自身からの手紙によって明かされることになる。ベラが戻ってきていろいろあり、なんだかんだでハッピーエンドだね、というようなマッキャンドルスのまとめで終わる。そしてそのあとに、ベラが子孫に向けて残した「この書物に書かれていることは事実ではない」という旨の書簡が挟まれるのだ1。そのうえ、グレイによる詳細な「批評的歴史的な註」まで巻末に記されている。あらすじの詳細にまで触れると長くなりすぎるので割愛するが、語りの視点を本書の構造順に整理すると、以下のようになる。
1. 編者グレイによる序文:友人が拾った本を編集して刊行したことが記される。さらに自らを「歴史家」と位置付け、綿密な調査によってマッキャンドルスの書いたものがフィクションではないと考えていることを強調する。
2-1.マッキャンドルスによる本文が開始する:一人称の語りであり、マッキャンドルス視点で様々な出来事が綴られる。
2-2.ベラとウェダバーンが駆け落ちし、ベラの様子は二人からの手紙によって語られる:その手紙をマッキャンドルスとバクスターが読んでいるが、読み手であるバクスターによって中断や省略、あるいは要約が挟まれる。
2-3.ベラが帰還し、その後もいろいろあったけどハッピーエンドかな?的な締めくくりまで:マッキャンドルスによる語りに戻る。
3.ベラ執筆の書簡が掲載される:ベラが夫・マッキャンドルスの残した本書を読み、事実と異なることが書かれているため訂正する、ということになっている。
4.編者グレイによる「批評的歴史的な註」が巻末に入る:ベラの書簡よりも長い尺をとってあり、グレイの言うように歴史家としての仕事を果たそうとしているように思える。
なお、上記2の部分がいわゆる本文=原本であり、『スコットランドの一公衆衛生官の若き日を彩るいくつかの挿話』というタイトルがマッキャンドルスによってつけられている。元々はここだけで1冊の本であり、それと一緒に保管されていた書簡が上記3の部分になる。『哀れなるものたち(原題:Poor Things)』というタイトルは編者のグレイがつけている。
そもそもベラが胎児の脳を移植されて蘇生されたことや、その蘇生術を施したバクスターが人造人間のようであったりと、これらが事実=史実であるとは思い難い内容になっている。ゆえに著者グレイは文学的な手法をいくつも駆使することで、本書をリアルなものにしようと/見せかけようとしている(註をつけたり、「これはある人から聞いた話なんだけどね」という形式の語りにする、など)2。そのうえ、マッキャンドルス自身もベラやウェダバーンからの手紙を引用することによって、その手法を利用しているとも言えるだろう。そうして構成された「嘘のような本当の話」が、最終的にベラによって否定されてしまう。さらに、編者グレイは「自分は歴史家になる」などと書いているが、本書『哀れなるものたち』刊行作業中に肝心の原本を紛失したことまで悪びれもせず書いている(もはや道化を演じていると考えたほうがしっくりくるだろう)。
結局、本当のことは誰にもわからないのだ。文学用語を使うならば、語り手の誰もが「信頼できない語り手」なのである。誰もがみな「本当のことを書いている」と主張しているにもかかわらず。なお、編者であるグレイはベラによる抗議文を「自分の人生の出発点についての真相を隠そうとする精神障害の女性の書いた手紙であることは容易に看て取れる」(序文xvi)と考えていることは、先に明記しておこう。ただし、これが著者=アラスター・グレイ自身の意見であるかどうかはわからない。3
映画版の変更点とその効果
対照的に、映画版ではベラ視点での語りになっている印象が強い。評価の多くが「フェミニズム」「女性の自立や解放」といった文言を含んでいることからも、その傾向はみてとれるだろう。原作のような重層的な語りの形式が映像表現では難しいことに加え、ストーリー上の展開も小さなことから大きなことまで変更が加えられているがゆえの、このような印象なのだろう。「書くこと/書けること」という観点を軸にして、その変更がもたらす効果について考えてみたい。
いきなりラストシーンに触れてしまうが、原作と映画では物語の終わりにかけての展開が大きく異なっている。映画では、ベラの元夫であるアルフィー・ブレシントン将軍はベラによってヤギの脳を移植され、ヤギ人間となった彼はベラたちによって飼われる(ような描写がされる)のだ。念のためそこまでの流れを説明しておくと、ベラとマッキャンドルスが結婚式を挙げている最中に将軍(とタレコミをしたウェダバーン)が乱入し、自らの過去を知りたいと考えたベラは将軍の家へ行く。そこで、将軍によって極限まで抑圧されていたからこそかつての自分は自死を図ったのだ、ということをベラは理解する。性器を切除するか殺されるかを強要されたベラは機転を効かせて将軍の銃を奪い、将軍の足(確か太もも)を撃つ。そして、そのまま殺す/死を待つのではなく手術をして生かすのだが、結果としてヤギ人間になった将軍(とその世話をする/させるベラたち)の姿は、正直言って非常にグロテスクである。原作で撃たれるのはベラなのだ。しかし足の指であるため致命傷にはならず、その後のベラの発言などなどによって心に深いダメージを負った将軍は後日自ら死を選ぶ、という展開になっている。
ここに付随する変更点として、ベラが駆け落ちして世界周遊をしている間のマッキャンドルスとバクスターの行動にも違いがある。原作では特になにもせず日々を過ごしているかのような描写なのだが、映画ではフェリシティという名の新たな「ベラ」を作り出しているのだ。ベラと同様に、別人の脳を移植されたフェリシティを「教育」「保護」する日々を送ることで、彼ら(少なくともバクスター)はその喪失を埋め合わせている。
先ほど言及した映画のラストシーンで、ヤギ人間となった将軍の世話をするようベラに指示されるのは、映画冒頭のベラと似たような振る舞いをする、つまり成長の途上にあるフェリシティである。この場面におけるグロテスクさの理由の一つには、かれらが「(精神)障害者」であるかのような描写になっているからなのだろう。これはもしかしたら原作の設定(=編者グレイによる「ベラ=精神障害者」)をなんらかの意図をもって反映させたものなのかもしれない。あるいは、原作の「批評的歴史的な註」にあるベラの後半生=自らが経営する病院で「知的障害者を数多く訓練して、仕事の手伝いをさせようと」(511p)していたことの反映かもしれない。しかしいずれにせよ、このラストシーンは「自立と解放」をテーマにした物語であると認識して映画を観ていたであろう観客にとっては、なんとも言えない後味の悪さを残すものとなったのではないだろうか。4
所有すること/語りの主導権を握ること
「書くこと/書けること」というテーマに、ここで「所有」というもう一つの軸を付与してみると、この後味の悪さの道理となるような解が見つかるかもしれない。原作も映画も、どちらも「ベラを所有したいと望む者たち/そこから逃れようとするベラ」という構図が存在しているのだ。その表現方法や、誰がどれだけベラを望んでいるかにおいて違いはあるものの、原作も映画もベラを所有し支配しようとする者たちと、そこから逃れるベラを通じて自らの傲慢さに気がついていく/気がつけない者たち、という構図と流れができている。
実の父(原作にのみ登場)による所有から逃れるためにベラは元夫・ブレシントン将軍のもとへ逃げ、しかし将軍によっても所有されることになり、その次はバクスター、さらにウェダバーン、最終的にはマッキャンドルスへとその所有権が移っていく。バクスターとマッキャンドルスは所有欲を克服したように(本人たちは)思っているかもしれないが、実際にはどうかわからない。少なくとも、バクスターはベラの代わりとしてフェリシティを作ってしまった。
となると、ベラはフェリシティに対してはバクスターらによる自分勝手な創造の責任を、将軍に対してはある種の報復という目的を持って、かれらを「所有する」という選択をしたのかもしれない……という可能性も浮上したりはする。
しかしここでも考えたいのは、やはり「果たして本当のことが語られているのか」ということだ。換言すれば、誰がこの物語の語り手=歴史を都合よく記すことができる者なのか、ということになる。実は、映画ではバクスターがマッキャンドルスにベラを会わせた初期のタイミングで、バクスターがマッキャンドルスに「ベラの言動を漏らさずに記録しておくように」という旨のことを指示しているのだ。さらに意外なことに、原作にこの「指示の」描写はない。つまり、歴史の記録者としての役割が映画版のマッキャンドルスには強く=観客にそうとわかるように付与されていることになる。そう考えると、この物語の語り手も原作同様にマッキャンドルスである可能性が浮上してくる。つまり、ラストシーンはマッキャンドルスにとっての箱庭的ユートピアなのかもしれず、映画全編を通してもベラによる語りではなかった可能性も生じてくる。原作あいよろしく、信頼できない語り手による語りである可能性を残していると言えるだろう。
ちなみに映画のパンフレットでは、ベラを演じたエマ・ストーン(プロデューサーも兼任)が「ベラ・バクスターのレンズ(視点)を通してこの物語を再構築した」(9p)と言っているが、信頼できない語り手の筆頭あるいは親玉であるアラスター・グレイの信頼できない原作を精読したのであれば、映画の制作陣もまた信頼できない語り手として振る舞っている可能性を否定することはできないだろう。書いてあることが本当のことなのか、あるいは、本当のことなのに書かれていないことがなんなのか、それは誰にもわからない。そういった視点からこの物語を読み解くのであれば、歴史=史実というものをどう捉えるべきなのかについても、その地盤が揺らぐことになる。
『密航のち洗濯』の視点:他人事の視点
以上を踏まえて、『密航のち洗濯』における「書くこと/書けること」を考えてみたい。『哀れなるものたち』が複数の語り手がいることによる「本当のことはわからない」であるならば、尹紫遠という実在の人物の日記をもとに構成される本書は、対照的に「(実質的な)語り手が一人しかいない」ことによるわからなさを生じさせているのだ。
実際には語り手は一人ではなく、尹紫遠の妻や子どもたちも語りの役割を担ってはいる。しかしそのパワーバランスは明白に不均衡なものであり、特に女性(としての役割を担うことになった者ら)の語りはほぼ残っていない。
このことは著者両名(宋恵媛・望月優大)も認識しており、「誰かが「書くこと」と「書けること」についても、重要な主題となった」(8p)「尹紫遠とは異なり、記録を残さなかっただろう乙先の「その後」を知ることは困難だ。私たちにできるのは、乙先を取り巻く当時の状況に、想像をめぐらせることくらいだろう」(133p)「夫は書くことに、妻は祈りに救いを見出す。尹紫遠の作品や日記を読むと、登志子の姿がくっきり浮かんでくる。だが、それはあくまでも夫が書いた妻であり、登志子自身はほとんど何も書き残さなかった」(147p)といった、日記=史実として残された語りの不均衡さへの言及が随所になされている。
本書および本書のもととなった尹紫遠の作品や日記においては、複数の意味における「書くことができない」が存在している。ひとつは「書いて残すことによって自らを危険な状況に追い込む可能性があるから書けない」であり、もうひとつは「そもそも書くという行為の権利が付与されていないことによる書けない」である5。前者は主に密航経験のある在日コリアンである尹紫遠に、後者は主に登志子や逸己に該当する(尹紫遠にはもうひとつ「自分の都合が悪くなるから書けない」があるが、これは「書きたくないから書かない」という自己保身のための「権利」と言ったほうがよいだろう)。乙先に関してはもっと深刻な意味における「書くことができない」になるだろう。プリーモ・レーヴィの言う「本当の証人はみんな死んだ」を思い出さずにはいられない。6
尹紫遠を(密航経験のある)在日コリアンという条件でもって「抑圧され声を奪われた者」と認識することは正しいが、それだけではもうひとつの抑圧、つまり尹紫遠自身による時に無自覚な=構造がもたらす抑圧を見逃すことになる。本書はそこをまなざしており、朴沙羅による本書の評価はそれを的確に指摘している。
尹紫遠は自らの悲惨さを言語にできる程度には悲惨ではありません。尹紫遠と結婚した(はずの)大津登志子は、差別に直面して憤りつつ、彼女の中にある民族差別や性差別、ハンセン病者への差別意識を克服したわけではありませんでした。そして尹紫遠は、自らが傷つけられる数少ない相手として、登志子が日本人であることに目をつけますーー結婚を通じて、彼女を「朝鮮人」にしたのは尹紫遠なのですが。
その2人の息子たちは大学まで進学し、日記の形でひっそりと、あるいは問われれば静かに、自分たちが受けてきた差別を差別として語ることができます。娘である逸己は、家族の娘として、家族たちの「片付け」を淡々と引き受けます。この本で、逸己以外の登場人物は誰も、厳然たる性差別をほぼ問題にしません。差別を、差別という異様な、あってはならないものとして認識するには、差別が「当たり前」でない状況に置かれる必要があるという逆説があります。あまりに根の深い差別は、当たり前のものとみなされて、問題にされないのかもしれません。登志子の記録は(尹紫遠の言葉だらけの中で、不自然なほどに)なく、登志子は家族によって描かれる対象に過ぎません。そこに空白があることだけがわかり、その空白を埋める言葉も情報もありません。本書の誠実な著者たちが懸命にそれらを探そうとも。
朴による指摘で重要な点はもうひとつある。それは「他人事」という、一見よろしくないように思えるキーワードで表現される向き合い方である。以下、再度引用する。
ところで、私は最初に、この本の感想を書こうとしてうまく考えがまとまらなかったと書きました。それは、本書の記述がある意味で、徹頭徹尾「他人事」として、尹紫遠とその家族の歴史を書いているからです。朝鮮人は、この著者たちに、こんなふうに描かれるようになったのかという思いを、どう表現すればいいか、私にはしばらくわかりませんでした(今もよくわかりません)。在日コリアンが自分たちを書いた文学作品の中で、貧困と民族差別のどちらか、あるいは両方に触れないものを、私は思い浮かべられません(まあ、そもそも私は文学作品をろくに知らないのでこんなことを書くのは笑止千万ではありますが)。その2つは在日コリアンが直面しなければならない現実そのものであるとともに、それらを描くことは現状の問題を指摘し、糾弾することでもありました。『密航のち洗濯』で描かれる差別と貧困は、どちらでもありません。それは、明るくもなければ糾弾のための描写でもない、単なる悲惨です。著者たちは、描かれる人たちの苦境を丁寧に書いていますし、その書き方から対象を尊重しようという姿勢をはっきりと感じることができます。しかし、彼らは描かれる家族の一人一人と共に怒ったり喜んだり苦しんだりするわけでもありません。
でも、もし私の読解が間違っていないなら、この「他人事」としての描写は、悪いことでも、批判されることでもありません。むしろ、肯定的に評価されるべきものです。もしこの本が今の日本で読まれる(べきである)のだとしたら、その理由はこの、他人事ぶりにこそあります。著者たちにとって、そして私自身にとっても、この家族の(そして多くの在日一世の)貧困と差別と、それによる苦痛に満ちた泥濘のような生活は、もはや他人事です。そしてそれは、この本の、この著者たちにとっては、正しい書き方なのです。むしろ、今の日本社会に生きる者がこの対象を自分ごととして描くなら、それは声の簒奪と批判されかねません。そして、他人の苦痛を代わりに語って、自分(たち)の活動に利用するなど、今や許されることではないのです。だから、この「他人事」のような書き方は、著者たちの誠実さの表れです。
『密航のち洗濯』において尹紫遠と乙先が密航時に離れ離れになる(あえて感傷的な表現をすれば「今生の別れ」となる)場面があるが、もしこれが映像化でもされた場合はどのように描写されるのだろうか。本書ではなく尹紫遠の小説や日記を原作にした場合、やはり「今生の別れ」的なエモい描写になることは間違いないだろう。しかしそこに乙先の声はない。本当は「離れられて清々した」と思っていた可能性だってあるにもかかわらず。
興味深い「ねじれ」と他者の声を(代わりに)語ることの不可能性
自分事として書くことによって声の簒奪が生じてしまう状況/可能性は、まさにマッキャンドルスとベラの関係性であるとも言えるだろう。あるいは、編者グレイとベラ(やそのほかの者らの歴史が綴られた原本)との関係性も同様かもしれない。「歴史家になる」と宣言し、原本にある記述の真実性を保証しようと躍起になる編者グレイは、朴の言う「他人の苦痛を代わりに語って、自分(たち)の活動に利用する」ことになってしまっているのかもしれないのだ。これは「所有」の観点からも考えてみることができる現象でもあるだろう。他者の声を自分の声として簒奪するのは、所有欲のあらわれでもあるからだ。
しかし興味深いのは、編者グレイは「本書の主要部分は可能な限り、マッキャンドルスの原本の完全な複製に近づけて」あると主張していることである(序文xv)。『哀れなるものたち』における原本=『スコットランドの一公衆衛生官の若き日を彩るいくつかの挿話』は、『密航のち洗濯』においては尹紫遠の小説や日記にあたるだろう。前者は原本をほぼそのまま採用しているが編者との距離は近く、後者は原本をもとにしつつも編者とは一定の距離がとれている。換言すれば、前者は「無編集であることを強調しているが、結果として自分事(=声の簒奪)になっている」が、後者は「どの声を採用するかが編者によって判断されているが、結果として他人事(=可能な限り簒奪を避けようとする態度)になっている」のだ。先述したように、前者が複数の語り手がいることによるわからなさが生じているのに対し、後者が(実質的な)語り手が一人しかいないことによるそれが生じていることもあわせて考えると、なおさらこの「ねじれ」は興味深いものになる。
このことは、他者の声を(代わりに)語ることの不可能性を考えさせる。残された声がすべてではないし、声として残っているものがすべて本当のことかどうかもわからない。そのうえ、残された声を他者がどのように活用するかによっても、それを受け取る者に与える効果は変わってきてしまう。7
残されなかった/残すことができなかった声があること。たとえ残っていても採用されなかった声があるということ。これらに意識を向けること以外に、どう距離をつめようとしたところで他者でしかありえない私たちにできることはあるのだろうか。
『哀れなるものたち』と『密航のち洗濯』は、読者に対して「本当のことは誰にもわからない=他者の声を(代わりに)語ることは不可能である」ということを突きつけてくる。そう考えると、著者グレイは編者グレイという道化を演じることにより、それを私たちに知らしめようとしたのかもしれない、とも思えてくる。
まとめ(のようなもの)
スッキリする結論はない。出してはならないのだろう。結論は「自分事と他人事のあわいに存在し続けること」なのかもしれないが、その具体的なありかたは提示できない。おそらくこのあと考えなくてはならないこと(接続しなくてはならないこと)は「サバルタン」的なものになるのだろうが、先月読んだスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)はほとんど理解できなかった。哲学の素養がない私には難しすぎるようです。誰かいい感じの(副)教材を教えてください……。
この書簡を執筆した時点でベラはヴィクトリアと名乗っており、本来なら本人の名乗りを尊重すべきなのだが、未読・未見の方の混乱を避けるため、本論ではベラで統一する。
たとえば、シェリー『フランケンシュタイン』は「衰弱したフランケンシュタイン博士を見つけた探検家が、博士の語った物語を自分の姉宛に手紙として送る」という形式をとっている。また、ウォーカー『ドラキュラ』は登場人物たちによって書き残された日記をもとに構成されている点で、後述する『密航のち洗濯』の構造と類似する。なお、ベラは書簡においてマッキャンドルスの本を「メアリー・シェリーやエドガー・アラン・ポーの作品から借用した不気味な要素を付け加えることによって、とんでもなく奇妙なものを仕立てあげたのです。ヴィクトリア朝にはさまざまの病んだ夢想が広がりましたが、そのなかで彼がくすね取らなかったものが何かあるでしょうか? 彼の話には(中略)ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(中略)の痕跡が見られると思います」(452p)と批判している。
バクスターがフランケンシュタインによって生み出された怪物であるかのような描写(少なくとも読者にそう推測させる記述)をマッキャンドルスはしているのに対して、ベラはバクスターのことを「一目見ただけで、不安が消え、心の落ち着きを覚える」(430p)と正反対の評価をしていることもあわせて考えると、さまざまな観点においてねじりまくった皮肉がここにあるように思える。
本論においては、編者のグレイと著者のグレイは別人格として認識している。
さらに付言すると、ベラが受けたとされる裁判において「知的障害者を集めたのは、知的障害者連中があなたのクリニックについて言うことを、まともな人間は信じそうにないからではありませんか!」という質問者に対して「違います」とベラが答える様子が描写されている(513p)。序文におけるグレイの立場(=精神障害者であるベラの言うことは真に受けるべきではない)を踏まえると、この描写の果たす役割がどのようなものになるのか、余計に判断がしづらくなる。物語の構造上、真に受けるべきではないのが誰のどの発言なのかがわからないのだから。
また、ベラは「脳に損傷のある人たちは大抵、機会さえあれば、私たちが“正常”の名のもとに分類する多くの人々と比べて、はるかにこまやかな愛情を示します」とし「手際のいい看護婦たちと同じだけの給料」を支払っていると主張することからも、ベラが障害者への差別主義的な価値観には染まっていないことが推測できることも、付言しておく(512p)。
先日当店にて開催したイベントにおいて、翻訳者・栗原俊秀が言及していた移民における「書けなさ」についても紹介しておく。第一世代の移民は、故郷の言葉は奪われ移住先の言語は上手に扱えないため自らの生を物語ることができない。ゆえに第二世代が第一世代=親の生を物語ることになる。しかし本論の文脈から考えると、その語り(=声)が第一世代の本当の声(=生)であるとは限らない、ということになる。イベントのテーマであった作家ジョン・ファンテ(イタリア系アメリカ人/第二世代)が残した小説たちの持つ語りの構造は、『哀れなるものたち』『密航のち洗濯』とも共通するところがあるように思える。
これは『ホロコーストからガザへ パレスチナの政治経済学』(青土社)内の徐京植の発言から引用している。以下、正確な引用を記す。
彼自身は、生き残った自分は死んだ人の代わりには語れない、なぜならば、本当の証人はみんな死んだのだから、という言葉を残して死にました。だから本当の証人だけが語れるとか、知っている人間だけが語れるという言葉は疑ってみる必要があると思います。自分たちは知らない、知らないかもしれない、しかし、知らないということが恐ろしい、知らなくていいはずはない。こういう自問こそが、連帯の基盤、新しい普遍性への基盤なのだと思います。(269p)
たとえば、映画『ガザ・サーフ・クラブ』で語ることが許されているのは、つまりその映像の中に出てくるのは、ガザ内部においては比較的裕福な生活を送ることができている者らであることも思い出される(女性による語りも圧倒的に少ない)。この映画で語られているのは、決して「ガザのすべて」ではない。やはりそこには、語ることができない/許されていない者らが存在しているのだ。