社会の当たり前が自分と相入れない時、いつも、世界とはぐれてしまった気分になる。どうして馴染めないんだろう。一人違う場所に迷いこんでしまったみたいに心許ない。そんな時に寄り添ってくれたのが、自分とは異なる形で世界とはぐれた人が出てくる本や映画だった。そんな作品と一緒に社会の規範について考え、抵抗していくエッセイ。
昔は雨の日が好きだった。雨が木々を濡らして輝く緑の色も、ぽたぽたと屋根から落ちるしずくの踊るような音も、足早に家に急ぐ人たちの後ろ姿を眺めるのも、全部ぜんぶ好きだった、はずなのに。
いつからだろう。雨が降る前や降りはじめの日、じわじわとやってくる頭痛や重だるい身体ばっかり気になるようになってしまったのは。会社で働き始めてからそんな日が徐々に増えていった。昔みたいな「完璧な身体の軽さ」はいつのまにか消え去った。いつもどこかしらの調子が悪くて、仕事に集中しきれない。なんで昔はあんなに元気だったんだろうか。それとも自分の身体に対してまだ鈍感で、ほんとうは調子が悪いときもその痛みに気づけていなかっただけなのだろうか。
雨はだるさに加え、PMS(月経前症候群)の症状も重くさせた。朝、ぎりぎりまで布団から起き上がれない。やっとのことで起き上がって朝ご飯を食べて、着替えて、うっすらとした吐き気と頭痛を抱えながら会社に向かう。沼地を進んでいるかのように、足が濡れた地面に重く沈んでいく。一歩一歩、気持ちも暗いところに落ちていく。
雨とPMSが一緒に悪巧みして、わたしを苦しめる。謝るから許してほしい、何に謝ればいいのかもわからないけれど、少しでもいいから楽にしてほしい。ああ、横になりたい。すべてのやる気がわいてこない。このまま休めればいいのに。でも、そんな気力も有給休暇の残数の余裕もないわたしは、そうやって延々と世界を呪いながら痛みをやり過ごした(休むと決断するのにも気力がいる。いっそ高熱でも出てくれれば休む選択肢しかないのに)。
一ヶ月の間で元気な期間は、生理が終わったあとの一週間くらいしかなかった。なんでこんな風になってしまったのだろう。「なんで」と問い続けても答えはない。そういうものだから。会社では平気なふりをして仕事をこなしながら、たまにトイレに逃げ込んだ。便座に腰かけて力を抜き、身体を右の壁にもたせかけて目を閉じる。マスクごしに深呼吸する。ここでなら誰にも見られない。元気でなくてもいいし、人当たりのいい笑顔を演じなくてもいい。なにも、がんばらなくてもいい。トイレの個室の中はひとりだけの安全な場所だった。
ザーザーと強く降り続ける雨のなかで、濡れるのも構わずロータリーのベンチに茫然と座り、苦しさを抱えてどうしようもなくなっている藤沢美紗のうしろ姿を映画館で見たとき、わたしは泣いてしまった。いつも雨の日に感じていた痛みの感覚が、一気にわたしのなかに広がっていく。この光景を知っている。知らないはずの駅前の風景が、自分のものになっていく。溜まっていた仕事を終わらせて、帰り道の途中にある映画館のレイトショーで『夜明けのすべて』(三宅唱、2024年)を見たのは、まだコートとマフラーが手離せない季節だった。
映画の冒頭のシーンでは、雨のなかたたずむ藤沢を警察が心配して声をかけるが、藤沢はカバンの中身を次々と散乱させる。PMSのせいでどうしてもイライラをおさえられず、会社もそれが原因でやめた。周りが優しくなかったわけじゃない。でもいくら「大丈夫?」と問われても、大丈夫じゃないときはひとりでその痛みを抱えてやり過ごすしかなくて、大丈夫と答える余裕もない。大丈夫なわけがない。でも、言えない。自分だけの孤独な痛みは、強い雨でさえ洗い流してはくれない。
これは、低用量ピルが飲めずPMSに苦しみ続けるしかなかった世界線のわたしだ、と思った。低用量ピルを知らなかった世界線の自分。何かしらの影響でピルを飲めなかった自分。藤沢は、母親に血栓症の既往歴があることから低用量ピルを服用できず、漢方を服用しているがなかなか効果が出ない。わたしは低用量ピルを飲みはじめたおかげで、抱えきれないようなだるさに襲われることはだいぶ減り生理も軽くなったけれど、ピルを飲んでいるからといって症状が完全になくなってくれるわけではないし、またいつ飲めなくなるかもわからない。
近年、生理については物語の中で描かれることが増えてきたが、PMSの描写はまだまだ少ない。生理があってもPMSの症状がない人もいるし、生理がなかったらなおさら知らない人も多いだろう。わたしは藤沢のようにイライラを外にぶつけるのではなく、無気力で人との会話などすべてが面倒になってしまったり、頭痛が起きたりするタイプだった。藤沢とわたしの症状は違うし、彼女はわたしではない。この社会にPMSについての描写はまだ全然足りていない。たくさん描かれることでそこに多様さが生まれてくるはずだし、これからもっともっと必要だ。それは他の病気や障害、セクシュアルマイノリティなど今までなかなか描かれてこなかったすべてのことにいえるだろう。
それでも、あるいはだからこそ、自分と似ている人を画面の向こうに見つけたとき「大丈夫だよ、ここにもいるよ」と言ってもらえた気がして、勝手に救われた気になった。他人の身体のままならなさをこうして目の当たりにすることはその経験がある人にとっては希望だし、PMSのせいでどうしようもなくなってしまう藤沢の姿は、自分ごととして強く迫ってきた。
映画は始まったばかりなのにすでにこんなにも泣いていて、この先の展開をちゃんと追えるのだろうかという心配を頭の片隅でしながらも、このシーンに出会えただけで映画館に足を運んでよかったと思った瞬間を、いまでも忘れられない。
『夜明けのすべて』は、月に一度PMSで怒りやすくなってしまう藤沢美紗(上白石萌音)と、パニック障害を抱える山添孝俊(松村北斗)の職場での交流を描いていく。みんななにかを抱えていて、相手のつらさを完全には理解できないけれど、寄り添うことはできる。寄り添うことは問題の直接の解決にはならないけれど、大きな支えになるということを穏やかに提示してくれる映画だ。
映画の前半、山添が職場でパニック障害の発作を起こしてしまい、藤沢が山添を家まで送った場面に印象的なセリフがあった。
藤沢はPMSの症状で、山添が飲んでいる薬と同じものを以前処方されたため山添のパニック障害に気がつく。
「もしかしてなんだけど、パニック障害? 同じ薬飲んだことあるんだよね、私はPMSで/まあお互い無理せず頑張ろう」
それに対し山添は「うん……? ごめんなさい、“お互い”っていうのは?」と返す。
「お互いしんどくならない程度にってことで」
「全然違うんじゃないんですかね。PMSとパニック障害ってしんどさもそれに伴うものもなんか全然違うけどなあって」
この言葉を聞いて、時が一瞬止まった。もし自分がこの言葉を投げかけられたら、おそらくひるんで黙り込んでしまうと思う。
わたしだって毎月の症状に苦しんでいる。でも、山添くんの症状はもっとひどいのかもしれない。でもわたしは、前の職場をやめざるをえなかったくらいPMSに振り回されている。漢方だってなかなか効いてくれない。でも、山添くんの症状ももっとつらいのかもしれない……そんなことがぐるぐると頭を駆け巡って、発するべき最適の言葉をきっと見つけられない。
でも藤沢は少し困ったような笑顔でこう返す。
「病気にもランクがあるってことか。PMSはまだまだだね」
これを言われたら、自分が相手に投げた言葉がなにか間違っていたのかもしれないと内省せざるをえないような返答。相手を不快にさせることはないが、引っかかりがある。
本来、苦しみに優劣はないはずだ。他人と自分の痛みや苦しみを比べてどっちがより大変か、苦しいかと主張して対立しても根本的な解決にはつながらないし、ただでさえ痛みと向き合うのに多くの体力を使っているのによけいに消耗してしまう。苦しみは、人と比べてその重さをはかるものではない。痛みはその人のなかでは絶対的な存在で目をそらすのは難しいし、他人の苦しみを勝手に外からジャッジして否定してもなにも生まれない。自分のも他人のもそういうものだと受け入れて、付き合っていくしかない。
就職して3年目だったある夏の日、わたしはPMSが重くて会社を休んだ。そのときはすでにコロナ禍だったので、コロナではないということを伝えなければいけないと思い「今日休めば明日は大丈夫だと思います。たぶん生理が原因なので」と上司に電話で伝えた。PMSと言っても伝わらないと思ったからだ。それを聞いたらしい当時定年退職間近だった別の男性上司が「あいつずる休みやろ~。別に大したことないやろ、病気じゃないんやしな~」と言っていたらしい(そう言われていたことは、翌日の出勤時に一個下の後輩が教えてくれた)。それを知ったとき湧き上がってきたのは怒りというより、「やっぱりか」という無念さ。あきらめ。そうだった、昔からこういうものの積み重ねばっかりだったなと、指にささって今も残ったままのとげの存在を思い出させられる感じ。
だから藤沢の言葉を聞いたとき、こういうひっかかりのある返答がその上司にできたら、どんな反応が返ってきただろうかと想像した。
実際のわたしは後日、上司が言ったことを知らないふりをした。ただ後輩と、わかってもらえないことへの愚痴を裏で言い合って慰めあった。こんなことを言う上司に説明なんてしても、どうせわかってもらえないと思ったから。そもそもどうして、いつもマイノリティばかりが説明する負担を引き受けなければいけないのか。水面に石を投げるのは重荷だ。でも、言わなければこの人はこの先もなにも知ろうとせず、のんきに生きていくのだろう。わたしは表情を変えないように努力しながら仕事をしつつ、内側はぐちゃぐちゃになっていた。このときどうすれば自分が納得できたのだろうかという問いは、この先もずっとわたしのなかに残り続けると思う。
映画ではその後、山添がPMSについての本を読んで勉強し、藤沢のPMSによるイライラを最小限にしようとする。藤沢のほうも美容室に行けない山添の髪を家まで切りに行ったり、電車に乗れず遠くに行けない山添に自転車をあげたり、最初はすれ違っていたふたりがお互い体調を気にし合い、助け合うようになっていく。藤沢の言葉や行動は水面を静かにゆらし、小さな波はいつしか遠くの相手に届いていく。
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ふたりが働く「栗田科学」は学習用の顕微鏡キットやプラネタリウムなどを作る会社で、若い社員は藤沢と山添だけだ。ふたりの関係の変化に社長や先輩たちも気づいているが、茶々を入れることなくただ見守る。若い女性と男性が仲良くなると恋愛関係が発生しているのではないかと周りの人が邪推したり、余計なおせっかいをやいたりする物語をいままで何度も見てきたが、映画『夜明けのすべて』からはそういう描写が一切排除されている。
男女の恋愛を前提とする物語があふれ、展開に緩急をつけるために恋愛がスパイスのように使われがちななか、ただ人と人でいられて、周りもそれを当たり前とする空間は見ていてとても安心できた。
栗田科学の先輩社員たちは個人の領域には踏み込んでこないが、見て見ぬふりもしない。PMSの症状でイライラしてしまう藤沢をさりげなくなだめ、発作を起こした山添を気遣い家に帰らせる。藤沢のイライラは藤沢にしかわからないし、山添の苦しみは山添にしか理解できない。自分の痛みは自分にしか理解できないという前提がみんなにあるような、相手を尊重し、ただそばで寄り添う距離感が心地いい。ラジオ体操から朝が始まり、差し入れにお菓子を渡し合ったり、たまに食事に行ったり(もちろん強制ではない)、まるで転職サイトで「家族ぐるみ」「アットホーム」な職場と紹介されるような会社。でも社員たちが依存しあっているわけではなく、独立した木が集まって森になっていくように、それぞれの人生を営んでいる人たちが会社で一緒に働き、さりげない会話を交わす。そういう生活の循環のなかの一つの居場所になっている。もちろん実際に働いたら不便な点や、合わない人もいるかもしれない。商社のようにがつがつ働きたい人には物足りないかもしれない。現実にこんなユートピアのような職場はないかもしれない。でも日々のなかで嫌なことがあったときに、世界のどこかにこんな場所があったらと、思わず心の退避場所として思い浮かべてしまうようなところ。わたしにはそんなふうに映った。
この心地よさはどこからきているんだろう。そう考えるときに思い浮かぶのは、なにかを抱えているのは藤沢と山添だけじゃないということだった。
社長は過去に弟を亡くし、自死遺族のグリーフケアのプログラムに参加している。山添の前の勤め先の元上司で、山添が前の会社に戻りたいという相談をしていた辻本も姉を亡くし、ここに参加している。栗田化学で長年働く住川はシングルマザーとして、ミックスルーツの息子ダンくんを育てている。映画では、社長の弟への思いや住川がシングルマザーとなった理由は詳しくは描かれない。わかるのは、なにか複雑な背景があるらしいということ。彼らは傷をことさらに隠すわけでもなく、誰にでも苦悩があるということを前提に置きながら人と接しているようにみえる。
映画のなかで、誰かが誰かにものを手渡していくシーンが多いのも印象的だった。お正月に実家に帰らない山添に辻本が渡したお節料理、藤沢が初詣の帰りに初対面の山添の元恋人におすそわけしたお守り、山添が早退した藤沢の見舞いに行った帰りに職場のみんなに買っていったたい焼き……たくさんのものが祈りのように手渡されていく。山添は職場でお土産をみんなで食べる雰囲気が苦手だったはずなのに、いつしか自ら買っていくようになる。会社にお土産を買っていくなんて非効率的だし、わたしの勤める部署では最近そういう文化はどんどん減っている。義務感で買っていくものはもらう方も嬉しくない。自分もそうしなきゃいけないという嫌な慣習を生むだけだから。でも『夜明けのすべて』で、見返りを求めない、ただ純粋に相手にあげたくて手渡されていくそれらは、つかの間の安らぎを手渡しているようにも見えた。
葛藤と向き合わなければいけない人たちが、その瞬間だけは少しの幸せを感じられるからこそ、藤沢はいろんな人になにかをあげ続け、最初はもらうことさえ面倒だと思っていた山添も誰かにあげる側になっていったのかもしれない。健康であることを前提とする場所からコントロール不可能な体調が原因で外れたふたりが、相手の持つ課題と向き合いながら気を許し合っていく。もちろん、彼らの問題は本来社会制度によって解決されるべきものだ。しかしまだそれが追いついておらず、そこからこぼれざるをえなかった彼らにとって今の職場である栗田科学は、自身を取り戻していく「避難場所」のようだったと思う。今までほとんど話してこなかったことを共有することで少しずつ癒されていくふたりに、健康でない人にまだまだ厳しく、傷つくことも多い現実への慰めを見るようだった。
やがて、当初は前働いていた会社に戻りたがっていた山添は栗田化学で働き続けることを選び、栗田科学に居心地の良さを感じていた藤沢は母の介護のため、地元の会社に転職することになる。移動式プラネタリウムの開催が、ふたりでする最後の仕事となる。
山添はプラネタリウムの司会の原稿を書く担当になり、過去の音声テープを探る。亡くなった社長の弟の音声を倉庫で見つけるが、テープが古く擦り切れているからかいつも途中で途切れてしまう。プラネタリウムの語りをどのように終えるか迷っていたなか、藤沢が社長の弟が遺したメモを見つける。
当日、地元の人たちや山添の元同僚たちなどが足を運ぶなか、そこに書かれていた言葉を司会役の藤沢が丁寧に読んでいく。
「夜明け前がいちばん暗い。これはイギリスのことわざだが、人間は古来から夜明けに希望を感じる生き物のようだ」
わたしは「いつかは夜が明ける」という言葉が苦手だった。目の前にある問題は、朝が来たからって解決しない。今だけ我慢すればどうにかなると解決を先延ばししているだけのような気がして、夜明けをクライマックスの装置として最後に置く物語にどこか反抗心があった。今ある問題を解決したって、生きている限りまた別の問題がやってくる。人生ってそういうもんじゃん。もちろん物語はどこかで終わらせないといけない。ただ、その終わりを無駄に感動的にしたりするとどこか嘘っぽく感じてしまう。
でも不思議だった。この映画にはそういう心配をする必要がなかった。その言葉を遺したのが、自分の兄にも誰にも苦しみを打ち明けないまま自らこの世界を去っていった人だったからだろうか。それを受け取ったのが山添と藤沢だったからだろうか。一番暗い夜明け前にとどまらざるをえない人たちが語る夜明けには、嘘がない。
「私はしばしば、このままずっと夜が続いてほしい、永遠に夜空を眺めていたいと思う。暗闇と静寂が私をこの世界につなぎ止めている。どこか別の町で暮らす誰かは眠れぬ夜を過ごし、朝が来るのを待ちわびているかもしれない。しかしそんな人間たちの感情とは無関係に、この世界は動いている。地球が時速1700キロメートルで自転している限り、夜も朝も等しく巡ってくる。そして地球が時速11万キロメートルで公転する限り、同じ夜や朝は存在しえない。今ここにしかない闇と光。すべては移り変わっていく/喜びに満ちた日も悲しみに沈んだ日も、地球が動き続ける限り必ず終わる。そして新しい夜明けがやってくる」
自分も移動式プラネタリウムのドームの中で、藤沢のナレーションを聞きながら星を見上げているような気になる。静かに語られる言葉に、山添と藤沢の苦しみを重ねてしまう。
雨がいつかはやむように、時間がたてば夜が明ける。暗かった場所に少しずつ光があふれはじめる。淡い光はちょっとずつそこにいる人の中にも染み込んで、心を軽くしてくれるだろうか。自分の身体でさえ自分ではコントロールできないから、勝手にやってくる夜明けに身を預けてみてもいいのかもしれない。夜明けは藤沢と山添が抱える悩みを解決してはくれないけど、せめてふたりの過ごす時間が穏やかであってほしいと願ってしまう。
太陽はまたのぼり、夜明けはやってくる。人生はその繰り返しだ。
プラネタリウムのイベントは終わり、栗田化学にもまたいつもの日常がやってくる。藤沢の転職によってふたりは今までのように毎日は会わなくなるし、PMSもパニック障害もなくならない。彼らは自分の症状とこれからも付き合い続けなければいけないし、生活のために働かなければいけない。海のように深く、少し先も見渡せないような暗い夜は毎日やってくる。楽しくても悲しくてもぼーっとしていても天井の星空は回り続け、星の光は朝の光の中にとけていく。見えなくなったからって、それがなくなるわけではない。今は見えないだけ。そしてまた夜がやってきて、星が光る。築いた関係や過ごした時間は、簡単にはなくならない。見えなくなったものも、見えないだけで実はずっとそこにある。
転職し遠くに住んでも、藤沢はたまに山添の髪を切りに来る。恋人、会社の同僚、周りの人はみんな去ってしまっても、出会ってよかったと思える相手がいる。小さな変化が、これからも生きていけるかもしれないというささやかな希望になる。そういう小さなものでいいのだ。
恋愛で結ばれたり、各々が直面する障害を乗り越えたりというような、ありきたりなハッピーエンドにしないこの物語は、人生はこれからも続いていくし、生きていかなくてはならないという現実世界では当たり前のことを、丁寧に掬い上げるように見せてくれる。お互いの存在に救われた時間や心安らかになれた記憶はたしかに残る。ささやかだけれど後から振り返ると重要だった瞬間というのは、本人が思っている以上に乾いた土に潤いを与えてくれる。
きれいに整えられた物語のように生きなくてもいい。普段の時間を無理に感動的にしようとしなくてもいい。これからも続いていくらしい人生をそのときいる場所で、自分なりのペースでゆっくり歩んでいけばいいということを、藤沢が山添の家のポストに入れたお守りのように、映画がわたしに手渡してくれたみたいだった。
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あるどんよりとした雨の日曜日、目が覚めてすぐ「あーきょう調子悪い日だー」と布団から起き上がりたくなかったが、仕事の締め切りが明日に迫っていたので出勤せざるをえなかった。低気圧による頭痛と、生理前のおなかのはりや若干の気持ち悪さが薄い膜のように身体に張り付いて離れてくれない。重い足を引きずりながら会社に向かった。
日曜日だから会社にはほとんど人がいなくて、スマホで音楽を流しながらだらだらと作業を始めた。1時間後くらいに、チームで一緒に作業をしていた後輩の堀ちゃんが「雨の日曜ってほんと会社に来る気起きないですね」とぼやきながら出勤してきた。
「堀ちゃんごめん、きょうわたしPMSで若干調子悪くて、全体的に反応薄いと思うんだけど、機嫌が悪いわけじゃないから……」
体調がよくないときに無理して元気を装うより、あらかじめ宣言しておくほうが気持ち的にも身体的にも楽に仕事ができると何年か働くなかで思うようになった。だから最近は、話しやすい相手にはこういう風に前もって言うようにしていた。
「えっ大丈夫ですか? 私もそういうときあるのでわかります。きつかったら帰ってくださいね」
「ありがとう。たぶん大丈夫。PMSひどかったからピル飲んでるけど、雨のときとかだめなときはだめなんだよね」
そう話すと、荷物を机に置いて仕事の準備していた堀ちゃんは身を乗り出してきた。
「銀の森さんもピル飲んでるんですか? TもKさんも飲んでるらしくて、私も最近生理前に眠いとかだるいとかあるので興味あるんですけど、どうですか?」
「TちゃんもKさんも飲んでたの? 全然知らなかった」
Tちゃんは堀ちゃんの同期で、Kさんは先輩だ。ふたりとも勤務が不規則な部署で働いている。表立って話していないだけで、よくない体調を薬でどうにか抑えながら働いている人が思っていた以上にたくさんいるのかも、と思った。わたしたちはたぶん、元気に見せることに力を入れすぎて、自分のほんとうの体調について話さないままここまできてしまったのかもしれない。
「飲んだからって完全によくなるわけではないけど、生理のとき出血量が少なくなったりとか、かなり楽になったよ。ピルの種類いっぱいあるから合う合わないがあるけど、試してみてもいいかもよ」
職場にこういう話ができる相手がいることがなんだかうれしくて、どんどん話してしまう。
「堀ちゃんはいつぐらいからそうなった? わたし働き始めてからなんだよね」
「やっぱりそうですか!? Kさんたちも同じこと言ってましたよ! 私も仕事がたてこんでるときとかにそうなることが多くて、絶対この会社がすべての元凶ですよ」
仕事もそっちのけで笑いあう。周りの喧騒がなくのんびりとした日曜日の独特な雰囲気が、わたしたちにたくさん話させている感じがした。日曜日に会社に来るのは嫌だけど、来てしまえば静かで作業に集中できるし、同じ日に働いている人との連帯感も生まれるので悪くない。『夜明けのすべて』で、二日休んでしまうと月曜日がきつくなるからと日曜日にわざわざ出社する山添と、PMSのせいで友人にあたってしまいそれを紛らわすために会社の車を拭きに来た藤沢の姿が脳裏に浮かぶ。静まりかえった職場で、お互い心を許し合って軽口をたたくふたりの様子を見ていると、いちばん暗い夜のなかにいても大丈夫と思えた。
普段時間に追われてばかりいると同僚のことをただ「同僚」としかみれなくなってしまうけれど、こうやってゆっくり話すと相手の解像度がぐっと上がって、たくさんの背景をもったひとりの人なんだという当たり前のことを思い出す。
「会社員辞めたらマシになるかな? アパート経営者にでもなりたいね」
わたしがそう言うと、堀ちゃんは
「そしたら毎日有給ですね」と言う。
「まあ残念ながら、そんなお金も不動産もないんだけどね」
堀ちゃんは「私もです」と言って笑った。堀ちゃんはエナジードリンクをぐっと飲みほして、パソコンの脇に置いた。
働かなければ生きていけないわたしたちがどうにか折り合いをつけながらやっていくために、いつもとは違う時間が流れる職場でこうやって話すことは、日々忙しくわたしたちを追い立ててくる仕事と、効率ばかり求めてくる社会への抵抗のようにも思えた。
そのあとも堀ちゃんと、低用量ピルの値段の高さや、そもそも会社の「休みにくい雰囲気」というより「期限があって会社に来ざるを得ない」無理なスケジュールや体制の話をした。
「結論、勤務が不規則で人手不足で、属人的で、いつも期限に追われてるこの会社が全部悪いですね」
就職して仕事に慣れてから、ずっと同じような話をしている気がする。大きな組織は簡単には変われない。きっと、次世代にこれを手渡さないように、ちょっとずつでもいいから自分の場所でできることを積み重ねていかないといけない。
体調のことや休日出勤への恨みつらみをとりあえず共有した満足感からか、そのあとは自然とそれぞれの作業に集中していった。
昼ごろ窓の外を見ると、雨は止んでいた。そういえば天気予報でも昼間には一度雨が止むと言ってたな、と曖昧な記憶を引っ張り出す。朝と比べると、体調はマシにはなった気がする。どうせまた不調はやってくるのだけれど、つかの間の雨上がりがぴんと張りつめていたものをゆるませてくれる気がする。
「堀ちゃん昼ごはんどうする? 一緒に食べに行く? 近くの韓国料理屋なら日曜も開いてたはず」
パソコンに向かっていた堀ちゃんが顔を上げる。
「行きましょう!」
ふたりでるんるんと階段を降りて会社を出ると、まぶしさに目を細める。
「休みの日だと周りを気にせず好きな時間にご飯に行けて、帰りの時間もそんなに気にしなくていいのがいいですよね」
堀ちゃんの言葉にうなずく。
そもそもは決められた締切があるから休日出勤させられているわけだけど、今日という日のなかだけは、作業のペースもランチの時間もすべて自分たち次第という錯覚にとらわれていて、不思議と店に向かう足取りが軽い。日々会社に翻弄されてばかりのわたしたちが、解放される時間。
「なんか、また午後雨降るらしいですね。一応傘持ってきたほうがよかったですかね」
「大丈夫大丈夫。もし降ったら帰りは走ろう」
「そうですね。何食べます?」
「きょう暑いし冷麺とか食べたいな」
「あそこの冷麺、梨がのってておいしいですよね」
堀ちゃんとぽつぽつと話しながら、店に向かう。
夜明けと雨上がりはどこか似ている。わたしたちの体調も気持ちも関係なくやってきて、勝手に去っていく。いま雨が止んだとしてもどうせそのうちまた降るんだから、このささやかな晴れ間にせいいっぱいあやかろうと思う。見上げると、雲の隙間から日が差しはじめていた。
銀の森(ぎんのもり)
1995年生まれ、静岡県在住の会社員。自主制作ZINE『28歳、抵抗の自由研究』を発行。
*こちらの連載は「web灯台より」にて読むことも可能です。
*投げ銭していただけると執筆者と編集人に「あそぶかね」が入ります٩( ᐛ )و