周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』(集英社)が入荷しました。ということで早速読みました。正確には数日前に献本分が届いていたのでちょっと前から。
いま読まれるべき本であり、つまり本屋としては可能な限り多くの人に届けなくてはいけない本だということ。そして、届ける際には伝えなくてはならないことがあるとも思いました。ということでこれを書いています。この記事の内容を端的に言えば、「入門」しただけではいけないということと、「入門」という言葉を使わざるを得なかったことについて、になると思います。
著者が言うように、「トランスジェンダーについて知りたい」と思う「あなたに向けた最初の1冊として」この本は書かれています(p3)。日本語圏において、これまでトランスジェンダーについて概略的に書かれた本はほとんどなく、言及されているとしてもLGBTという括りの本でのみ、つまりトランスジェンダー単体の全体像を丁寧に言及する紙幅が取れない/取られていない本ばかりでした。あるいは専門的要素が強く、当事者や研究者以外にとっては理解が難しい本になっている、そういう本でしか知識や情報を得られない状態が続いています。
そのうえ、インターネットやSNSでは意図的に差別をおこなう者が流す「恐怖心を煽る」ような情報、つまり「トランスジェンダーについての知識や情報が不足している者にとって印象に残りやすい」それらが多く流布されています。これはトランスジェンダー差別に限らず、あらゆる差別において生じる現象です。差別の根源には恐怖があり、恐怖が生じる理由のひとつは「そのことについてよく知らない」という状態にあるからです。そしてそういった情報を鵜呑みにしてしまうことで知らず知らずのうちに「トランスジェンダー差別をする者」になってしまう、そういう存在を日々、私たちは見てきています。そういった者たちがみな「悪意」を持っているわけではなく、つまり「意図的に差別をおこなって」いるわけではない、というのがさらに厄介であり、いわゆる「素朴な疑問」という形をとってなされる無自覚な差別・加害行為、というものがいたるところに流されている、それがインターネット・SNSの状態です(つまりこれを読んでいるあなたも「素朴な疑問」を発している可能性が高い、ということです。当然、私もそこには含まれますし、インターネット・SNS以外の実生活の場でも同様です)。
どうも差別というのは「悪意をプンプン撒き散らす」「わかりやすい」そればかりがイメージされがちですが、実際にはそれと同等かそれ以上に多く「悪意のない」「わかりづらい」差別が日常的に生じており、当事者は悪意のあるもの/ないものにかかわらずダメージを負っている、ということを認識する必要があると思います。その認識がないからこそ、私たちは無邪気に「素朴な疑問」を発し、無自覚な差別・加害を繰り返しているわけです。そしてその原因(のひとつ)は「そのことについてよく知らない」という状態にあるのです。戻ってきましたね、話が。
そして、これは「差別に反対する」という意思を持っている人も例外ではありません。むしろその意思があるからこそ知ろうとして、その「知っていく」という段階の途中で「素朴な疑問」を発してしまう、なんてこともあります。『差別はたいてい悪意のない人がする』というわけです(あるいは、悪意でなされる差別言説に知らず知らずのうちに乗っかってしまっている、とも言えるかもしれませんね)。
それゆえに、本書はいま読まれるべき本なわけです。差別に抵抗する、その実践の手段には「声をあげる」ということだけではなく「不要なことを言わない」ということもあります。言い方を変えれば、これは「当事者の声が通るように静かにする」ということだと思います。あるいは「まずは当事者の声を聴く(何度でも)」ということかもしれません。
私がここまでこの本の中身についてほとんど触れていないのも、そういった意図があります。私がここでする「(本に書かれていることの)まとめ」には、あまり意味がない、あるいはむしろ「当事者の声を削ぐ」効果が発揮されてしまうかもしれない、と思うからです。あなたが本当に知りたいと思っているのなら、あるいは少しでも関心を持っているのなら、まずは本書を最初から最後まで読むことです。私たちが抱く「素朴な疑問」への回答は本書に書いてあります。それらがいかに頓珍漢かつ暴力性のあるものであるか、ということも。
とはいえ本書に書かれていることはトランスジェンダーの「すべて」を「網羅」しているわけではありません(これについては本書でも著者が明確に言及しています。たとえばp113〜114など)。当然です。シスジェンダーが十把一絡げに「定義」できるわけではないのだから、トランスジェンダーだって「定義」して「理解」することなどできません。それはあくまでも「つもりになっている」だけです。というか、シスジェンダーは自身のことを正確に「定義」し十全に「理解」できているのでしょうか。そもそもそんなこと、したことがないと思います。シスジェンダー(=マジョリティ)として生きる者には、そんな必要がないからです。定義する/されることも、理解する/してもらうことも。そして「入門」する/されることも。
本書が刊行されたことはよろこぶべきことであり、本屋として多くの人に届けるべきだと考えています。しかし同時に、本書がそのタイトルに「入門」とつけなくてはならなかった状況がある、ということについても、「入門」する読者のみなさんには考えてほしいと思います。
トランスジェンダー当事者として、「入門」されるということに違和感や怒りなどを覚える者もいます。定義されることも、理解されることも、です。知ってもらえて、理解されて、権利を保障されるようになるのならいいじゃないか。なにゆえ気分を害しているのだろうか。そう思うあなたは、自身が「知ってもらえなくても/理解されていなくても/「入門」されていなくても権利が保障されている(差別を受けない)」ということを、いま一度思い出してください。少し言い換えましょう。なぜトランスジェンダー(含むあらゆるマイノリティ)はマジョリティに「知ってもらう/理解される/「入門」される」という段階を経なければ、権利が保障されないのでしょうか。
人権というのは、あるいは生存するための権利というのは、条件付きで保障されるものではありません(なお、ここで「人権」だけではなく「生存するための権利」という言葉も併記した理由は、自身を「人間」として認識していない存在=ゼノジェンダーが存在しているからです)。あらゆる存在が無条件で保障されるべきものであり、そこに「承認」や「許可」といったニュアンスのものが含まれるのであれば、それは断固として批判すべきことです。「労働力として有益だから」移民・難民を受け入れる、これがおかしなことなのは簡単に理解できるはずです。これと類似した構造や空気感を、正確に/適切に感じ取っている当事者がいるのです。マジョリティにとってはそんなつもりはないとしても、マジョリティによる「承認」「許可」の構造や空気感がそこには確実に存在してしまっています。
これはどうしようもないことであり、マジョリティが受け入れざるを得ない矛盾・ジレンマのひとつです。マジョリティが作り、維持している仕組みによってこの社会は運営されています。ゆえにマイノリティの権利をその仕組みの中で保障するには、どうしてもマジョリティによる「知る・理解する=入門する」という行為(および段階)が必要になってしまうからです。そこにある傲慢さ、どうしても生じてしまう「上から目線」のようなものを、マジョリティは自覚し、そのことについてのマイノリティからの批判を受けとめ、それでもなお「知る・理解する=入門する」の営みを続けなくてはならないのです。
そして本書に「入門」とつけざるを得なかった、その状況を作り出してしまっているのもマジョリティです。差別やヘイトが跋扈し、他者から「いないこと」にされ、そして自ら「いないこと」にしてしまうことが、日常的に生じているという状況。刻一刻を争う事態です。あるいはもう手遅れとなってしまった存在が無数にいます。すぐに刊行せねばならない。できる限り多くの者に読まれなくてはならない。読まれるためには、手に取ってもらわなければならない。「よくわかっていない自分にも読めるかもしれない」と思ってもらわなくてはならない。そしてなによりも、この状況=構造を変えるためにはマジョリティが動かねばならない。いや、動いてもらわねばならない。マジョリティに「動いてもらわねば」構造は変えられない。だから「マジョリティにとって手に取りやすい・読みやすい」ものにしなくてはならない(しつこくもう一度書きますが、状況=構造を変えるために、つまり権利が保障されるためにマジョリティによる「理解」が必要だということ、つまり「条件付き」になってしまうということ、それ自体がおかしなことである、ということは肝に銘じてください。理解することよりも前に、生存=実存をそのまま受け入れること。いや、受け入れるという言葉自体そもそも「承認」や「許可」のニュアンスがあることも自覚したほうがいいのかもしれません)。そういった状況において、当事者でもある著者がマジョリティへの「配慮」を優先したタイトルづけをしなくてはならなかったことについて、マジョリティはその責を負わねばならないはずです。
マジョリティは「入門」なんてされなくても権利が保障されています。他者からの理解も必要ないし、自らの属性の定義づけも不要です。なぜ、マイノリティだけがそれらを要求されるのでしょうか。そして要求されて出した定義自体がいかに曖昧なものにならざるを得ないか、つまり「万人に当てはまる定義」など存在しないということは、本書を読めば理解できるはずです(ゆえに「定義が不十分だ」という理由で権利を奪うのは理不尽ですし、差別をするのは言語道断なわけです)。そして同時に、それは翻って「マジョリティ(本書においてはシスジェンダー)の定義」自体も曖昧なものであり、つまり万人に当てはまるものではなく、そしてなぜかそんな不十分・不適切な定義でしかないにもかかわらず、マジョリティは「無条件に」権利を保障されている/差別を受けないで済む環境が構築されている、ということも読者には見えてくるのではないでしょうか。
この記事も、当事者の声を十全に「代弁」できているわけではありません。あるいはすでに発せられている当事者の声を「削ぐ」ことになってしまっているかもしれません。しかしそれでも、入門されるということに違和感を覚える当事者と、当事者からの批判を覚悟しながら刊行するのであろう著者(=当事者)のことを知っているからには、そしてこの本が多くの者に読まれなければならない状況を作っているひとり(=マジョリティ)であるからには、そのどれをも選択=包摂する行動をとらねばならないと考えています。だから、まずは本書を読んでください。そして矛盾=ジレンマの中に身を置いてください。そしてなによりも、ひとりひとりの実存を尊重すること。定義だとか理解だとか「入門」だとかの必要性は、差別=実存の否定がなければ生じ得ないものだからです。
という上記の記事を書き、一晩寝かせている間にこちらの記事がアップされているのを知りました。
私の記事よりももっと詳細に、「入門」「定義」「全体像がわかる」といった言葉・概念への違和感や批判的観点を提示してくれています。ぜひお読みください。
もちろんこれも執筆者本人が言及しているように、ひとりの観点=これまでの経験や知識から導き出される、あくまでも個別的でしかない感覚や解釈です。しかしこれもまた実存のひとつであり、マジョリティが「定義」を知って「理解」して「入門」できたつもりになっているだけでは意味がない、あるいはそれもまた新たな差別=排除を生むことになる、ということを教えてくれるものです。
「差別に反対する」ということを、より具体性を持たせた説明にするならば、「排除される存在を作り出さない(ことを目標にする)」ということになるのではないでしょうか。そうであるならば、なんらかの属性に対してひとつの定義や説明が提示されたとき、その定義や説明によって排除されてしまうことになる当事者からの批判・異議は必ず受けとめなくてはなりません。つまり、反差別の実践には(身内からの)批判・異議が伴わざるを得ないのです。このような当事者間での批判のしあいは、外から見たら不要な分断に思えているかもしれません。しかしこれは反差別の意思を共有するからこそ生じる状況であり、そこで交わされる批判・異議は「誰も排除しないため」のものなのです。
このような状況について考えるには、たとえばアミア・スリニヴァサンの言う「ホーム」という概念を参照するといいかもしれません(『セックスする権利』まえがきⅻ〜xiiiを参照)。たとえば、
「ホーム」と想像されたフェミニズムは、あらかじめ存在する共通性にこだわり、仲間内の牧歌的な調和を乱す者はすべて脇へ追いやる。真に包摂的な政治は、快適でも安全でもない政治である。(前掲書:まえがきxiii)
といった言及でしょうか(ここではフェミニズム=政治であるという文脈で書かれているので、政治と書かれているところはフェミニズムと考えてもらって大丈夫だと思います)。当事者が差別に抵抗するには、快適で安全な場としての「ホーム」が必要になります。しかし、だからこそ、その「ホーム」から排除される存在があってはならず、排除を生まないためには「ホーム」内での批判・異議申し立て(とその受けとめ)が常に必要になるため、そこは決して「快適でも安全でもない」場になるのです。
この矛盾・ジレンマを当事者は引き受けています。上記の批判記事を書いた方も、『トランスジェンダー入門』の著者も、「ホーム」を構築・維持するために「ホーム」を批判することを、必要なことだと考えています。であるならば、本書によって「入門」しようとしている者も同様に、その意識と実践を引き受ける必要があるはずです。そしてもし、本書や本書への批判・異議に対する悪意のある反応、つまり嘲笑や冷笑、愚弄などを発見した場合、私たちがすべきことは明白でしょう。それらがもたらす「快適でも安全でもない」環境は、上記のそれとは完全な別物だからです。
今後も多くの「実存」による批判・異議申し立てがなされることを願っていますし、それができる環境を構築・維持できるようにするのは、マジョリティの役割だとも思います。排除を生まないためには、より多くの「実存」による主張、つまり個々の実存を固定化=規定する効果を発揮せざるを得ない「定義(づけ)」への抵抗が必要になります(アミア・スリニヴァサンの言う「あらかじめ存在する共通性」への抵抗とも言えるでしょうか)。しつこくしつこく同じ話をしますが、この矛盾・ジレンマを正面から引き受けていきましょう。ゆえに、この記事への異議申し立てもお待ちしています。それは、排除を生まないために必要なものだからです。