ふだんは有料配信ですが、今回はタイ旅行記も含まれるため無料配信です٩( ᐛ )و
4月1日(月)
タイ初日。家を出たら雨が降っていていつも通りだった。成田に着く頃には晴れる。タイ航空のサービスは充実していて、機内食はヴィーガンやらなんやらの多くのバリエーションが選択できて、アレルギー持ちにはとてもありがたかった。おやつも出てきたし、もう帰国してもいいくらいの満足感。このような「特別食」はほかの乗客のものよりも先に出てくるので、一足早く食べることになる。このあたりも素敵だと思う。「後回し」ではないところ。
スワンナプーム国際空港に着いて、バスでカオサン通りまで行く。相変わらず渋滞していて、タイに来た感がある。今晩の宿は以前ひろこさんと来たときに泊まったところの少し手前で、なんとなく見覚えのある通り。前回見つけた、物憂げな顔をして頬杖をついている石像が並ぶ食堂も発見。タイパンツとタイシャツ的なサムシングを買って、ごはんを食べてホテルへ戻る。今回の旅はほとんど父におまかせで、どこにどう行くのかもよくわかっていない。存分に振り回されようと思う。
4月2日(火)
早朝6時に宿を出る。久しぶりに2日連続で5時起き。きびしい。チャオプラヤ川対岸へと渡るための船に乗るが、やはり時刻表はズレていた。地元の人も間違っていた。対岸に渡ってトンブリ駅まで少し歩く。そこから電車で2時間30分くらいでカンチャナブリ駅へ。さらにバスでサンクラブリというミャンマーとの国境近くの町まで行くのだけど、バスが見つからない。おそらくコロナ禍で観光客が減って以降、観光用のバスは廃線になったのかもしれない。ロットゥーという乗合バンみたいなもので行くことにする。最大13人乗り(日本なら9人くらいにすると思う)のバンで約4時間ほどか。サンクラブリに到着。
バイクタクシーに乗って目星をつけていた宿あたりまで行く。原付に3人乗り(運転手・父・私)。結構な坂道を通るため、下り坂ではブレーキが効くか心配になる。しかしこれがタイであり、ブレーキは往々にして効く。レッド・ブリッジを渡り、モーン・ブリッジ前に到着。この橋は木造で、長さが……ここで正確な長さを調べようと公式の観光案内ページを見ると850メートルとあるのだけど、たぶん350メートルの間違いだと思う。とりあえず結構長い木造の橋を渡るとモン族の村があるほうに着く。宿は橋を渡らない側の高台で、強羅を思い出す坂道をのぼってたどり着いた。
無事空室が見つかり、宿に荷物を置いてモーン・ブリッジを渡る。渡った先のバイクタクシーを捕まえて、またもや3人乗りでなんとか寺院(×2)へ。寺院の中にある看板で建造中のようなビッグブッダの写真があり、これはどこなのだろうか、もう見れるのだろうか、などと話す。結局よくわからず、待ってくれているバイクにまた乗って橋まで戻り、渡り、橋のすぐそばにあるごはん屋さんで夕食とする。父がチャンというメーカーのビールを頼み、久しぶりに私も酒を飲むか、タイだからね、とシンハーを頼む。想像の2倍の大きさのチャンが出てきて、小瓶1本で十分な私は慄く。しかしシンハーは出てこなかった。オーダーが通っていなかった。ありがとうタイ。昨日に引き続きすばやく寝る。職人ではないが、明日も朝が早い。
4月3日(水)
6時前に起床。モーン・ブリッジ周辺でお坊さんにお供物?をする景色を見たい、とのことで7時前に橋まで行く。あまりいない。橋を渡った先の町でその光景が見れた。観光客も体験できるのだけど、タイ仏教を信仰しているわけではない自分が、決して観光用=見せ物ではない、つまりかれらにとっては日々の信仰の実践の場であるそれに、のこのこと入っていっていいのか、という問い。しかしそもそもこれ自体が観光=見せ物化しているのも事実だし、現地人もこれで収益を得てもいる。とはいえ、このような信仰の実践を見せ物化しなくてはならなかったとも言えるわけで(都市部と地方寒村部との力関係などなど)、そういった資本主義社会下におけるある種の搾取・支配構造のことも考えると、現地人がよしとしているのだからいいのだ、という解決は決して正しくはない。ようはこの問いにはわかりやすい答えなど出ないし、出して満足してはならないのだろうと思う。
宿に戻って朝食。バイキング形式。豚の角煮がうまかった。ここには2泊するので、明日も食べ散らかしてやろうと思う。ひろこさんにも見せつけてやろうと思い、写真を撮り送る。というか、基本的に毎食のごはんを送ってはいる。よろこぶから。
朝食後はボートに乗ってダムに沈んだ寺院などを見にいく。モーン・ブリッジまで行くとすぐに「ボート?」と声をかけられるので簡単に乗れる。だいたい1時間ほどかけて3つまわり、戻ってくる。大満足。朝9時30分。宿に戻り(つまり強羅のような坂をのぼり)、バイクタクシーで町の中心部まで行く。そこからバスなりなんなりで20キロほど先にある国境付近の遺跡的なところに行きたかったのだけど、やはりここでもバスが消失していた。父の持っている『地球の歩き方』は最新号だが、それでも更新されていない情報がある。旅慣れしている父がバスロータリーのような場所にいるおじちゃんにチャーターできるか訊いたら500バーツとのことで、さすがにそこまで出す価値がある場所なのかどうかもわからんので、サンクラブリの町を散策することにした。昨日バイクタクシーでレッド・ブリッジ近くまでいったときに通った気がする道を歩く。しかし途中で見覚えのない道になる。仕方がないので歩き続ける。今回の旅では、可能な限りGoogleマップは使わないことにしている。無駄に歩き続け、ようやく「モーン・ブリッジ300メートル」みたいな標識を見つける。今回はiPhoneの翻訳アプリを多用することで、前回とは違った楽しみ方ができている。画像認識でリアルタイム翻訳してくれるので、町中の看板やら標識やらのタイ語が読める(英語表記はほとんどない)。昼前に宿に戻り(つまり強羅坂をのぼり)、父は昼寝。65歳にはきびしい散歩となってしまった。
15時頃に宿を出て橋を渡り、渡った先のごはん屋さんで軽く昼飯。バイクタクシーを見つけ、ビッグブッダ、つまり前日見つけた建造中と思しき仏像、しかし今朝のボートからはそれらしきものが見つかった仏像を目指す。しかし運ちゃんは昨日も行った寺院に我々を連れて行った。そこでもう一度ビッグブッダと発すると、なにか合点がいったようで「そこの手前の道を右折」的なことを教えてもらう。意気揚々と進む我々。これが悲劇の始まりである。
細い山道を分け入り、T字路に出る。看板を翻訳アプリで映すとなにかの寄進者一覧だった。そもそもビッグブッダは建造中らしいから標識など出ていないのだろう。確かにボートからは、そして宿からも見えていたビッグブッダなのだが、近くに行った途端に山で見えなくなる。しかし方向はあっちのはず、とT字路を右折する。舗装されていない道になる。廃屋のような建物からワンちゃんが5匹ほど連なって出てくる。我々のあとをついてくる。不穏。山道をのぼる。ワンちゃんたちのテリトリーを抜けたのか、ついてこなくなる。さらに道がなくなる。道っぽいほうには新たなワンちゃんがいる。吠えている、吠えまくっている。明らかに歓迎されていない。しかしビッグブッダはそっちの方角にいるはずなのだ。バーキングドッグに挨拶をしながら道なき道をのぼる。すると見えてくる背中。ビッグブッダの背中。大量のワンちゃんを引き連れながら、いや、吠えられながら最後の坂道をのぼるへろへろの日本人2名。観光客はもちろんいない。
たどり着いたのは、やはり建造中のビッグブッダだった。ブッダ自体はほぼほぼ完成しているようで、台座的なところを造っているようだった。なお、中までじっくり見ることができた。日本なら入れないと思うが、タイはこのあたりゆるい。正確には、入っていいのかダメなのかわからない場所ばかりがあり、そういうところは往々にして入っても大丈夫、という感じ。
予定通りに観光ができず、朝からずっと思いがけず歩くことになってしまった父もこれには満足。しかし台座の横に舗装された道があるのを見つけ、やはり我々は間違った道を進んでいたことが発覚。帰りはその道を通って戻ったのだが、どうやら寄進者名簿の看板を左折すればそっちの道に出ていたようで、しかもすぐにビッグブッダも見える道だった(看板曲がって数メートルのところでツアー観光客がブッダの写真を撮っていた)。しかしあの感動は、ワンちゃんに警戒されながらブッダの姿が見えない道なき道を行ったからこそ味わえるものであろう。我々の勝ちである。
父はモーン・ブリッジの真ん中でタイの国歌を聴きたいとのことで、橋までまた歩いて戻った(タイでは18時になると国歌が流れ、立ち止まって聴く者が多い)。しかし疲れ切った。昨日と同じ場所で夜ごはんを食べて(今日はシンハー1本)、強羅坂。爆睡。
4月4日(木)
久しぶりに7時近くに起床。ふだん9時近くまで寝ているのを考えると奇跡であるが、夜も21時とかに寝ているので気持ちよく起きれる。朝食バイキングへ向かう。角煮がなかった。しかしほぼ同じ味付けの豚肉炒めみたいなものがあり、それで満足する私は容易い。容易くて結構。
チェックアウトしてロットゥー乗り場へ行く。一昨日4時間かけてやって来た道を戻り、しかしカンチャナブリまでは行かず途中のワンポーという町で降りる予定。途中下車可能かは昨日の時点で受付係に確認していて、バスもだいたい30分おきに出てるから大丈夫、みたいな感じだった。のだけど、渡されたチケットの時刻は12時40分。現在時刻8時50分。ワンポーのほうにも行ってくれるロットゥーは、実際には本数が少なかったのか。ようわからんがとにかく4時間ここで過ごさねばならない。とりあえず近くの屋台っぽいお店でジュースを飲みながら時間を稼ぐ。昨日行っていないほうへ散策でもしようということになり、少し歩くと役所みたいなところに出た。翻訳アプリを向けるとDV報告センターみたいな文言が出てくる。タイにも共同親権的なあれはあるのだろうか。そのセンターの庭っぽいところにいい感じの東屋があり、そこでさらに時間を潰す。私は持参していた池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』(岩波新書)を読む。父は昼寝。
父曰く、本当はこうやってなんもしない時間を過ごしたいのだけど、どうしてもどこかに行きたくなってしまう。なにかをせねばもったいないと思ってしまう。とのこと。確かに父はこの旅行中、当初自分で(そして私に対して)言っていたこととは真逆のような振る舞いをしている。父が私にこうしたほうがいいああしたほうがいいと常々言っていることは、多くは自分が「そうしてきたこと」ではなく「そうしたかったこと」なのかもしれない。
どうにか4時間を過ごして乗車。ワンポーにて電車に乗ってタムクラセーまで行けると最高、という目論見。ワンポー駅まで乗せていってくれればギリギリ電車に間に合いそうな時間だったが、国道と思われる大きな道沿いで降ろされて「あっちだよ」と言われる。あっちなのはわかっている。問題はここから駅まで5キロほどあるということだ。やはり駅までは乗せてくれなかった。電車は諦める。しかしここで奥の手Googleマップを活用してみたところ、タムクラセー駅まで歩いても距離はたいして変わらないということが判明。歩く。今日も歩く。明日は歩かないと昨日宣言していた父だったが、残念。
途中、サル注意的な標識を見かける。少し歩くと餌やりゾーン的な標識も見つかる。どういうことかと思案していたら、前方からやってきた車がなにかを放り投げた。すると道の両側からサルがたくさん飛び出てきた。昨日のビッグブッダに引き続き、歩いているといいことがある。これで元はとれた、と父は満足気だった。どうにかこうにか駅までたどり着き、クラセー橋を渡る泰緬(たいめん)鉄道の雰囲気を少しだけ感じとり(どうせ明日行くので)、すぐに宿に行くことにする。売店の看板にシャトルカーの文字があるので予約していたゲストハウスまで行けるか訊く。500バーツと言われ値切ろうとする父。バイクでもいいと言うと400バーツになった。3人乗りで出発する。みんな笑っている。これまで乗ってきたプロの3人乗りバイクタクシーの運ちゃんとは違って、今回は売店のおじさんである。明らかに危うい。数百メートル進んだところで下車。車に乗り換えた。やはり無理だった。そして車でゲストハウスに到着。父的には2キロ程度の距離だと思っていたからバイクでもいいと言ったらしいが、実際には直線では来れない地形になっており、大回りで10キロほどの道のりだった。そりゃ車ですわ。無茶言ってすみませんでした。まさかこのご時世にGoogleマップではなく『地球の歩き方』の地図だけでやってくる観光客がいるとは思わないだろう。
川沿いのゲストハウスはこれぞ「父的タイ旅行」という感じだった。バルコニーで「すき焼き+焼肉」みたいな鍋を使って肉をくらった。暑いし熱いし辛い。そして大量のハエ。写真で見るような「リゾート」とは程遠い地獄のようなフードファイトを私は制し、玉のような汗を迸らせる私の上裸写真をひろこさんに送っておいた。しかし貧相な上半身である。写真の角度も悪いのか、頭が大きく見えてなおさら上半身の細さが際立ってしまっている。案の定ひろこさんからは「ガリガリで情けないな」と返信。なお、日中に美容室への雑誌の配達業務をひろこさんに頼んでおり、無事やり遂げたひろこさんはピザパーティーを開催したもよう。私はこの日も爆睡。
4月5日(金)
ゲストハウスの最寄駅Lum Sumまで歩き、そこから線路沿いを歩いてタムクラセー駅まで戻る。クラセー橋は観光名所であり、線路を実際に歩くことができる。この橋は第二次大戦中に日本軍が各国の捕虜や現地人などを強制労働させて造った軍事補給用の線路であり、端的に言って危ない場所に造られている。しかしそこも歩いて通れる。しかし我々はそこにたどり着く前にまたもや寄り道をしてしまう。正確には父が、またもや貧乏性を発揮して途中で見つけた洞窟に行ってしまう。その洞窟は(またもや)山道を400メートルほど進まねばならず、高低差も100メートルくらいはあるような感じだった。しかしたどり着いた洞窟はやはり行ってよかったと思うものであり、のちほど行った有名な洞窟(タムクラセー駅すぐ)よりも価値のあるものではあった(「戦争捕虜の洞窟」と名付けられたそれは、まさにこの山道を捕虜が収容されるために歩かされたことを体感できるものでもあった)。
線路沿いの道に戻り、1キロほど歩いてクラセー橋までたどり着く。ここまで来てやっと観光客が現れる。電車が来ない時間帯に橋=線路を歩いて渡り、タムクラセー駅に着く。昨日の売店の人たちが我々を覚えていたようで軽く挨拶をする。駅の食堂で昼飯を食べ、カンチャナブリへ戻る電車を待つ。父は昼になにも食べなかった。
電車に乗り、窓の外を見ると例の売店がホームの先、真正面に見えた。昨日真っ先に英語で「どこ行くの?」と訊いてきた彼女が立っていたので手を振った。たぶん彼女は移行前、もしくは移行途中のトランスのような気がした。あるいは移行を必要とは思わないトランスかもしれない。それともトランスではないのかもしれない。いずれにせよすべてが憶測でしかなく、その憶測のもとなされるこの振る舞いが傲慢かつ独善的なものになることを承知のうえで、それでもやはり私は手を振りたいと思ったし、この振られた手には、言葉にできない様々なまなざしをこめたいと思ったのだった。当然、こちらのそんな思いなど向こうには届いていないだろう。電車の乗っている観光客から手を振られることなど日常だろうし、私とはGoogleマップを介した住所確認のやりとりしかしていない。私が日本でどんな本屋をやっているかなんて知る由もない。私にできることは、私はあなたを異物として認識してはいないのだ、ということをどうにかして伝えることだけである。クィアフレンドリーモチーフのグッズを身につけておけば、もう少し伝わったかもしれない。しかしそのあからさまな「フレンドリー」を嫌がる/警戒する者もいる。正解などわからないし、あるはずもない。どこまでも自己満足でしかないまなざしを、向け続けるしかない。
カンチャナブリ駅に着き、宿も確保。ここで2泊して、バンコクに戻る。父は夜飯もダメだった。完全にやられている。
4月6日(土)
父、今日もアウト。貧乏性を発揮する余裕もないほどにやられている。部屋のおふとんで伏せっているので、私はひとりでカンチャナブリ駅周辺を散策する。泰緬鉄道博物館に行き、じっくり2時間以上英語とにらめっこする。半分くらいしか理解できてはいないが、日本がどれだけ非道なことをしてきたかは理解できた。昨日、外務省からのお知らせ的なメールでバンコクの在イスラエル領事館前でデモがあることを知り、なぜだか安心したことを思い出す。観光をしていると日常から切り離されてリラックスできるが、同時にその「切り離され」への居心地の悪さもある。しかしこうして、私にとっての非日常であるタイにおいて日常生活を送っている者らが、その日常生活の中でパレスチナでの虐殺に抗議しているということがわかると、私は世界から切り離されてはいないのだ、まだその責任の輪の中にいるのだ、というようなことを感じることができる。
鉄道博物館で知った日本の愚行、つまり植民地主義による領土拡大=戦争と、その最中に強制労働によって多くの死者を出しながら鉄道を敷設したということ、その様子はいまの日本の様子と本質は同じなのだということ。たとえば捕虜30名近くを小さなコンテナに押し込めて何日間も輸送したこと、労働現場でどれだけ傷を負おうが病に伏せようがまともな治療をしなかったこと。それはきっと被災地の避難所環境がいつまで経っても改善しない、というかそもそも改善する意思すら統治者にはないことと、根本の部分で繋がっているはずだ。そこには尊厳がない。目の前にいるのは自分と同じ「いきもの」なのだ、と思っていない(ここで言う「いきもの」は「人間(であること)」だけを指してはいない)。鉄道を敷設するための素材(マテリアル)としか思っていない。ゆえになくなれば補給すればいい。補給できなくなれば他所から奪えばいい。捕虜というのは、戦争というのは、きっとそういうことなのだ。それとも、深層では素材とすらも思っていないのだろうか。そもそも存在を認識していない。まさに二重思考のような状態だが、そもそも存在してすらいないのだから、尊厳もなにもないのだ。尊厳ある存在として「扱う」ということができない。その必要がない。しかし(統治側の)必要に応じて「それ」は利用できる。
そんなことを考えたあとに隣の連合軍共同墓地に行ったからだろうか、100メートル×300メートル四方ほどの敷地に規則正しく設置された墓石を、できるかぎり多く、できるかぎり長く、見ておきたいと思った。実際に骨や遺留品が埋まっているのかもしれないし、なにもないのかもしれない。無名の墓石が並ぶ一角もあった。なにもないのだ。戦争によってないことにされてしまった=殺されてしまった者らがここにはいて、かれら(や戦争)の存在をないことにされてしまうのをどうにかくいとめようとする者らがいることによって、かれらはここに「ある」。この墓地にすら存在することが叶わなかった者らもいる。私はその「ある」と「ない」を知っている。その「ある」と「ない」を、つまり有名無名を問わないあらゆる存在の歴史を、私は引き継いで、いまここにいる。私の日常生活は、そしてあらゆるすべての存在の日常生活は、そのようにして続いている/いく。
夜、相変わらずダウンしている父を部屋に置いて駅前の夜市的なところへ。立ち並ぶ屋台の中から軽めのごはんを探す。たぶん鶏肉を揚げたものがタイ米の上に乗っている弁当を購入。そのまま散策していると寿司が屋台で売られている。ここは野外。ガラスのショーケースのようなものもない。今日のタイの日中の気温は40度。つまり乾いた寿司。ここに槙生がいたらその寿司は殺されていたが、ここまで強気な乾きなら槙生も認めたかもしれない。同じように砂漠を生きる存在として。
4月7日(日)
バンコクへ移動。カンチャナブリ駅から鉄道で2時間30分の、行きと同じ道をバンコク方面へ戻る。この鉄道が強制労働によって敷設されたことを強く認識した後では、見えてくる景色がまったく違う。駅を通過する。展示の中で見かけた名前の駅であることを認識する。ホームには歴史を記す碑があることも認識する。
ホテルに荷物を預けて、父は病院へ。旅行保険に加入していたため、そして『地球の歩き方』を熟読していたため、日本語対応の病院に行くことができた。父はスマホを持ってはいるが使えはしない人なので、いざというときのために結局私もついていくことに。たどり着いた病院は人生史上もっとも立派な病院だったが、そこで父は「胃が弱ってる」というありきたりな診断を受け、ビオフェルミンと大差ないような薬をもらった。なんだか申し訳ない感じになる。しかしそうやって遠慮をしていたら大事になっていた可能性もあり、保険に入っていてよかったと思う。不要な救急車の使用は控えよ(有料にします)、的な新自由主義的愚策がこの前話題になっていたけど、それはやはりよろしくない。そんなものを公や政が率先して導入するのは言語道断だし、民の側からもそれに協力する(のが正しい)ような空気にするのはよろしくない。
昨日同様に、父を部屋に置いてひとりでバンコクを散策。このあたりは何度も来ているのでもはや庭である。マンゴーとタイ米にココナッツミルクがかかっているやつを今回の旅ではまだ食していないため、それを探す。というか、それが確実にあるショッピングモールのフードコートを探す。5年前くらいにひろこさんと行ったところ。発見して食す。確かこのビルの中に紀伊國屋書店もあった気がして探す。発見して入る。じっくり2時間くらい棚を見て、『哀れなるものたち』の原書を購入。『トランスジェンダー問題』『セックスする権利』などの原書もあった。
ホテルに戻って、昼にセブンイレブンで買っておいたカップラーメンを食す。タイに来たらカップラーメンも食さねばならない。タイのカップラーメンは中に小さなフォークも入っていて、なんかそれがうれしい。父はだいぶ元気になっていたが、まだ食欲は10%程度か。日記ZINEの入稿作業もやってしまおうと思ったが、印刷会社のHPにアクセスできなかったので断念。
4月8日(月)
アジアホテルという高級ホテルなためか、ほとんど欧米系とアジア系の観光客しか泊まっていない。ゆえに朝食バイキングもタイのごはんというより欧米系のブレックファストという感じであり、ちょっとものたりない。私はグリーンカレーをまだ食していない。辛くておでこの汗がとまらなくなるやつ。父の食欲は20%くらいまで戻ったか。父は前回ひとりで来たときに空港で飲んだマンゴーライムスムージーをもう一度飲むために、病院に行ったのだ。その願いは果たされてほしい。
チェックアウトしてBTSで空港へ。この硬い椅子に座るとタイに来たという感触をあらためて感じることができる。長時間座らせるつもりはねえぜ、という強い意志を感じる座席のつくり。そして冷房が効きすぎていて寒い。長時間乗らせるつもりはねえぜ、という強い意志。
空港についてチェックインを済ませて、地下へ戻る。そこにスムージーがあるらしい。が、お店自体がなくなっていたので、似たようなお店でマンゴーだけのスムージーを飲む父。半分は私が飲んだ。そして私が前回来たときに飛行機に乗る直前に食べた激辛グリーンカレーのお店も見つからなかった。たぶん搭乗口が違うからだと思う。搭乗の時間になり、とはいえ長蛇の列なのでそのまま座って待っていると、タイの観光局みたいなところのアンケートに答えることになった。軽い気持ちで受けたら何十問もあって慄いた。このまま搭乗ゲートが閉まってしまうかもしれない。どうにか答え終えて、ようわからん巾着をもらう。
機内では1冊本を読み終え、この1週間で意外と英語が読めることに気がついた私は調子にのって英語字幕で映画を観た。『ネクストゴールウィンズ』。海浜幕張の映画館で先日公開されていたけどまあいいか、となったものだったけど観てよかった。字幕は半分くらいしか追えなかったけど話の大筋は追えた。主要登場人物のひとりがトランスジェンダー(現地:アメリカ領サモアでは「ファファフィネ」という概念がそれにあたる)で、やっぱこういう情報は宣伝のときに漂白されちゃうのかな、などと考えた。この映画は実在の話をモデルにしているので、このファファフィネも実在する。ということもやはり映画を観てから知ったことで、今回の旅はこういうことがたくさんあったように思う。機内食は相変わらずひとりだけ先に来るパターン。おやつはまさかのオレンジだった。通常はどら焼き。オレンジは巾着とともにひろこさんへのお土産にすることにした。
22時30分頃に家に着く。ひろこさんはヨガマットをジムに置いてきたらしく、まだ回収できていないとのこと。
4月9日(火)
どうにか7時に起きて志津へ行く。最近志津に行く日はだいたい雨。よって気圧の変化にやられるので、帰宅後はおふとんとなかよし。昼寝の前にひろこさんにタイの話をするが、半分寝ていた。ひろこさんが。
4月10日(水)
タイに行っている間に届いている納品分を捌く。なんとかオープンを果たすと、藤岡みなみさんが来店。先月追加納品してもらったはいいものの、藤岡さんが引っ越し作業中で在庫が不足したのでその分の直納。引越し先のマンションがゴミ袋のサイズまで指定してくるとのことで、買ったはいいものの使えなくなってしまったゴミ袋をたくさんもらう。10リットルなんてぜんぜん入らないやんけ……。いくらミニマリスト実験の日々を綴る本を出している藤岡さんとはいえ、家族で住むのだから10リットルは厳しいのではないか。
売上はポンコツ。印刷会社にZINEの入稿を済ませたのでえらい。
4月11日(木)
ポンコツが続く。戦争できる国=正常・一流、みたいなことを岸田が言ったとか言ってないとか。メディアの悪意ある見出しだ云々という擁護もあったが、ふだんの振る舞い自体がそれを宣言しているようなものなのだから、説得力はない。
本屋が生き残るためには富裕層向けの商売にならざるを得ない、そんな状況が日に日に強まっているのを感じる。まさに体感していると言ったほうがよいか。こんな状況でいまだに本の魅力が云々とか言っている者らは、我々が見ているような景色は見ていない。見ている/見えている/見させられている景色が違うのだから、当然話は噛み合わない。出版業界の上流階級にいる者らは、本を買う余裕がある。あるいはほかのなにかを削れば本にまわせる状況にある。下流にいる者らはその余裕がない。そして社会がどういう状況にあるかも知る余裕がない。ゆえに両者はともに「本の魅力を高めれば/知ってもらえれば状況は改善する」という結論に至ってしまう。前者は無邪気にそう信じている。後者はそう信じるしか道がないと思っている。いや、思わされているのか。
このようなクソな環境下でいまだに書店員をやっている者の多くは、おそらく自分を犠牲にしてまでも他者のためになることを厭わない性質を持っている。それは社会が要請する自己責任論と近接してしまうため、苦境を政治・社会のせいにするのはよろしくないという意識とも直結する。みんな我慢してがんばっているのに、自分だけ楽をする/文句を言うわけにはいかない。かれらはそう思っているのだろう。ゆえに、私のような「政治に文句を言う」存在は忌避される。本来敵どうしではないにもかかわらず、我々は憎み合っている。憎みあわされている。
4月12日(金)
共同親権法案も通ってしまう。そんな状況で呑気に本屋に来れるのは「気にせずに済む」者らでしかない。国会の動きに齧り付き、一挙手一投足に心を乱され、その結果に本気で心身を潰される者らの存在を、私はお店に来ない者らから感じとる。そのようにして、私はかれらと共闘する。そうして私は今日も生きる。生きなくてはならないと認識する。
4月13日(土)
おでんの会×スナック社会科。サトマキさんは快速線の罠に引っかかり千葉まで行った。2月は高島さんも電車で罠にかかっていた。その前のひらいさんも以前なんらかのタイミングで幕張ではなく海浜幕張に行くという罠にかかっていた気がする。
今日はシェフ=ひろこさんがいないので、アレルギー対応鍋も私が担当する。トマトを入れるとうまうまになることが判明しているので、マストバイ。サトマキさんを待ちつつ調理し、12時過ぎにゆるゆるとスタート。今回は満員御礼大繁盛!みたいになるような座組ではないので、ゆっくりと時間が過ぎていった。それでも夕方になるにつれて来客は増え、夜のイベントはなんだかんだで満席近くまで席が埋まった。
BARBARA DARLINgさんと宮越里子さんのトーク。どちらもアートの文脈から考えているところが根本にあり、私にはその素地がないのでありがたかった。解決できる問題と、解決できないから改善を目指す問題。長期的な目標と短期的な目標。いまのこの問題、あるいは状況はどちらなのか。その具体的な認識の共有ができていないと、同じ大きな目標(たとえば反差別とか)を持っていても反目してしまうし、断絶してしまう。認識のすり合わせが必要なことは多いが、SNSではそれができない。表面的で反射的な言動がなされてしまう、あるいは求められてしまう環境下では、そのような具体的な話にまで到達できない。
4月14日(日)
疲労困憊でお店にたどり着く。口内炎が痛い。しかしお店は開けなければならない。今日はBlakeさんによる納品とイベントがあり、そのひぐらし商会も電車で数時間かけてやってくるとのこと。イベントは滞りなく進み、私はそのあいだ仕事をしたりマリーンズの試合を見たりしていた。マリーンズは大勝利。久しぶりに大量得点。つまりお店の売上も期待できる。結果としてそのとおりになった。そのひぐらしが「サン・ジョルディ」の合言葉を連呼しながら大量に本を買っていったこともあり、久しぶりに満足がいく売上に。この土日で平日3日分のポンコツをなんとか盛り返したか。
そのひぐらしと最近の政治のクソさについて話をする。そのひぐらしが、政治家になったら夫婦別姓と同性婚を可能にしてすぐに辞める(婚姻制度も打破したいがそこまでの体力はないだろうからバトンを託したい)という野望を語り、帰っていく。その後、その会話を聴いていた別のお客さんが会計後に「戸籍制度もなくしたいとお伝えください」と言い残していった。すばらしき時間差コミュニケーション。いつのまにか疲労が消えている。そういう1日。
先日入稿したZINE、日記は6ヶ月分なのにあとがきで5ヶ月分と書いていることに気がつく。ポンコツである。
あとがきで日記の収録本数を間違えたZINE、4月21日あたりに刊行予定です。本当は20日の出店イベントに間に合わせたかったのだけど、タイで入稿ができなかったため間に合わず。しかし印刷所の印刷スケジュールがなんらかの事象で早まれば奇跡は起きます。奇跡は別のところでとっておきたい。
前巻より50ページほど増量したので、価格も900円から1000円になります。
文フリまでにもう1冊、別のテーマのZINEが出せたら……。