本誌『灯台より』で連載中の守屋信さんに、web版でも好き勝手書いてもらうことにしました。かっちりとしたテーマがあるわけでもなく、連載タイトルにも深い意味があるわけではなさそうですが、もしかしたらどこかで収斂するのかもしれません……。初回からいきなり2本立て。各々のペースでお楽しみください。
旧友、そして何かを書くということ
英国在住の友達からメッセージが届いたのはクリスマスの頃だったか。「急だけど、26日〜28日で熊本へ行くから、28日に会えないかな?」と書いてある。
毎週木曜日は受診日で、28日もその木曜日だ。ここのところ体調はひどく悪く、通院さえできるかどうかという具合だった。よくよく考えたが、この日を逃したらもう一生会えないかもしれない。どうしても顔を見て伝えたいことがあった。
悩みに悩んで「28日は午後から週に一度の受診日で、午前中はあまり体が動かないけど、11時半から13時に我が家に来てくれたらお茶ぐらい用意できるよ、散らかっててもよければ」と返信した。「じゃあそうしよう、熊本に着いたら連絡するね」とすぐに返信が来た。
Facebookで彼女を見つけてやり取りが始まったのはいつ頃だっただろう。小学校、中学校とずっと一緒だった。小学生時代の思い出もたくさんあるが、中学の2年3年と同じクラスで、多感な時期を一緒に過ごした。高校で離れ離れになり、それから長い時間が過ぎた。早くに英国人男性と結婚して英国に住んでいる、という噂は聞いていた。
Facebookで見る彼女はいつも輝いていた。モデルのように颯爽としていて、いつもセンスのいい服を身にまとっている。家族を大切にする一方で、白人階級社会でバリバリ働く強さとしなやかさを持ち、写真の腕前もなかなかのもので、Facebookに投稿があるたびにほれぼれと彼女の活躍を眺めていた。そこにあるのは私の理想の「素敵な女性」だった。
高校生の頃一度会ったかどうか、というぐらいなので、実際に会うのは何十年ぶりだろうか。彼女が我が家に来てくれる、と思っただけで「少しでも片付けておこう!」と思い、雪崩を起こしていた積み本を箱詰めし、勉強道具を片付け、リビングテーブルをきれいに拭き上げた。ダイニングテーブルも書類が広がったままになっていたことに気がついて、慌てて片付けた。これでもまだ散らかっているように見えるだろうが仕方ない。
当日、午前11時に「これから歩いて向かうね」とメッセージが入った。朝早くに一度起きて、体力温存のために横になっていた私は慌てて飛び起きて身支度をした。ばたばたしているうちにインターホンが鳴った。
中学3年生の時に、ちょっとした思いつきでSFショートショートを書いた。同じクラスの何人かに読んでもらった。その時に「すごくおもしろかった!」と言ってくれたのが彼女だった。国語の授業以外で書いた文章を褒められたのは初めてのことだった。自由に書く楽しみと喜びを認めてもらえた、という気持ちになって、高校生になってからもずっと書き続けることができたし、誰かに読んでもらうことへの抵抗が少し和らいだ。彼女のその一言が、その後の私を支えてきたのだ。あの出来事がなければ、私はここにこうして存在していないだろう。
そのことについて、きちんと顔を見て、私が今あるのはあなたのおかげ、と伝えたかった。あなたが私の人生を良きものにしてくれたのだ、と。
人生は何が起こるかわからない。中学校を卒業してからも、私はピアノの道に進もうか、英語の道に進もうか、はたまた医学部を目指そうかとふらついていたけれど、やっぱり書きたいという欲求からはどうしても逃れられなかった。
物心ついた幼少時から「死」ということをいつも考えていた。どうしたら自分が今ここに生きていたという証拠を残すことができるのか。口から発せられる言葉はその瞬間に消えていく。小学校に入る前には、誰からも教えてもらわなかったのに、文字の読み書きができるようになっていた。父が英語や漢文に通じていて、読書家だったせいもあるだろう。幼い私にいろんな知識を与えてくれた。いつしか、書いた言葉は「残る」のだということに思い至っていた。
小学校1年生の時に「小説家になる」と宣言した時のことをよく覚えている。梅雨の頃だと思う。外は雨が降っていて、目の前には小さな小さなカエルの置物があった。今にも動き出しそうなそのカエルを見て、折り紙の裏に「カエルが葉っぱの下で雨宿りをする」というような短いお話を書いた。ほんの5行ぐらいのものだったと思う。たまたま近くにいた伯母にそれを見せて「小説家になる」と言ったのだ。
それからは、時々思い出したように創作めいた日記を書いたり、中学生、高校生になると、自分のために詩を書き、人を楽しませるためにショートショートのようなものを書いたりした。短大時代は短い創作のようなものをいくつか書いて、サークルの会報誌に載せてもらっていた。数人から「いつも楽しみにしてる」と声を掛けられて恥ずかしくなったりした。大人になると、ストーリーのあるものはなかなか書けず、抽象的な散文詩のようなものを時々書いた。随筆、エッセイというようなジャンルのものはたくさん読んだけれど、自分にそんなものが書けるとは思ってもいなかった。
初めて本屋lighthouse発行の『灯台より』に文章を書かせてもらった時、カエルの物語を読んでくれた伯母に真っ先に本を届けた。「あなたは小説家になると言っていたから、夢が叶ったのねえ」と何十年も前の子どもの戯言を覚えていてくれた。「小説じゃないけど、書いたものが本になって誰かが読んでくれるなんて思ってもみなかった、また次も頑張る」というようなことを言った。
玄関のチャイムが鳴ってドアを開けたとたん、懐かしい顔が現れた。その瞬間に「わあ! 久しぶり! 全然変わってない! ほんと変わってない!」と一気にテンションが上がった。「どうぞ上がって上がって」と友達を促した。もうどこから何から話したらいいのか、積もる話がありすぎて、一秒さえ無駄にできない勢いで語り合った。もちろん中学3年生の時の、あの忘れられない一言についても、ちゃんとお礼を言うことができた。私はもう20年近く闘病生活を続けていることを話し、彼女はここ2〜3年の間に起こったタフな出来事を乗り越えたことを教えてくれた。そして、お互いにとてもよく頑張ってきた、今まで本当によくやってきたと称え合い、これからもそれぞれの道でしっかり生きていこうと励まし合った。
あっという間の1時間半だった。病院へ行かなくてはならない時間が近づいてもなかなか別れ難く、玄関までほんの十歩ぐらいの間もずっと話し続けていた。いよいよ彼女が靴を履いて、「またどこかイギリスでも日本でもいいから絶対に会おうね」「イギリスに勉強しに行くこと、絶対に諦めないから」と、いつになるかわからない、実現できる保証もない約束をした。どうしてもそうしたい、という力が漲っていた。今、ここで別れたら、一生会えないかもしれない。「頑張ろうね」とハグしたら涙があふれてきた。彼女がエレベーターに消えていく姿を見送った。
ほんの1時間半の間、我が家のリビングは華やかな優しい光で満たされていた。彼女の存在がとても眩しかった。夫の棺には「次に会う時は素敵な女性になっているから待っていてください」と書いた手紙を入れたけれど、まさにその「素敵な女性」のお手本のようだった。強くなりたい、心の底からそう思った。
十四歳
目が覚めてきたけどまだ眠い。ぎりぎりまで寝ていたいし本当は学校なんて行きたくない。お母さんが「早く起きなさい」と怒鳴る。いやだ、起きたくない。「頭が痛い、学校行けない」と言ってみたけど、「行くだけ行って、我慢できなくなったら帰ってきなさい」といつもと同じことを不機嫌な顔で言われる。仕方なく起き上がってぼんやりしたまま制服に着替える。面倒くさくてたまらない。朝はいつも何も食べたくなくて、顔を洗って歯磨きだけしてぐずぐずしながら家を出る。
学校は家から歩いて五分ぐらいだけど、そんなに長く歩きたくない。登校時間ぎりぎりか、もしかしたらもう遅刻かもしれない。登校しているほかの生徒の姿も見かけない。朝のチャイムも聞こえてこないから、きっともう遅刻だろう。
クラス替えは二年生に上がるときの一度だけで、担任の先生は変わらなかったから、三年生になった今も同じ男の先生が黒板の前に立っていた。重い気持ちでなるべく静かに教室に入ると、ホームルームは終わりかけていて、遅れて教室に入った私の顔色が悪かったのか、顔を見るなり先生は「大丈夫か?」と言った。お母さんはこの先生との面談のたびに「うちの子は体が弱いから無理なことはさせないでください」と言っていた。そのたびに私は無気力になっていった。返事をするのもだるかったけど、もうあと数年で定年を迎えそうなその先生のことは信用していたから、「はい」とだけ言った。
授業中のことはあんまり覚えていない。話も聞かずにただぼんやりと机にシャープペンシルで落書きをしたり、隣の席の子とおしゃべりしていても注意しない数学の先生のことを、心の中で少しバカにしたりしていた。給食の時間が最高に面倒くさくて牛乳だけ飲むと、逃げるように生徒会室に向かった。生徒会室には自分用の机と椅子があって、そこが私の居場所だった。
誰もいない部屋で、一人で机に突っ伏していたらなんだか無性に死にたくなって、カッターナイフの刃をカチカチと出したり引っ込めたりしているうちに、一人二人と生徒会の子が集まってきた。生徒会の子たちとは不思議とうまく付き合うことができて、何人かでふざけているうちに何もかもどうでもよくなった。短い昼休みが終わって午後の授業が始まる。またあとで、とみんな自分のクラスに戻っていく。
午後の授業も退屈で、だるいな、早く終わらないかな、としか思わない。なんでこんなところにいなくちゃいけないんだろう、死んだ方がましだと気が狂いそうになる。放課後はまた生徒会室へ行く。吹奏楽部のホルンの音が学校中に響き渡っている。生徒会のみんなも放課後は決まって生徒会室へ集まってくるけど、やらなくてはいけないことなんか何もなくて、ほとんどいつも下校時間までみんな好きなことをしてふざけ合っている。
下校の音楽が流れると、私の居場所はなくなる。どうしても家に帰りたくなくて、生徒会のうちの誰かを誘って近くのショッピングモールへ遊びに行った。友達が「帰ろうか」と言い出すまでぶらぶらしてからお店を出た。
帰り道、一人になって夜道を歩きながら、どうしてお父さんもお母さんも怒ってばかりの家へ帰らなくてはいけないんだろうと思った。小さい頃から「出て行け」と言われて何度も何度も殴られた。そんなに私のことが嫌いなら産まなければよかったじゃないか。なんでもうまくやれるお姉ちゃんは、お父さんのこともお母さんのことも何も気にしていないように見える。いつも私だけが二人を不機嫌にさせている。このまま家に帰らなかったらどうなるんだろう。橋の上を通りかかって、ここから落ちても死なないだろうな、と思う。どこにいても頭の中がざわついていて、生きている自分は吐き気がするほど気持ちが悪い。今この瞬間に、文字どおり蒸発して消えてしまいたい。そのままどこか知らない所へ行ってしまおうかと思ったけど、どこへ向かったらいいのかわからなくて、仕方なく歩き続けた。
守屋 信
本屋lighthouse発行『灯台より』でエッセイを連載中。フリーペーパー「灯台下暮らし」を発行したり、仲間三人で「ゆらぎ」というフリーペーパーを作ったりしています。いつ卒業するのかわからない大学生。
HP→https://moriyanob.wixsite.com/info1
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