はじめに。これは映画『怪物』の内容とその問題点に触れる。映画『怪物』には児童虐待、いじめ、具体的な差別描写、児童を含めた自死をにおわせる表現、動物の死などの注意が必要な描写が多数含まれる。当事者、そして当事者性を強く持つ存在にとっては暴力性が強い内容が含まれるのだが、それらについて宣伝配給からの警告はない。改めて、当事者、もしくはいじめや虐待、自死描写がトリガーになり得る観客にとって致命的な傷を受ける可能性があるということを此処に明示する。同時に、そういった暴力性について触れながら、映画『怪物』とそれらを巡る諸問題に具体的に言及するため、この文章自体があなたにとって辛いものになり得るかもしれないことをあらかじめ警告する。ご自身の状態と相談して、読み進めて貰いたい。
日本映画だけでなく、日本の作品はこれらの命・精神に関わる警告を軽視しすぎていると日々感じている。これらの描写を“取り締まれ”と言っているのではない。作品が開かれていればいるほど、多くの存在に触れやすくなる。それは描写によって致命的な傷を受ける者にも届いてしまいかねないということだ。だから警告が重要だと言っている。その「警告」を受けて観るかどうか「選び取る」のが重要なのであって、表象自体を封じろというわけではまったくない。
これに対し、その警告がなくとも傷を受けない側から「(そういった警告をすること自体が)ネタバレだ」という言葉が投げかけられることも多々あるが、そんな「ネタ」なら「バレ」てしまえと言いたい。性描写や児童虐待がある、クィア差別がある等の警告“ごとき”でその作品の面白さが損なわれるのであれば、それはただ単に作品の力不足にすぎない。ミステリーにおける「犯人ばらし」や「ギミックばらし」はナンセンスだと思うが、それと「注意が必要な描写」を同列に語るのは、あまりにも筋違いだ。
映画『怪物』の宣伝は映画の終盤を指して「新鮮な気持ちで観客が本作を楽しめるように、レビュー等では触れないで欲しい」としていた。映画『怪物』は三幕構成であり、それぞれの幕によって主軸となる存在が入れ替わっていく仕組みになっている。「触れないで欲しい」と公式が言っている幕に登場人物のクィア性の開示が存在するため、その言葉はそのまま「クィア性には触れるな」という意味を示してしまっている。
クィア性に触れるなというのはどういうことか。つまり、クィア性が明かされることを「ネタバレ」にしてしまっているということになる。これに対し「誤解である」という投稿がSNSにおいていくつも見られたが、それならば我々はかの作品が「クィア・パルム賞」を獲るまで、クィアが登場する映画だと思っていただろうか? 予告にはそんな描写が含まれていただろうか? 映画公開前に各所で書かれていたレビューを見てもクィア性に触れたものはほとんどない。あの映画を見てそれらに「触れない」ようにするのは極めて難しいのにもかかわらず、だ。それらを「伏せて」しまうとき、作り手の“意図にかかわらず”結果的にクィアは「ネタバレ」として扱われてしまっている。
これに対して、【ノーカット】カンヌ脚本賞の坂元裕二さんが記者会見で是枝監督が「一部で何か子どもたちが抱えた葛藤をネタバレだから言わないでくれと言っているというようなことがささやかれており、発言が飛び交っているようなことを耳にしているんですけれども、見た方の感想でなるべく先入観なく見た方がいいっていうのは間違いないと思うんですね。そういう感想をいくつも目にしましたけども、決してその彼らが抱えた葛藤をネタとして扱ったつもりはありません」と答えていた。であれば、カンヌでの「日本ではLGBTQ(など性的少数者)を扱った映画は少ないのでは」という質問に対し、「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」という発言は明確にダメだったと思う。「先入観無く見た方がいい」という是枝監督の言葉の先に存在するのは、マジョリティだろう。是枝監督と坂元さんがマジョリティの方を向いて、マジョリティに対して「私たちは気付かねばならない」とメッセージを送り続けているのは分かる。しかしわたしたちクィア側は「クィア」という立場・感覚を捨て去ることは出来ない。先入観=触れた情報を受けて形成された“固定観念”ではなくて、わたしたちからするとそれは実存だからだ。実存は捨てられない。
クィア映画であると明言すると、クィア“でない”観客が「これは自分の物語ではないようだから、みなくていいか」となってしまったり、穿った見方をしたりするのではないかと“危惧”しているのだろう。何かのラベルを「際立たせる」ことで、そのラベルに近しい者「以外」を振り落とすのではないかという不安。けれどその前提には、そもそも既に振り落とされているクィアの存在がない。
クィアがそこにいるのであれば、クィアに対して徹頭徹尾誠実に向き合い「これはクィア映画だ」と言わねばならないのだ。これはただ単に“感情”の話ではない。
※やや脱線するが「単に」感情の話ではないというのは、感情「のみ」の話でないというだけで、当然感情の話であるし、あっていい。怒れる当事者はしばしば「冷静」であることや「理知的で」「礼儀正しく」話すことを求められるが、感情をそぎ落とす必要性は全くない。わたしたちは感情があり、わたしたちの「思考」とは基本的に感情と完全に切り離すことなど不可能だからだ。感情と理屈の混濁の上で言葉を吐露すること、そのものに意味がある。
クィアは常に埋没させられ周縁化されマジョリティの物語に改修・回収され続けてきた。クィア映画と名指せというのは「(クィアを)特別扱いしろ」という意味ではない。クィア側に立ち、彼人らの実存を侵すなということだ。“LGBTQに特化した作品ではなく”という言葉はクィアを消す言葉だと自覚的にならなければならない。“LGBTQに特化した作品ではなく”と言って「しまう」とき、実存するクィアは埋没させられる。それは「悪意」とは関係なく起こってしまう。埋没化し「LGBTQ」という言葉を打ち消すということはクィアが透明化されるということ。透明化とはつまり、死のことである。
名指すことの意味――目的は表出化でしかない。「名指す」「銘打つ」ということは「透明化させない」、つまり「殺させない」という抵抗なのだ。
※そもそも「クィア」って何? という方のためにLGBTQ+ Wiki)と、anarchist nekoが書いた『LGBTQ+ってなに?に対するわたしなりの文章』を貼る。分からない言葉があれば検索してみて欲しい。携帯電話では見づらいので、PC推奨。
わたしがここまで言うのは理由がある。わたし自身、無自覚にクィアを透明化する発言をしてしまった経験があるからだ。以前、わたしは映画雑誌「映画芸術」の座談会において「『クィア映画』や『ゲイ映画』と銘打たないで『恋愛映画』としてくくってもいいんじゃないか」という非常に乱暴な差別発言をしてしまった過去がある。この発言は、わたし自身に性別の感覚が極めて薄いこと、そしてすべての存在が恋愛対象になり得るパンロマンティックであるために、性別を「殊更」取りあげる必要性を感じないから、というのも理由にあったが、まずなにより、今までクィアがいかにこういった言葉で存在を透明化させられてきたか、そして彼人らを埋没化させる暴力に対し「銘打つ」ことで表出化させ、いかに当事者やアライが抵抗してきたかという、抵抗の歴史へのリスペクトに著しく欠けていたからだった。わたしはこの発言をした座談会の後、それに気がついて、原稿の段階で自分の発言を落とした。が、言ってしまったことは消えない。故に、次の座談会で、全員の前で当時の発言を反省し謝罪すると共に、その時の言葉を同雑誌の書面上に残した。このときのことは、同座談会の参加者のお一人である児玉さんが『文藝 2023年春季号』の「クィア映画批評と〈わたし〉を巡るごく個人的な断想」にも書いてくださっている。
※児玉さんの「クィア映画批評と〈わたし〉を巡るごく個人的な断想」では、まさに“カテゴライズ”することがいかに表象において重要かが丁寧に語られている。多くのクィア作品の「クィア性」が批評や広報において避けられ続けており、それが「何故」問題なのかというところまで書かれている。ぜひ読んで貰いたい。わたしが語るまでもなく、児玉さんはずっと前からそれらを指摘され続けている。
現代社会において多くの「(普遍的な)恋愛」が「異性愛」を指す以上、レズビアン映画やゲイ映画を“わざわざ”名指さず「恋愛映画」と括ってしまうとき、映画に描かれたクィアの「クィア性」は打ち消され、マジョリティ(=異性愛)の都合の良い形に回収されてしまう。つまり「ラベルの奪略」が起こるのだ。ラベルを奪うというのは、「ラベル(=自分たちの属性を補足する“言葉”)」に出会えたかもしれない実存するクィアの未来を奪うことであり、彼人らを透明化し周縁化する差別に加担するということである。そこに悪意の有無は関係ない。わたしは無自覚に差別してしまっていたのだ。
名指すこと、銘打つことは埋没“させられて”いる、あるいは埋没“させられてしまった”人々を浮き彫りにするだけでなく、彼人らが奪われてきた居場所を奪還する運動なのだ。異性愛・家父長制・優生思想・男女二元論等、あらゆる不要な社会規範へのカウンターとして成立し得る。
わたしたちはわたしたちをあらわす、あらゆる言葉を探し出し、時には自分たちでそれらを塗り替え、アップデートし、適切に形を変えて、また壊し、作り上げ、再び見つけ出さなくてはならないのだと思う。無限の広がりの中から適切な言葉を拾い上げ続けなければならない。その広がりを阻み、奪うもの、透明化するものには徹底的に抵抗する必要がある。そしてなにより、わたしたちはわたしたちが奪ってきた言葉を返さねばならない。奪われた言葉を取り戻すと同時に、奪った言葉を返さないといけないし、これ以上、奪ってはならない。
故に、「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた」という是枝監督の言葉をわたしは否定する。我々は、「これはマジョリティに特化した作品ではなく」と“わざわざ”言うだろうか? 「先入観を持たずに見て欲しい」というだろうか? 何故、LGBTQ+やクィアばかりが「LGBTQではなく普遍的な」「好きになった相手がたまたま男性だっただけ」「レズビアンではなく女と女の友情の……」などとラベルを奪われ続けなければならないのだろう。
映画『怪物』はクィアな子どもたちを取り巻く大人たちの無自覚な有害性を徹底的に描いている。だからこそ「これはLGBTQに特化した作品ではなく」という“打ち消し”そのものがまさに本作に描かれている傲慢で無関心なマジョリティのスタンスそのものになってしまっていないかという「問い」は避けられない。是枝監督や坂元さんが言うように、この映画がひとりの孤独な人のための物語なのであれば「孤独な人」側を向いて話して欲しかった。『怪物』はマジョリティが自身の有害性に「気付く」物語にはなっているかもしれないが、「孤独な人」の生存を肯定する物語だとはわたしには受け取れなかった。この映画がクィアの元に届いたとき、当事者が何を思うのか/何を感じるのかという想定が足りていなかったのではないかと思う。それは単に映画の内容以前の宣伝の在り方や監督らの発言の問題だけでなく、映画の中身そのものにも言える。
本作ではクィア当事者が受けるであろう/受けていたであろう/(或いは現在進行形で)受けているであろう、加害がふんだんに含まれるが、それらに対する適切なケアは描かれていない。疲弊し、生存が脅かされたクィアな子どもたちがその苦しみから、自分自身を「怪物」だと言ってしまう辛さ。この描き方は非常に丁寧だったと思う。記者会見で坂元さんは「自分が被害者だと思うことにはとても敏感ですが、自分は加害者だと気付くことはとても難しい」と語っていた。監督は「その名付けようのない、自分の中に芽生えた得体の知れないもの、あの子たちにとっては。それを彼らは『怪物』と名付けてしまう、もしくは周りの抑圧によってそう呼ばされてしまう。そのことを描きたい」「孤独な状況に追いやってしまっている私たちっていうものを要するに彼らから見れば私たちの方が怪物であるっていうこの、私たちが彼らに見返されるというスタンスをどういう風に映画の中に描いていくかということまでやるべきだ」と言っていたが、それに関しては成功している。登場している「加害者」たちは自らの有害性に気付き、映画はまさに彼人らが無自覚に行っている「暴力」こそ形のない化け物――怪物だろうと批判している。その「怪物」がどれだけクィアな子どもたちを追い込み、心をばらばらにし、生存を脅かすかという危険性を描いている。これは「わかりあえない存在同士が、それでも繋がるにはどうすればいいのか」「優しく在るためにはどうすればいいのか」をそれぞれの形でずっと模索してきた是枝・坂元両者だからこそ描けたのだとも思う。
だがそうしてクィアな子どもたちの切実な痛みを描きながらも、本作に存在する大人たちは彼人らの痛みに「気付く」ところで終わってしまっているのだ。「怪物なのはどちらなのか」と「見返す」是枝監督・脚本の坂元さんの「問い」は成功していながらも、「問う」ているだけに終わってしまっているとわたしは思う。
あえていうのであれば、わたしは「怪物」が「誰なのか」に興味がない。怪物だーれだ、の「答え」ではなくてその先、差別により命を脅かされているクィアのために――もっと言うのであればクィアな「子どもたち」のために加害者は何が出来るかというのが見たい。しでかしてしまった「加害」にどう向き合い、反省し、どうやって彼人らを「守る」のかが見たい。そのひとつのアンサーを描いてこそ『怪物』という作品は「たった一人の孤独な(クィアな)人のための物語」として成立するんじゃないだろうか?
ラスト、「生まれ変わったら何になる?」という問いを互いに交わし続け、自分でない別の者になりたいという欲求を抱き・願わなくては生きていけなかった子どもふたりが列車から抜け出して「生まれ変わりなんてないと思う」と言って笑い合い、走り出す。流れる景色と坂本龍一の音楽。あの「美しい」すべてを、ハッピーエンドだとわたしは思えない。あんな美しさでは終われない。終わってはいけないと思う。ふたりのクィアから、美しく幸せな未来——「現在」を奪い取っているのはわたしたちだからだ。生まれ変わらなくても彼人らが生きていける「道」を切り開き、整備するのはマジョリティの仕事だ。彼人らが自身の力で走らねばならないのだろうか。ここまで頑張って必死に生きてきたふたりに、まだ頑張らせなければならないのだろうか? 美しい音楽が流れ、光に導かれて、風がふたりを包み込む。そうじゃない、と思う。彼人らを傷つけた者はなにもしていない。なにも。この爽快さと美しさに、飲み込まれてはならない。だって、何も解決していない。誰もまだ「償って」いないだろう。引用し合える属性同士が、ふたりでいるときだけは心から微笑める。明日に向かって走って行ける。それじゃダメでしょう。
守られるべき子どもたちが、自らの力で強くなり進むのではなくて、守る側が変わらないといけない。強くならなくていい。たくましくならなくていい。弱いままで構わない。その状態でも肯定される権利がある。守られる権利があるのだと、わたしは言いたい。
この「ラスト」は、クィアな子どもたちに何を“返せるか”は皆さん(マジョリティ)が考えてください、というエンディングなのかもしれない。だとしたら、このエンディングは制作陣を「見返す」だろうと思う。問うということは問われるということだ。制作陣こそもっと彼人らのために何が出来るかを考え、描ききらねばならなかったのではないか? と。
生まれ変わらなくともあなたには幸せになる権利があるのだと伝えるために「生まれ変わりなんてない」と言わせたんじゃないのか。彼人らは幸せにならねばならないと、強い願いと祈りと約束を込めて、校長に教室で“あのセリフ”を言わせたんじゃないのか。だったら、この美しく爽やかなエンディングでは終われないだろう。見苦しくてばつの悪い、不格好な加害者たちが、傷つけてしまった被害者に対して「どうしていくのか/していかねばならないか」までを描かねば、受けた傷の割に合わない。
それから「LGBTQの子供たちの支援をしている団体の方にホンを読んでいただいたり、演出上どういうふうな注意点があるかってことをお伺いしながら、描写については現場にインティマシーコーディネーターの方にも入っていただいた」「あの年齢(11歳)の子たちが、例えば自分がゲイであるとかトランスジェンダーであるという自認、もしくは他認をするということはまだ早い段階なので、『そういう特定の描写をむしろ避けた方がいいのではないか』というアドバイスをいただいて、極力というか、そういう描写を脚本から少しカットした」と記者会見で述べていたが、わたしはそもそも「11歳の子には自認とか他認とかまだ早い段階」とはおもわない。11歳の子であっても違和があればそれは違和にほかならない。「一時の気の迷い」であるかのような「まだ早い段階」という当事者団体からのチェックバックは果たして正当なんだろうか。そしてそのチェックバックをそのまま受け取って「ゲイ」や「トランスジェンダー」という明言を避けた判断が、この物語を良い方向に導いたとは言いがたい。むしろこれらの言葉を削除し、“そう感じられる”程度に留めたことで今度はクィアベイティング(注:クィアらしく見える表象やクィアの可能性がある表象を、意図的にマーケティングに用いる手法)になりかねない危険性が上がったとさえ思う。
もちろん“自認”――「ジェンダーアイデンティティ」が流動しやすい、揺れ動きやすいということは“その子によっては”あるかもしれない。ジェンダーアイデンティティが存在しないAジェンダーも居るし、「人間」の括りにとどまらないゼノジェンダーのような者も存在するのだから。だが――否、「だからこそ」、その子自身が今違和を抱えているならそれは「違和」に他ならないし、自認に早い・遅いなど、誰が判じられるのだろう? その子が「そう」だと思ったとき、それは誰に何を言われようが阻害されない・されてはならない唯一の正しさとして存在する。加えて、もし流動したとして、流動する・変化することは何も「おかしく」ないし、定まることが「正解」でもない。揺れ動き、流動し、わからなくなり、変わるのは“すべて”悪いことでも何でもない。揺れているから「偽」ではないし、不動であるから「真」という話でもないのだ。なくてもいい。変わってもいい、人の枠にとどまらなくてもいい。それが「ジェンダー・アイデンティティ」だ。
ここまで徹底的に映画『怪物』を批判し続けてきたけれど、この映画に感動した者や、見て良かったと思う者の気持ちを軽んじたり、感想を封じるつもりは毛頭ない。何を思い・感じ・好き、或いは嫌いだと論ずるのかは観客の自由である。それこそ監督・脚本、そして制作陣が希求していたように、『怪物』を見て自身の中の有害性に気づけた観客もいるだろうと思う。わたしはクィア、そしてアライとして「立ち返る」ことが出来る者を応援したいし、自分自身も立ち返り続けなければならないと日々思っている。
ただ、この映画がクィアな子どもたち――そして当事者性を強くもつ者へのケアの観点に欠けているのを見過ごせないというだけだ。本編のエンディングが描く無責任な「ハッピーエンド」も賞賛できない。クィアを描くのであれば、まずクィアの実存と向き合って欲しい。かの『燃ゆる女の肖像』に与えられた“クィア・パルム賞”を受け取るなら尚更、何が描かれるのか、何が映し出されるのか、それ以前に「何を表出化させ、守るのか」ということと徹底的に向き合って欲しい。
“かわいそうだから”守るのではない。“守られていない”実情があるから守るのである。それがクィアな子どもたちの実存に対する、わたしたちの責務ではないだろうか。
わたしたちは誰も、あの映画の大人たちが留まっている加害者の立場で、彼人らに背を向けてはならないのだ。
坪井里緒
季節外れのピーチティーが何故か近所のセブンイレブンだけで売ってるので、毎日飲んでいます。近日ラジオ連載『映画おしゃべり会』のほうも公開されるので、聞いて貰えたら嬉しいです。そこではもう少し『怪物』の具体的な表象に触れていますが、話を始める前に警告を入れています。それまでは『ユンヒへ』そして『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』の話を楽しくしています。良かったら聞いて下さい。
メール:hanagori.f@gmail.com
リンク集:https://lit.link/icepack
最後に。親愛なるクィアのみんなたちへ。
“クィアは存在しているだけで、クィアを追い込む構造への抵抗になっている。あなたが今居る場所が現場で、あなたが今息をしていることが、腐った構造への強固な抵抗。あなたの実存はすべてのクィアの力になり、生存への連帯になる。あなたは無学でも、無力でもない”
傷つけられていい存在でも、否定されていい存在でもない。あなたは守られる権利がある。
わたしは、あなたに、生きていて欲しい。