「こども読書ちょきん」(以下「ちょきん」)なるものを運用している。端的に一言で説明すると、「月に1回1冊、この「ちょきん」を使って本を買える」というものだ。結果としてどうなるかというと、これを使った子どもは自分がほしいと思った本を1冊無料で持って帰れる、ということだ。
これは慈善活動ではない。大事なことだから先に言っておくし、もう一度言っておく。これは慈善活動ではない。ではなんなのか、とあらためて訊かれるとよくわからない。よくわからないので、こうして文章として書いてみることにした。
まず、仕組みをもう少し詳しく説明しておこう。上述のとおり、お店に来た子どもは月に1回1冊まで無料で本がもらえる。どの本でもいい。後述もするが、使いこなしはじめた子どもは「客注」も活用している。ただし、子どもだけで来たときのみに使える。大人と一緒に来店したときは使えない。「月に1回1冊まで」のルールをちゃんと運用するために、スタンプカードも用意している(これがなければ利用状況を把握できる自信がない)。12ヶ月分の枠があり、使うごとにマークをつけている。すべて溜まったからといってなにか特典があるわけではないのだが。
では、お金はどのように捻出しているのか。公式には「お店の売上1点ごとに10円」をちょきんに充当していることになっている。そのほか、お客さんがお釣りを入れてくれたり財布の小銭を整理するために「ちょきん」の箱に入れてくれることもあり、これを「勝手ちょきん」と呼んでいる。しかしこれはあくまでも「公式には」であって、実際の運用は違っている。
結論から述べると、毎月お金が足りなくなっているのでレジからお金を足している。2025年5月現在、月平均10名〜15名がちょきんを利用しており、金額にすると平均2万円ほどが使われている。売上1点につき10円の公式設定で充当するならば、月に2000点売れていなければならない。仮に1万円ほど「勝手ちょきん」があったとしても、1000点は必要になる。そんなに繁盛していたらいまごろ私はドバイにいて、金を湯水のように使うこと以外なにもすることがなくて健康を害しているだろう。瞳のなかに¥や$のマークがあらわれ、眉毛もそれらの形に変わってしまうに違いない。最終的には腸までもがその形に捩れ、命を落とす。
だから助けてほしい=お金が必要だ=寄付してほしい/本を買ってほしい、というわけではない。何度でも言うがこれは慈善活動ではないし、「子どもが本を無料で買えるシステムを身銭を切って運用している」ということしか伝わらない、ここまでの情報だけを得て動いてしまう心や身体であれば、むしろ必要はない。私が捻れているのは腸だけではないようだ。
ではなにがほしいのか。この状況をおもしろがってくれる仲間であり、こんなシステムが必要ではなくなる社会を目指して抵抗してくれる仲間であると、とりあえず言っておこう。これから書くことをすべて読んだあとで、おもしろい/自分もやりたいと感じてもらえたのなら、それが可能な状況にあるときだけでよいから、つまり「たのしい」と思えるやり方や関わり方で、このプロジェクトに参与してほしい。
ちょきんシステムのもたらすもの①=本を自分で選ぶ
あらためて、この仕組みの目的を考えてみよう。しかし目的を考えてみると思考が止まる。なにも書き出せない。ゆえに「いまなにが起きているか」を書いてみることにする。ちょきんシステムを運用して5年近くが経ち、やっと(お金が足りなくなるほどに)機能しはじめている感覚がある。そのような日々のありようを具体的に説明=描写するほうが、目的(のようなもの)も見えてくる気がする。
ちょきんは子どもだけで来たときに使える。言い方を変えれば、大人は私以外関与しない、ということだ。どの本を買うか、どのように本をレジに持っていくか、そして会計の際の振る舞い、それらすべてが子ども本人の意思のもとにおこなわれる。もっと言うならば、本屋へ行く(行かない)という判断を下す時点から子ども本人の自主性に任されることになる。ひとりで行くのか誰かと行くのか、いつ行くのか。あらゆることを自分で考えて自分で決めることになる。
そうして選ばれた本は、当然の結果として「自分で選んだ本」となる。文字にすると当たり前のことにしか思えないが、実際に生じている事象やそこに内在するものはもっと重層的だ。体験としての重みが違う、と言うと簡潔に過ぎるかもしれないほど、その体験には意味がある。大人といっしょに本を買う≒買ってもらう、という体験とは明確に異なったものとなるからだ。子どもは大人の視線や思惑を意識している。どれだけ「好きに選んでいいよ」と伝えたところで、どの本を買うのがよいかという判断基準のなかに、「大人」は確実に入りこむ。そして実際に、どうしても大人は子どもが選んだ本に対してなんらかの意見を差し挟んでしまう。「それはまだ早いのでは」「子どもには難しいけど大丈夫?」といった善意ではあるものの否定的な意見はもちろんのこと、「いい本だね」「それは自分も読んだことある」といった肯定的な意見であっても、子どもはそれを「大人の意見」として受け入れ、自らの行動基準にしていく。「こういう本を選ぶとよろこばれる/反対される」という経験がどうしたって積み重なっていく。それが必ずしも悪いことかといえばそんなことはないと思うが、個人的には可能なかぎり避けたいものではある。
絵本や児童書のコーナーにだけ足を運んでいた子が、いつのまにか店内をくまなく歩きまわっている。大人でも難しいかもしれない本を持ってくる子もいる。その子の持つ琴線のどこに触れたのかはわからないが、なにかしらの理由があるということだ。ジャケ買い的なことかもしれないし、勘違いで買っている可能性もある。結果としてその本を楽しめたかどうか、理解できたかどうかはどうでもよい。数ページ読んで諦めて、本棚の奥に放置されて忘れられているかもしれない。それでもいい。自分で選んで手に入れた本は記憶に残りやすい。いつかその本は思い出され、再び本棚から引っ張り出され、そのときようやく意味を持つものになるかもしれない(し、ならなくてもよい)。少なくとも私には、そのような本があった(そうならなかった本もたくさんある)。
複数人でやってきて、はじめはわいわいとおしゃべりしながら本棚を見ていた子どもたちが、いつしかひとりひとり無言でじっくりと棚と向き合っていることもある。明らかに「本屋慣れ」している者、もしくは「本好き」の振る舞いである。しかしそう思っているのは本屋だけで、子ども自身はそんなことは意識していないだろうし、本が好きなわけではない子もいるだろう。毎月必ずやってくる子が「本好き」かというと、きっとそうでもない。「なんかようわからんがタダで本がもらえるらしい」という情報だけでやってきている子もいる。もしかしたら1ページも読まれないまま本棚に、いや公園に置き忘れられている可能性すらある。それでよい、と本気で思っている。むしろそのほうがおもしろいじゃないか、とも思う。思いもよらない可能性が、そこには内在している。
ちょきんシステムのもたらすもの②=未知との遭遇
選書に大人が関与せず、選ばれた本に対する意見も言わない、ということがもたらす効果はほかにもある。本屋に行って本を買うというプロセスに大人が関与しないということは、子どもがどんな本を買ったのか大人(特に親)が知らない可能性が高い、ということだ。現時点で、親が「なんかうちの子が本をもらっているみたいで……」というような挨拶をしにきた例はひとりしかいない。つまり、もちろん全員ではないだろうが、子どもたちは「ちょきん」のことを親に言っていないのだろう(仮に言ったとしても親が理解していないこともあるだろう。たとえば「借りる」仕組みだと思っている、など)。
たとえば、セクシャルマイノリティがテーマになっている本を買っていく子がいる。本人が自分のアイデンティティを理解しているのか、あるいはなんらかの「かもしれない」を感じとっているのか、はたまたなにも知らずに手にとったのか、それはわからない。理由を聞くこともしない。しかし、その本を読んで得た知識や経験は、確実に本人の血肉となる。自らが当事者であった場合、そのことに負い目を感じる必要など一切ないことを知るかもしれないし、自身が当事者であったことを知るきっかけになるかもしれない。あるいは、友だちがそうである(かもしれない)ことに思い至るかもしれない。そういった気づきのプロセスは、もっとも身近な他者である親の存在が最大最悪の障壁になることも往々にしてある。知識や経験が大人/親を介在しなければ得られない環境は、時として子どもを追い込むことになる。かれらがどのようなアイデンティティを持っているかはどうでもよい。大事なことは、大人/親(あるいは教師)が介在しない環境が子どもには必要であるということだ(だから大人である私は「大人っぽくない」存在として認識されるように努めなくてはならない)。
ちょきんシステムのもたらすもの③=家庭環境による格差を低減する
何度もちょきんを使うようになると、自然と私となかよしになってくる。この人には気軽に話しかけてもいい、と認識するのだろう。先述したが、在庫していない本を注文するようにもなる。あるいは、本などそっちのけで店内で遊んでいる。店内BGMを流しているHomePod miniに対していろいろな曲をリクエストし、条件設定が甘くて絞りきれず見当違いな曲を流され怒っていたりする(が、少しずつ仕組みを理解し指示出しがうまくなっていく様子も見られる)。本を買う用事がなければ本屋に来てはいけないわけではない、ということをかれらは知っている。
そのような環境のなかで交流をしていると、世間話をすることが増えていく。学校で起きたこと、これからの行事、親とのこと……とにかく好き勝手喋って楽しんでいる。そのなかで少しずつ、かれらの置かれている環境=状況がどのようなものなのかもぼんやりと見えてくる、見えてきてしまう。親や教師には言えないであろうことを話している場合もある。デリケートな話なので具体的なことは書かないが、もしかしたら公的な機関に相談したほうがいいかもしれないと思うこともある(どこまで踏み込むべきか、どのように深入りすべきか、は常に悩んでいるし課題でもある)。
これもまた憶測に過ぎないし断定すべきことでもないが、ちょきんを定期的に使いにくる子どもは「親との関係性」になんらかの難しさを抱えている可能性が(仮に比較したとすれば)高いだろう。精神的な距離なのか経済的な問題なのか、とにかくなんらかの理由によって「親に本を買ってもらうこと」ができない/しにくい状況にあるのだろう。もちろん、それもできるけど「ちょきん」も使ってる、という者もいるだろう。それはまったく構わない。親とはイトーヨーカドーのくまざわに、ひとりであるいは友だちとはlighthouse(というか得体の知れない謎のお店)に、という使い分けをしているのなら最高である。
とにかく、ちょきんを使って本を買う=タダでもらうということが、唯一とりうる選択肢となっている可能性があるということは、常に意識させられる。中・高・大学の受験に使うような参考書を頼む者もいる(「ちょきん」は18歳まで使える)。その「客注」から(私が勝手に)推測してしまう生育環境は、基本的には「よし」とされるものではない。もちろんそのような推測をすることが常に「正しい姿勢」だとは思っていないし(これは慈善活動ではない)、推測そのものが間違っている場合もある。むしろそうであってほしい。
ただ、最悪の場合(とは言わずともよろしくはない環境にあること)を想定する必要はあるし、実際にそのような状態にある者が現状の社会に存在している以上、ちょきんシステムはセーフティネットもしくは抵抗の手段として活用されるべきである。本を読むこと、そこからなんらかの知識や経験、考え方を獲得していくことは、あらゆるすべての子どもに対して付与されている権利である。その権利の保障を政治ができない、しようとしていないのであれば、そのような政府を打倒するためにも、知識・経験・考え方……etcをあらゆるすべての子どもが得られる環境をひとつでも多く整備していくことが必要になる。当然、子どもに対してそれがなされているのであれば、大人に対しても同様に効果は発揮されるだろう。
独裁を望む権力機構は「知識・経済・心身の貧困」を意図的に作り出すし、この3つの貧困はそれぞれが密接に繋がっているため、どれかひとつでも貧困状態になると別の貧困をももたらすことになる。そしてこの“地獄”から安易に逃れる手段として我々は「攻撃すべき他者」を求めるし、その対象はやはり独裁を望む政治権力が意図的に作り出し、憎悪を向けるように(時に明示的に、時に暗示的に)我々に指示する。残念ながらこのような状況はここ数年で世界的に生じており、だからこそ次世代を担う者らがこの“地獄”に落とされないようにしなくてはならない(社会をどうにかする役目と責任を次世代に担わせてしまうことになるのはよろしくないが、そうせざるを得ない面も多分にある)。本筋からは外れるが、この貧困と憎悪による権力維持システムについてはジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読むとよくわかる。ハヤカワepi文庫版が個人的にはおすすめなので、ぜひ読んでほしい。
子どもたちが自分で本を選んでいる様子、特にこちらが思いもよらない本を持ってくるのを目のあたりにするのはシンプルにおもしろいし、本屋であることなどお構いなしに嵐のようにやってきては去っていく場所になっているのもおもしろい。小学生の複雑な恋愛模様をわけもわからないまま聞かされ続けるのもおもしろい(たいしたアドバイスなどできないので「大人もそんなもんだよ」と無責任なことを言ったりしている)。本をもらえるお礼なのか、毎回律儀に10円ガムを買ってくれる子もいるし、当たりを求めて大量に買っていく子もいる。
そのような日々を送っていると、いつしか「ちょきん用のお金が足りなくなったからレジから出す」という荒唐無稽な振る舞いが、おもしろおかしくなってくる。何度でも言うが、これは慈善活動ではない。だからこそおもしろおかしくやれているのだろう。どこか慈善の感覚があった頃は、ちょきんが使われることにすら居心地の悪さを感じることもあった。特に売上が振るわない日、もしくは日々が続いているときはそうだった。いまはもう、売上よりも「ちょきん」利用額のほうが多い日があると楽しくなってくる(これを書いている2025年5月15日がまさにそうで、ついでに「レジからお金を足す」も達成している。まだ5月も半分なのに……)。
アナキズムは「自発」であるとどこかで読んだ記憶がある。おそらく「ちょきん」は私にとって自発による行為であり、そうであるからこそ続けていけるものなのだろう。やはりこれは「慈善活動」ではない。おもしろがるの実践であり、支配への抵抗の一種でもある。
そして、もしかしたらこの文章をどこかで読んでいる「ちょきん」利用者もいるだろう。なんも気にせず、これまでどおりにお店に来てくれればそれでいい。できれば「読んだよ」とかは言わずにお願いします。恥ずかしいからね。