戦争反対
なんて言ったところで戦争がなくなるわけではないよね。
……なんて言ったところで戦争がなくなるわけがないので、何度だって言うんですよ。戦争反対、と。
確かに戦争反対(とか差別反対とかとにかくいわゆる「社会運動」的なものすべてにおいて同様のことを)言ったところで、なにかわかりやすい効果=結果がすぐに出るわけではない。そんな簡単に結果にあらわれるのなら、戦争もいじめも差別も殺人もありとあらゆる悪がすでにこの世界からなくなっているはずだ。人類が何千年、あるいは何万年とやってきた歴史の重みをバカにするなよ、という話である。いろいろな意味で。
答えが簡単に出ない問題に対して苦悩し続けるのが面倒になったから逃げただけのことを、冷静とか客観とか中立とかの言葉で誤魔化して「超越者」ぶってんじゃねえぞ。
(あんなさんが続くツイート内でも言及してますが、そもそもザッパのこの発言自体が「文脈違い」なので、複層的に的外れな冷やかしなわけですが……)
ここで少し考えたいのは、なぜこのような冷笑的態度を人はとってしまうのか、あるいはこのような態度がどうも「効率性」とか「合理性」とかをことさら重視する(ことで人権無視の言い訳にする)のが好きな人たちの間でよく見られるのはなぜなのか、というようなこと。そしてこの手の人たちは往々にして差別やヘイトの諸問題に対しても冷笑的だったり「自分はあなたと違って冷静なんで、中立で客観的に物事見れてますよ?」みたいなことを言いながら弱者をぶん殴ってたりする。こういう態度はなぜ生じるのか、その本質とはなんなのか。
ひとつ言えることは、これがいわゆる「厨二病」的振る舞いに似ているということ。思春期男子が基本的には避けて通ることができない、正しいことをすることへの気恥ずかしさ(と、それを誤魔化すための露悪的な振る舞い)だ。たぶん女子にだって同様のことはあっただろうし、自分を男とも女とも認識していなかった/できていなかった人にだってあったと思う。あいつ優等生ぶっちゃってムカつくんだけど、みたいな感情とか。その本質は学校や教師、あるいは親が「押し付けてくる(ように思える)」正しさに対する反抗だといまなら理解できるし、それ自体は踏むべきステップのひとつだと思うので否定はしないが、それをどこかで拗らせて/歪んだ解釈をして大人になってしまうと、「戦争反対!なんて叫んだところで意味ないよね」みたいなことになってしまうのではないだろうか。
あるいは、やはり「効率」とか「合理」とかを免罪符にして正しさの追求を否定する/諦めることとの繋がりから考えてみると、答え=結果がすぐに出ないことに時間や労力を費やしても無駄だよね、みたいな、これまた思春期真っ盛りの過去の私たちが「真理」だと思っていた黒歴史的なあれこれが思い出される。歴史なんて勉強(暗記)して何の役に立つの?おれ文系だから数学とかいらねえし?受験終わったらぜんぶ必要なくなるような知識詰め込んでどうすんの?みたいなあれこれ。確かにそれらは「一理は」あった。ただ、役に立ってないわけではない。学校の授業で学んだあらゆることが役に立ってることを「気づけてない」だけで、実は日常生活のあらゆる面で、なにもかもが役に立っている。
もしかしたらこの「役に立っている」という捉え方自体がよくないのかもしれない。基礎になっている、というような言い方のほうが精確か。そしてこの「役に立っている」と「基礎になっている」を比べると、どこか前者のほうが「派手でわかりやすく」、後者のほうが「地味でわかりにくい」感じがする。「株式投資セミナーで教わった”初心者でも楽に稼げるコツ”が役に立ちました」と「今回の株式投資で得た利益は小中高の算数と数学、そして大学での経済学や歴史の知識が基礎になっています」では、明らかに前者のほうが魅力的だ。おそらくこれを読んでいる人の多くはそうは思わないだろうけど、残念ながら世間的にはこの「簡便さ」に魅力を感じる人のほうがマジョリティだと思う(人は基本的に弱いので、面倒なことはしたくない)。簡単で、すぐにできて、効果もわかりやすいものが出る。そういうものに人は惹かれてしまう。
戦争反対、なんて言ったところでなにも変わらないよね。ということを言いたくなってしまう背景にはこのような要因があるように思える。ひとつは「正しさを主張することへの気恥ずかしさ」、もうひとつは「すぐに答え=結果が出ないことに対する忍耐力の欠如」だ。そしてこのふたつは「必死にがんばってる優等生的なやつに対する嫌悪感」という厨二病的感覚と、やはり繋がる。必死にがんばってる=努力してるのは正しいことで、そして難しいことでもある。さらにそのがんばり=努力はすぐに実を結ばない(あるいはわかりにくい形や自分の想定とは異なる方面で実を結ぶ)ことのほうが多い。それなのにあいつは必死にやってる。なんであんな無駄なこと。馬鹿なんじゃねえの?という態度をとらないと「自分の虚しさに耐えられない」。たぶんこの嘲笑/冷笑は憧れの裏返しなのだ。本当は自分もそっち側になりたかった。努力を続ける人が輝いて見えているからこそ、その世界に足を踏み入れられない自分のことが嫌になる。だから、憧れが嫉妬に変わり、嫉妬が憎悪に変わる前に、あなたはこちら側に来なくてはならない。そしてそれはそんなに難しいことではない。なぜならこちら側にいる人は、そうやって勇気を出して1歩を踏み出すことの難しさも、その「なかなか実を結ばない」世界の中で努力を続けることの苦しさも知っているのだから、あなたがこれからしていくであろう多くの「失敗」など責めやしない。自分も通ってきた道だから。
戦争反対、とひとこと言うだけで世界は変わる。少なくとも自分の世界は、思っているよりすぐに、そして大きく変わる。そして個人の世界が変わると、個人の集合体である世界もまた変わっていく。戦争反対、というひとりひとりの小さな声が、長い時間をかけて世界を変えていくことになる。私たちにはその「結果」は見えないかもしれないし、自分が生きているうちに「実現する」ことはないかもしれない。でも、厨二病になるならそういう「夢みたいなこと」を「本気で信じちゃう」ような「馬鹿」になるほうが、絶対に楽しい。安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」をネットミームやスラング的に使うのではなく、本気でそれをかっこいいと思い、本気で信じていたあの頃の自分のほうが、絶対に輝いている。
そして、なにも変わらない/変えられないと思っていた自分ひとりの小さな声も、SNSが発達した現代社会では想像以上に「役に立っている」ことがある。たとえば#StandWithUkraineのタグがついたツイートは、フォロワー数0のアカウントのものでさえ世界に向けて発信されている。つまりそれらはすべて「見えている」。少なくともその声を必要とする人には。このタグだけのツイートですら、それを必要とする人にとっては助けになるし、救いになる。あるいは支えになる(「基礎になる」とは「支えになる」の言い換えでもあるかもしれない)。場合によっては、プーチンが改心するかもしれない。その可能性は0じゃないし、そんな夢みたいなことを本気で信じている「馬鹿」のほうが、そんなもん意味ねえよ馬鹿なんじゃねえの?と嘲笑ってくる人間よりこの世界に「可能性」をもたらしている(それに日本語でのツイートだって翻訳されて世界に伝わっているのだから、どんどん発信すればいい)。
だからこの戦争が、あるいはこの社会に蔓延する差別やらヘイトやら政治の腐敗やらがひとつでも解決に向かって前進したときには、胸を張って言ってやればいい。これは私のおかげだ、と。それはまったくもって「嘘ではない」のだから。その「実績」をひとつひとつ積み重ねて、意味がないとか変わらないとか言ってる人の前にドンっ!と置いてやろう。戦争反対。