社会の当たり前が自分と相入れない時、いつも、世界とはぐれてしまった気分になる。どうして馴染めないんだろう。一人違う場所に迷いこんでしまったみたいに心許ない。そんな時に寄り添ってくれたのが、自分とは異なる形で世界とはぐれた人が出てくる本や映画だった。そんな作品と一緒に社会の規範について考え、抵抗していくエッセイ。
大学生になって急に、みんな恋人を作り始めた。入学後に入ったサークルで、1か月後にはひとつ上の先輩とカップルになった同期がいて、急展開すぎてびっくりしてしまった。いつの間にそんなやりとりが行われていたのか! と部室で仲良さそうに話すふたりを見つめた。甘い空気をまとうふたりはとても幸せそうで、ふたりとも地方から上京しひとり暮らしをしていたさびしさもあっただろうからよかったと思った。神奈川の実家から片道2時間ほどかけて大学に通っていたわたしにとって、地方から東京に出てきてはじめてひとりで暮らす同級生たちのさびしさは想像することしかできない。だからこそ彼らに頼れる人ができること、なにかあったらこの人に助けを求められるという存在ができることは、きっととても重要なことなのだろうと思った。
でも同時に、仲のいいわたしの友人たちがこの先、こんなふうに誰かとカップルになってわたしを置いていってしまうのではないかという予感も、頭の隅のほうで感じていた。
それはすぐに、現実になった。
毎週あった基礎演習の授業で仲が良かった友人に恋人ができ、お昼を一人で食べることになった。中学の友人からの連絡頻度が減ったなあと思っていたら恋人ができていた。サークルのなかでも、ふたり一組のカップルがどんどんできていって、練習前の自由時間に会話をするグループがアメーバのように変形していった。中学生くらいのころ体育の時間や遠足のときに、ふたり一組でペアを作ってと先生が言い、誰と組めばいいのかわたわたしていた自分を思い出した。めんどくさいな、なんですぐ先生はペアを作りたがるのだろう。先生は誰ともペアを組まなくていいからずるい。大人だから? わたしも大人になれば誰かとペアにならなくていい自由が得られるのだろうか。それならば早く大人になりたい。ひとりでいるなんてかわいそう、誰か一緒にペアになってあげて。無言のうちに発せられる気まずい視線をはねのけられるような自由と強さがずっと欲しかった。
もともとわたしはひとりが好きだったし、楽だった。だから大学でランチをひとりで食べることが多くなってもあまりさびしいとは感じなかった。むしろ本を読んだり課題をしたりする時間が増えてラッキーだとさえ思った。幸いわたしがいたキャンパスにはそういう人がたくさんいた。昼間の図書館はいつも、ひとりで机に向かう学生たちであふれていた。
いま思うと、そうやって強がってみせることで自分を保っていた部分もあったのかもしれない。心のなかを無理やり凪の状態にすることで、気にしないふりをしつづけた。大きな波にのみこまれないように。自分のさびしいという気持ちを抑えこむことで、息苦しくなっていることに気づけなかった。
友人の「報告」に動揺を隠しきれなくなったのは、古河ちゃんに恋人ができたと聞かされたときだった。
古河ちゃんはサークルの同期で、大学に入学してすぐに共通の好きなアニメがあったことで仲良くなり、その後サークルにいるときは同期のみっちゃんと3人で過ごすようになった。毒舌で気を許した人にしか自分からはあまり声をかけないみっちゃんと、ひとりが楽だとぶらぶらしていたわたしの間を、しゃべるのが大好きでいつも明るい古河ちゃんが潤滑油のようにつないでくれていた。
あの日、古河ちゃんとわたしはサークルの大会遠征で静岡の藤枝に向かっていた。お金を節約するために早く起きて東海道線に乗りこみ、土曜の朝のゆったりとした車内でふたりでずっと話した。古河ちゃんがその話を切り出したのは、富士駅を過ぎたくらいだった。
「実は私、彼氏ができたんだ。前話した幼馴染の」
電車は幅の広い川の上を走っていた。冬のからっとした空が遠くまで澄み渡り、窓から差す日が車内の床に陽だまりをつくっていた。同じ大会に出場するほかの同期や先輩たちは、別の車両に乗っていた。
「えっ、おめでとう! そうだったんだ」
反射的にそう返した。
「恋人ができた」「結婚することになった」こういう報告を受けたときに返す言葉はいつもテンプレート的なものになってしまう。心から祝福しているから出る「おめでとう」のはずなのに、どこか祝福だけではない気持ちも浮かんでしまい、いたたまれなくなる。あなたがうれしそうで、幸せそうで、わたしもうれしい。そう思う自分と、おなかの下のほうにずんと溜まる、ほの暗いさびしさの片鱗。
「あの人だよね、大学生になって再会したって言ってた」
そう聞くと、となりに座る古河ちゃんはさっきまでわいわいと今クール放送しているアニメの感想を言い合っていたときとは、どこか違う雰囲気になっていた。
「そうそう。家が近所で、家族どうしも知り合いなんだ。昔は一緒にサッカーとかしてたんだけどね。こんなふうになるとはねえ」
遠い昔一緒に公園で泥だらけになって遊んでいた幼馴染と、小学校、中学校と成長していくにつれていままで通りではいられなくなって、一度は疎遠になったんだけど。それはよくある、思春期みたいなもののせい。でも大学生になってたまたま再会したときに、大人っぽく変化している相手に恋心を抱いて、こうして恋人になって、なんか変な感じ。
古河ちゃんは幼馴染とのなれそめをわたしに説明してくれる。なんだか少女漫画みたいだ。そう思ってから頭を振る。わたしが想像する恋愛はいつも、漫画や小説、映画のシーンばかりだ。誰かの手によってつくられた、想像上の恋愛。現実感を伴っていない、色付けされた恋愛。どんなにたくさん見たり読んだりしても、合成着色料が添加された食べ物をからだに摂取するときのように、ほんものではないものを溜め続けているような気がしていた。
古河ちゃんたちが現実で過ごしたたくさんの時間が凝縮されてこうやってわたしに差し出されるとき、その思い出たちはいままでわたしがみてきた様々な物語と重なる部分もあるかもしれないけれど、古河ちゃんたちだけの物語でもあるはずで。現実の恋愛の感覚がつかめなくて、自分が想像できる範囲の〈恋愛〉をむりやり古河ちゃんの恋愛に重ねているのではないかと、自分で自分のことが信用できなかった。わたしは、まぜこぜになった頭のなかのイメージの〈恋愛〉と現実の恋愛をなんとか引き離そうとしながら、古河ちゃんの話に耳を傾けた。
古河ちゃんはきっと、きょうこの車内でわたしに報告するんだということを前もって決めて、話してくれたんだと思うとそれはなんだかうれしい気がするし、でもやっぱり古河ちゃんに恋人ができたことへのさびしさもあるし、みっちゃんと3人でサンリオピューロランドに行って水色のカレーを食べてはしゃいだり、サークルの練習帰りに油そばを食べに行ったり、大学のそばにある卓球場でひたすらラリーを打ち合ったり、そういう時間があまり減らないといいなと願った。そして、そんな自分を身勝手だなと思ったりもした。考えを振り切るように、また頭を振る。友人の幸せを純粋に祝えない自分を、無理やり押しこめる。ぎゅうぎゅうになって息ができなくなりそうだ。でも、古河ちゃんとみっちゃんとわたしの間をつなぐ川には小石がたぶんすでに投げられていて、流れはこれから少しずつ変わっていくのだろうとも思った。
目的地の藤枝はまだまだ遠く、あとどれくらい座っていれば着いてくれるのだろう。時間が過ぎるのが急に遅くなった気がした。埼玉に住んでいた古河ちゃんにとっては、神奈川から電車に乗ったわたしとは比べ物にならないくらい遠い旅路だったはずで、暖房が効いた車内と窓からの日差しでぽかぽかとしながら、報告の緊張から解き放たれたらしい古河ちゃんは途中うたたねをしたり、しなかったりした。わたしはこれから出る大会への緊張をすっかり忘れたまま、ゆらゆらとゆれる古河ちゃんの頭をたまに肩で受け止めて古河ちゃんと幼馴染のことを考えたり、当時住んでいた藤沢の海よりもずっと青くみえる静岡の海をぼーっと眺めたりした。
「友達全員に恋人がいて魔法の関係を見せつけられたら?」
このときのことを思い出したのは、『HEARTSTOPPER』のシーズン3を見たからだった。アイザックが発したこの言葉に、わたしは画面の前で泣きだしてしまったのだった。チャーリーとニック、タオとエル、タラとダーシー、仲の良い友人たちがみんな誰かとカップルになっていくなかで、アロマンティック・アセクシュアルを自認するようになったアイザックは、彼らが恋人と過ごすことで自分と過ごす時間が減っていくことや、みんなで遊びに行ったときにどこか感じる疎外感から目をそらせなくなっていく。
アイザックはチャーリーの親友だが、シーズン1ではその存在はそんなに前面には出されていなかった。原作の漫画には登場しないドラマオリジナルのキャラクターで、いつもチャーリーのそばにいて助言をしてくれる脇役というイメージが強かった。
アイザックの手にはいつも本があった。チャーリーがニックや家族、友人たちとの関係に悩んでいるときに優しく的確にアドバイスをしてくれる彼の目には、いったいどんな世界が映っているのだろう。どんな本を読み、彼自身は何を感じているのだろう。わたしのなかでずっと気になる存在だった。
シーズン2になり、アイザックの内面がより深く示されていく。アイザックはジェームズに心を開いていくが、周りの友人たちはそれを「恋愛」だとみなし、7話では「ついにキスね」などと煽る。しかしアイザックはその盛り上がりにさえない表情を見せる。ジェームズの告白を断ったあとには、「みんな人生は恋愛がすべてだと思ってるけど僕は彼に思いを返せない」と友人たちに怒りをぶつける。
そんななか友人のエルが通う学校の展示を見に行き、アロマンティック・アセクシュアル当事者の経験をアートにした作品に出会う。そこでアイザックは啓示を得たように自分のセクシュアリティを探っていく。たとえ身近にはいなくても、世界のどこかには自分と同じようなことを感じている人がいる。そんな希望を示してくれるようなシーンだった。
8話では、みんなが好きな人とペアになってプロムに参加するなか、アイザックは会場を抜け出して図書室に行く。表紙に大きく「ACE」と書かれた本をめくり、胸に抱きしめたシーンをみたとき、わたしはしらずしらずのうちに涙を流していた。ああ、アイザックもそうだったのかと、仲間を新たにひとり見つけて、ふわふわとした喜びに包まれた。もともと大好きだったドラマに、さらに自分と同じセクシュアリティのキャラクターが登場するとは思っていなくて、その不意打ちに、誕生日に友人たちが蝋燭をつけたケーキをサプライズで運んできてくれたかのように、わたしの人生までも小さな灯りに照らされていった。アイザックの発する言葉は多くはないが、その表情や仕草からセクシュアリティを発見していく過程の苦悩や、自分の違和感に名前を発見しついに確信したときの喜びを一緒になって感じた。
わたしがアロマンティック・アセクシュアルを自認するようになったのは、最近だ。概念の存在自体を知ったのは、3、4年くらい前だったと思う。ずっと感じてきた小さな違和感に、はじめて名前がついた瞬間だった。でも、とても救われたような気持ちになった一方で、これで自分のことを説明してもいいものなのか確信が持てなかった。セクシュアリティは流動的なもので、いまはそうでも、今後変わっていってもいいということは頭ではわかっていたつもりだけど、それでも「これだ!」と決めてしまうのがこわかった。木にくぎを打つように、身動きができなくなってしまうのではないかと。
また、決めなくてもいい特権もあったのではないかといまでは思う。ひとりでいることは、「ひとりでいる」以上の意味を持たない。相手がいないから、たとえば同性カップルが受ける様々な差別を、ひとりでいるだけでは受けることはない。
そのうえ、恋愛をしないことも結婚を希望しないことも「アロマンティック・アセクシュアル」であることを言わなくても他人に説明することができた。ただそれが自分の希望だから。「彼氏いないの?」「なんで結婚したくないの?」と聞かれ「自分には必要ないから」と説明するとき、ほとんどの人は納得していない表情を見せつつも「そうなんだ」とそれ以上追及してこなかった。近年は社会的にも、恋愛をする人や結婚する人の数は昔よりは減っているし、それがニュースにもなるくらいだから(もちろんこれは経済的な問題や、労働に多くの時間をとられていること、戸籍上の異性どうししか結婚できない婚姻制度の不備、いまの政治では未来に希望を持てないなど多くの複雑な要因をはらんでいるだろう)。またはハラスメントという言葉が社会に行き渡り、そういうことを深入りして聞くのはあまりよくないという意識が広がっているから。おそらく昔だったら受けていたであろう偏見や差別を、「結婚しないなんておかしい」という周りからの圧力を、わたしはいまのところあまり受けずに済んでいる。たくさんの人が声をあげ、少しずつでも変わってきている社会の恩恵を少なからず受けながら生きている。
でも、そうやってはりめぐらされた「普通とされる」網をすり抜けながら生きているつもりでも、だんだんと逃れられなくなっていった。社会で普通とされる道を選ばない理由について何度も説明を求められると、そのたびに自分のことを考えざるをえなくなる。たとえば会社の面談で。女性であるとどうしても「あの、この先結婚とか、そういう予定は……?」と聞かれる。転勤がある会社のため、結婚や出産は異動の決定に確実に影響してくるからだ。近ごろの、あまり人の結婚やら出産やらをむやみに聞いてはいけないという社会の雰囲気をインプットしている上司が、やたら聞きにくそうに、遠慮がちに聞いてくる。
「ないです」
はっきりそう答えるたびに、自分にはその選択肢を選びたいという希望が「ない」ことを自覚していく。周りの人と違うらしいことを、否応にも自覚させられる。すり抜けられたと思っていた網に手足が引っかかってしまう。
どうして「普通とされる」希望が自分にはないのか。多くの人と同じ道をいこうとしないのか、またはいくことができないのか。セクシュアリティはおそらく、いや、確実にその理由のひとつであろう。たぶん、そうやって受け入れはじめた。
でも当時はまだこうやって文章に書いたり人に話したりできるくらいには受け入れられていなくて、それは自認する/表明することによって、自分の言葉すべてが大きな主語を纏っていってしまうのではないかという漠然とした不安があったからだった。関連書籍を読むと、どうやらアロマンティック・アセクシュアルの人は数が少ないらしいということも、その不安を加速させた。どこかでひっそりと文章を書いていきたいけど、表明することで自分がその代弁者になってしまうのではないか。誰かのセクシュアリティを、人生を代弁なんかできるはずがないし、そんなこと誰も期待していないことなんてとっくにわかっているのに。そうやって根拠のない不安をこねくり回すことで、目的地の周りをぐるぐると歩き回るように、自認することを巧妙に避けていたのだった。
最近、まだまだ少ないながら、アロマンティックのキャラクターが主人公のドラマや漫画が、明確にそのセクシュアリティを示されながら作られはじめている。たとえば映画『そばかす』、漫画が原作でドラマにもなった『今夜すきやきだよ』。その主人公たちに共鳴している自分に気がついたとき、「あ、いいんだ。存在しても。認めても」と徐々に自分のセクシュアリティを受け入れている自分がいることに気がついた。認識が変わったのはこの日だという明確な区切りがあるわけではなくて、最初は水分を吸ってくれなかったタオルが何度かの洗濯を経てやっと水を吸いはじめたときのように、わたしはやっと、これまで撥ね返していたものを自分のなかにきちんと吸収できるようになり、ゆっくりゆっくり浸透していったのだと思う。
そのことを思い出しながら、自分に似た人が作品のなかで描かれるということの重要さを感じる。当たり前に描かれると、見ているこちらもそれが当たり前だと思えるようになっていく。もちろん作品だけではなく、文章やネットでの発信など何らかの形で当事者の方がその実存を示してくれることも、確実にわたしを勇気づけた。そういうロールモデルのような存在がひとりではなくてたくさんいてくれるからこそ、自分と同じ部分や似たところもあれば考えが違うこともあり、自分もその多様な人たちのなかのほんのひとりに過ぎない、わたしはただわたしであるだけでいい、という当たり前のことを当たり前に思えるようになった。通学・通勤する人であふれかえる朝の東京駅を通り過ぎるときみたいに、大勢のなかのひとりになれることはわたしに安心をもたらしてくれる。
『HEARTSTOPPER』のアイザックに出会えてよかったと強く感じた点は、恋人を作り自分との時間が減っていった友人たちに対して戸惑いやさびしさをはっきり伝えたところだった。
いつもだったらみんなで遊びに行く流れだったのに、みんながカップルになってそれぞれの予定に時間を使うようになる。タオはエルとの時間を優先し、アイザックがそのふたりと一緒に映画を見たときにはタオとエルはふたりだけの世界に入ってしまう。同じ部屋にいるのにいないように扱われ、アイザックは自分自身がお邪魔虫扱いされていると感じる。グループ内でのみんなの時間の使い方が、生活の中心が少しずつ、しかし確実に以前とは変わっていく。
大学生になって周りが恋人を作っていき、自分と過ごす時間が減るかもしれないと覚悟したときの切迫した焦り。彼らの生活の中心が恋人にシフトし、それが素晴らしいことのように語られること。それをご飯の席やサークルなどで何度も聞かされること。完璧だったはずの友人と自分との関係に、恋人という自分には一生かなわない存在がぽんと急に入りこんでくること。
「彼女に夢中で友達をないがしろにしてる」
我慢した末に、アイザックはタオにそう告げる。一方でタオには、自分はエルに釣り合わないのではという自信のなさからそうならざるを得ない理由もあった。それぞれに事情がある。立場が違うそれぞれの事情をきちんと描くドラマの丁寧さが、簡単にはいかない人間関係というものを一層際立てる。
大切な友人に、大切な存在ができることはうれしい。アイザックは友人たちの恋を応援し、ときにはアドバイスもする。友人の恋を応援する気持ちと、友人に恋人ができて自分との時間が減ることがかなしいという一見矛盾するように見える気持ちは、両立する。どちらも自分のほんとうの気持ちだし、否定しなくていい。
わたしは、いままでいくら「さびしい」という感情がわきあがっても友人にそれを伝えたことはなかった。自分もどこかで「恋愛」は「友情」よりも優先されるべきだという規範を無意識のうちにインストールしていたのかもしれない。わたしのさびしいという気持ちを伝えて、友人たちを煩わすべきではないと。
ほんとうにそうだろうか?
特に多くの時間を友人たちと過ごす学生時代に、自分の気持ちを言ってしまって相手とぎこちなくなったり疎遠になることはとてもこわい。冗談っぽく「さびしいわ~~」とか言ってみたらよかったけど、当時はその一言が重かった。言おうとすると喉の奥がひゅっとなって口に出せなかった。水面から顔をのぞかせようとすればするほど、苦しくて沈んでいってしまうように、言えなかった言葉が腹の下のほうに落ちていく。息つぎもできないまま、水の底に沈んでいくしかない。言わないと伝わらないのにそんなことも言えないくらい臆病で、そもそも自分のことも全然わかってなくて(もちろんいまもわかっていないが……)、でもわからないならわからないなりにまず言葉にしてみればよかった。文章を書くと自分はこんなことを考えていたのかと新しい自分を発見するように、言葉にしてみればわからないなりに自分の気持ちが少しは理解できたのかもしれないと、いまでは思う。
すれ違いのあと、タオはアイザックに謝罪し和解に向かう。アイザックは自分がされて嫌だった扱いについてタオにきちんと伝える。
「お邪魔虫扱いだった」
「認めるよ」
「つらかった。言われてるみたいでさ。恋愛は誰もが望む魔法だと/僕はそれを望まないからキツい」
アイザックはタオだけでなく、みんなにむけて言葉を紡いでいく。
「友達全員に恋人がいて魔法の関係を見せつけられたら?/アセクシュアルやアロマンティックなのを受け止めきれてない。自己概念が一変したんだ。人生や未来への考えも」
セクシュアリティを自認したから終わりではない。そのあとも人生は続いていく。自分のセクシュアリティを理解したうえで、この先どう生きていけばいいか。それはどのセクシュアリティであってもつきまとう問いではあるが、恋愛中心主義の社会で周りが恋愛によってパートナーとの関係を築いていくなかでアロマンティックの人はそこから外れざるを得ない。普通とされる道をいけないのならば自分はどうすればいいのだろうかと、将来の設計がまるで立たなくなる。動揺するのは当たり前だし必要なプロセスだと、ニックとチャーリーはアイザックに声をかける。タオは「僕らは愛してる」とアイザックを抱きしめこのシーンは終わる。友人たちはアイザックの混乱をただ受け止めることしかできない。でもそれは悪いことではなくて、そういうものなのだ、きっと。自分で解決していくしかない。いきたい道を自分で選んでいくしかないのだ。
日本よりもカップル主義が強いヨーロッパで、アイザックはこれからもきっとたくさんの困難に出会うだろう。友人たちと過ごす時間は、進学して環境が変わればさらに減っていくかもしれないし、もっと歳を重ねて周りが結婚などで生活が変われば、いまよりももっと「恋愛の外にいる自分」のセクシュアリティを感じざるを得ないかもしれない。それでも、いまこの瞬間の自分のほんとうの気持ちを伝えること、友人たちが自分のことを知ってくれていて気遣ってくれること、それは水の底から見る太陽の光のように、この先もアイザック自身を支えていくはずだ。
自分にできなかったことをやってのけるアイザックをみていると、思わず感謝を伝えたくなった。学生時代のわたしがみることのなかった世界が、ドラマのなかで展開されていくのはうれしい。アイザックだけでなくこのドラマ全体に共通することだが、みんな悩み、迷った末にきちんと自分の気持ちを相手に伝える。
自分のことを振り返ってみたとき、それが思っていた以上にできていないことに気がつく。誰かと話したり一緒に過ごしているときに感じたことを、言おうとして結局言えないときがいまでもたくさんある。そうやって言えないまま毎日が過ぎていって、ほんとうの気持ちが流れていってしまう。だから、まっすぐ相手にぶつかっていく登場人物たちがまぶしい。たくさんの言葉を飲み込んできた過去の自分が、癒されていくようだった。自分の気持ちを悩みながらも言葉にしていくみんなをひとりずつ抱きしめたいと思うとき、わたし自身も彼らに「大丈夫だよ」「そのままでいていいんだよ」と抱きしめてもらっているのかもしれない。
ただこわかった。変わらないと思っていた時間や関係が変わっていくことが。そして変わってしまう原因が、いくらたくさんの漫画や小説を読んでも自分のもとにどうしても引き寄せられなかった「恋愛」なのが。
29歳になって、学生時代に感じていたひりひりとした不安みたいなものが別のものに置き換わった。それは、友人たちや会社の同期が結婚や出産をしていくのをただ眺めるしかないあきらめを孕んださびしさだ。「○〇歳になってもお互い結婚してなかったら一緒に住みたいね」と昔言い合った友人が結婚したり、友人のLINEのアイコンが生まれたばかりの子どもの写真一色になっていたり、そういうのを見るたびに友人の幸せを祝いたい気持ちと漠然としたさびしさが泡のようにぷつぷつと浮かんでくる。
「恋愛」というものによって人生の段階が変わっていく彼女たちと、少なくとも「恋愛」によっては生活が変わることはないわたし。もちろん恋愛抜きの結婚・出産もこの世には存在しているし、知り合いの結婚が全員恋愛によるものと断定するのは乱暴なのかもしれないが、それでもそのさびしさからは目をそらせない。
わたしはきっと、取り残されていく側なのだ。そう卑屈になってみせるけれど、それでも思ったよりはひとりでいる友人が周りにはなぜか多くて(知らず知らずのうちに似た人を引き寄せているのだろうか)、それはとてもうれしい誤算なのだった。長く生きてみるのも悪くないなと思う。予想とは違うあかるい景色が、少しずつ目の前で開いていくこともあるから。
学校を卒業し働いているいま、もう古河ちゃんにもみっちゃんにも気軽には会えない。古河ちゃんは3度の転勤を経て東京で当時の恋人と結婚し、みっちゃんは新卒で入った職場をやめ大学で勉強し直してから別の仕事に就き、わたしは2度の転勤でもう7年関東を離れている。お互いに会う機会は、恋人の有無関係なくほとんどなくなってしまった。
でもいまなら素直に会いたいと言える気がする。前みたいに気軽に誘えなくなってさびしいと、言えそうな気がする。わたしたちの間には関係を保証してくれる法律も義務もなくて簡単に離れてしまうかもしれない関係だからこそ、会いたいと伝え続けることがとても大事だから。「元気?」でも「生きてる?」でもいい。SNSでのいいねでもいい。遠く離れていても、お互いの存在を気にし続けることがきっと愛なんだとわかったわたしはもう、遠慮も恐れもせずまっすぐに彼女たちに自分の気持ちをきっと伝えられるはずだ。
恋愛という手段で誰かとつながることのない自分がこれからどういう人生を選びとっていくのか、友人たちとどうやってつながり続けるのか、ぜんぶぜんぶ試行錯誤だ。長い人生でなにかを試したり失敗したり決断したりしながら、新しい毎日を生きていくしかない。だれかを祝う気持ちも、自分のさびしさもぜんぶまるごと抱えながら。そういう人は自分ひとりだけではないことを、わたしはもう知っている。アイザックが本を見つけて胸に抱いたときみたいに、自分のことを知れてうれしかった瞬間を大切に抱きしめながら、わたしは次の良かったと思える瞬間に、ゆっくり遠回りをしながらでも出会いにいくのだ。
銀の森(ぎんのもり)
1995年生まれ、静岡県在住の会社員。自主制作ZINE『28歳、抵抗の自由研究』を発行。
*こちらの連載は「web灯台より」にて読むことも可能です。
*投げ銭していただけると執筆者と編集人に「あそぶかね」が入ります٩( ᐛ )و