オードレイ・ディヴァン『エマニュエル』(フランス/105分)
先週のおやすみに観てきた映画『エマニュエル』。以下、ネタバレ的なサムシング含む感想文です(性的な描写も含まれます)。
この映画は明らかに「見る/見られる」ひいては「評価する/評価される」というテーマを持っていて、それは冒頭のショット、飛行機の客席に座るエマニュエルの脚に視点の中心が据えられる映像から物語が始まることにすでにあらわれている。その視線を放っているのは同乗する乗客の男性であり、同時にかつての大ヒット作『エマニエル夫人』のリメイクを期待して劇場に足を運んだ観客でもある。
“私が今作で最初に決めたのは、“エマニュエル”に力を取り戻し、彼女を自身のストーリーの主題にすることでした。だから、本作を74年公開の映画のリメイクとは考えていません”と本作のアイデアについて監督のオードレイが話しているように、自らが「見る=評価する」側であることを当然とする者らの無自覚な傲慢さや加害性などを伴う視線は、この場面で早くも「見られる=評価される」側に置き換えられている。全編を通して、性的なシーンをぼやかすことなくむしろ“正面から”描くことに徹したのも、おそらくここに意図があるのだろう。「(女性がまなざされる側として描かれる)エロシーンを堪能する」ことを目的に映画を観ている者らのその「見る」ありかたが、その一方的な「消費」を可能にする「エロシーン」をあえて存在させることによって、逆説的に「見られる=評価される」ことになる。
フィルマークスなどに寄せられる口コミを見てみるといい。映画(とその制作者たち)によって逆に「見られている」ことに気がついていない、自らが常に「見る」側であることを疑わない者らによる、低評価コメントが多く並んでいる。日本の公式サイトに載っているポスターの煽り文句に乗せられた者らの多さ、あるいはそのサイトに載っている監督の意思表示=制作意図が「読まれていない」ことは、自らの持つ「一方的な消費をする権利」を正当なものとしてみなして疑わない者らの多さをも、露呈させている。
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