夏休み。中学生。友だちと一緒に旅に出る。主人公はとある「問題」を抱えている。これは成長物語だ。我々読者はそう思う。そしてそのような期待のもとで読み始める。おそらく、多くの文学作品が、そしてとりわけ児童文学が、いわゆる成長物語の形をとっている。主人公とその仲間たちは困難を乗り越え、成長する=大人になっていく。その過程を描くことこそ、文学=フィクションの効能であり意義なのだと、我々はもはや自覚もなくそう信じている。
黒田八束『ゴースト・イン・ザ・プリズム』(日々詩編集室)もその形式をなぞる。せっかくだから、「成長物語である」という思考の枠組みのなかで、我々読者が読んでみたくなるようなあらすじを書いてみよう。
主人公のジュンは中学生。夏休み、叔母のアンが急に亡くなったという知らせを受けるが信じられない。だってその前日の夜、アンはジュンに会いに来たのだから。母からアンの家の片づけを頼まれたジュンは、妹のミナと友人のザジとともに住み慣れた街を出て、アンの住んでいた街に向かう。途中、死んだ人に会える「プリズム」のうわさを聞いたジュンは、アンの真実を探りにプリズムを目指す……。
読みたくなっただろうか。読み慣れている読者は、「ひと夏の冒険物語!」という惹句が帯にデカデカと書かれている様子まで想像できるかもしれない。もうひとつ、要素を加えてみよう。ジュンがASD(自閉スペクトラム)という特性を持っている点だ。
主人公のジュンは中学生。夏休み、叔母のアンが急に亡くなったという知らせを受けるが信じられない。ASDのジュンは周囲との関係性に悩む日々を送っているが、アンだけが唯一の理解者だったのだ。母からアンの家の片づけを頼まれたジュンは、妹のミナと友人のザジとともに住み慣れた街を出て、アンの住んでいた街に向かう。途中、死んだ人に会える「プリズム」のうわさを聞いたジュンは、アンの真実を探りにプリズムを目指す……。
妹と友人とのひと夏の冒険を経て、主人公は叔母の死を受け入れ、ASDという困難も乗り越える。そんなストーリーが思い浮かんだかもしれない。我々読者が期待する成長物語とは、おおむねそのような過程を辿るのだろう(このような物語をすでにたくさん読んでいるならなおさらだ)。だから読みたくなる、とも言える。我々が読みたいのは、なんらかの課題や障害を抱えた登場人物が、冒険に出ることによってそれらに立ち向かい、強くなってもとの世界=現実世界=日常に戻ってくる、そんな物語だからだ、とも言えるかもしれない。
そのような世界では、つまり生きづらさを抱える主人公が成長する物語を期待する読者の脳内では、あるいはそのような期待のもとで紡がれる物語世界においては、変化するのは主人公であって世界=環境ではない。成長するのは主人公という「自分」であって、主人公を取り巻く周囲の存在や環境という「他者」ではない。我々読者の期待はすべて、主人公に向けられている。期待は要請と言い換えてもよい。課題や困難を「抱えた」主人公の変化=成長が、そこでは常に要請されている。
そういったまなざしを向けることは、残酷そのものではないだろうか。課題や困難は自ら抱えたものではなく「抱えさせられた」ものであり、いわゆる「生きづらさ」と一口にまとめられてしまいがちなものは、世界=環境=他者によって勝手に付与されたものだ。それは現実世界においても物語世界においても変わらない。「問題」はジュンに、あるいはミナやザジ、そしてアンにあるのではない。
物語が現実に対する抵抗の役割を果たすものであるのなら、現状の現実世界のありかたをなぞるようなものになってしまうのはよろしくない。むしろそれは現実世界のありかたを強化することにもつながってしまうからだ。そして残念ながら、多くの成長物語がその強化に(悪意なく)加担してしまっているのだろう。だからこそ、我々読者はそのような物語を(同様に悪意なく)期待してしまうし、その期待を通して、登場人物たちの成長も(やはり悪意なく)要請されることになる。
成長物語の形をとった『ゴースト・イン・ザ・プリズム』は、しかしその期待=要請を拒否している。だから典型的な児童文学=成長物語だと思って読み進めた読者は、読後に「裏切られた」と感じるかもしれない。しかし実際には、そのとき裏切られたのは誰なのだろうか。ジュンたちのひと夏の冒険が終わったとき、つまり我々がこの物語を読み終えたとき、成長しているのは誰であるべきなのか。これまで無数の“ジュンたち”が、ひと夏の冒険を終えて現実世界に戻り、変わっていない現実世界を突きつけられてきた。
問われているのは、常に我々である。