最近なにかが物足りない。どうやら2ヶ月ほどかけてじっくり読んでいたメルヴィルの『白鯨』を読み終えてしまったのが理由のようで、エイハブ船長とともに鯨を追っていた日々が懐かしい。しかし岩波文庫・上中下巻(あわせて1500ページほど)のうち、実際に鯨を追跡する描写に割かれているのは1割にも満たないかもしれない。鯨の生態学、捕鯨船の仕組み、捕鯨船内での習慣などについて、語り手イシュメイルは延々と語り続ける。その間に時折、さまざまな鯨とのエンカウントが挟まれる。だからほとんどエイハブ船長は出てこない。なんなら最後もあっけなく退場する。もっと壮絶な最期だと思っていたのに。
エリーが学校の課題として提出したらしいエッセイで、『白鯨』はこのように評価されている。
And I felt saddest of all when I read the boring chapters that were only descriptions of whales, because I knew that the author was just trying to save us from his own sad story, just for a little while.
(鯨の描写ばかりが続く退屈な章を読んでいると、とても悲しかった。語り手はその悲しい結末に私たち読者が辿りついてしまうのを、ほんの少しでも遅らせようとしているように思えたからだ)
なお、英語原文はパンフレットに記載のもの、訳文は私によるものである。なぜなら映画の字幕は「残すならそっちじゃないでしょう」というほうが残されてしまっていて、非常にもったいないことになっているので。このあたりはまたのちほど。
エリーのこの批評を読んでからだと、『白鯨』に対するイメージも大きく変わるのではないだろうか。そして『白鯨』を読んでから、映画『ザ・ホエール』を観ることでも同様に、その印象は違ったものになるに違いない。少なくとも私はそうだった。ということで、ここのところずっと、私は鯨について考えている。
あらすじ:恋人アランを亡くしたショックから、現実逃避するように過食を繰り返してきたチャーリー(ブレンダン・フレイザー)は、大学のオンライン講座で生計を立てている40代の教師。歩行器なしでは移動もままならないチャーリーは頑なに入院を拒み、アランの妹で唯一の親友でもある看護師リズ(ホン・チャウ)に頼っている。そんなある日、病状の悪化で自らの余命が幾ばくもないことを悟ったチャーリーは、離婚して以来長らく音信不通だった17歳の娘エリー(セイディー・シンク)との関係を修復しようと決意する。ところが家にやってきたエリーは、学校生活と家庭で多くのトラブルを抱え、心が荒みきっていた……。(公式サイトより)
*この先、映画の詳細に踏み込んで触れます
①誰が/なにが我々を悪者にするのか
この映画に出てくる者らは皆、なんらかの罪を背負っている。チャーリーは子どもと妻を捨てたし、エリーは現在進行形で犯し続けている各種の非行があり、宣教師としてチャーリーの家にやってきたトーマスは家族や教会に対して大きな罪を犯している。リズもチャーリーの過食を、ひいては過食由来による死を許容することになる。チャーリーの元妻・メアリーはエリーの育児を放棄しているようにも思える。
しかしその罪/悪事がなぜ生じたのかを辿ってみると、当然、自己責任的な理由で片付けてはならない「構造」が見えてくる。かれらの罪/悪事はすべて連鎖しており、その大元はかれら自身ではなくかれらを取り巻く環境にある。
チャーリーがエリーを捨てねばならなかった(=離婚せねばならなかった)のは、チャーリーが同性愛者だからであり、異性愛規範が強く残る社会において「異性と結婚せねばならなかった」ことから辿りついた結末でもある。おそらくチャーリーは離婚のタイミングでメアリーに自身のセクシュアリティを開示している。その時点まで「隠さねばならなかった」ということだ。また、チャーリーの過食(=死に急ぐような振る舞い)はアランの死が原因であり、アランの死もまた、アランを取り巻く環境に要因がある。「問題」なのはチャーリー/アラン(のセクシュアリティ)ではない。
エリーの非行はチャーリーとメアリーに端を発するものだ。8歳で親が離婚する、しかもその時点までは「うまくいっていた」ように思えていたのだからなおさらかもしれない。くわえて離婚後には、各種協定があったためかチャーリーはエリーとの接触を制限されている。エリーからしたら「捨てられた」感が強く生じたに違いない。同時にメアリーも、チャーリーとの離婚関連でショックを受けている。映画終盤ではアルコール依存の気配も見せており、チャーリーとの会話の中でのエリーへの言及も含め、育児に関してはどうしたらいいかがわからなくなっているように思える。そうなるとSNSに過激な投稿を繰り返すエリーの振る舞いは、承認欲求のこじれを推測させる。いわゆる「両親からの愛」を感じることができずに思春期を過ごしてきたエリーが発することができる、唯一のSOSなのかもしれない。
キリスト教の一宗派であるニューライフの宣教師としてやってきたトーマスは、同性愛者であるチャーリーとは根本から相性が悪い。そして不運なことに、アランとリズはニューライフを信仰する家庭に生まれ、そこから脱出したという経緯がある。間接的あるいは直接的に、ニューライフとトーマスはアランの死に関与してしまっている。また、トーマスは教会の金を持ち逃げしており、教会のやり方では誰も救えないという理由から、ニューライフを離れるつもりでいた。トーマスの行動指針は常にキリスト教/ニューライフの教えにあり、それを常識や世界の真理として育てられ生きてきたトーマスにとって、チャーリーにその教えを説くことは良心からのものでしかない。ひとりでもいいから誰かを救いたいと強く願うトーマスの「良心」によって、チャーリーは傷つけられることになる。しかしそれはトーマスが悪いのだろうか。あるいは宗教が悪いのだろうか。カルトだなんだと言ってあらゆる悪を宗教に押し込めてしまうべきではない。少なくとも、私はそれをよしとしたくない。
罪/悪事の責任の所在をその行為主にのみに負わせたところで、それらが複雑に絡み合っている以上、なにも解決はしないのだろう。ゆえに誰かの贖罪によって「問題」がなくなるわけではないし、この物語をチャーリーの贖罪を描くものとして捉えることも、間違いではないかもしれないが、決して「十分」ではない。ここ(=物語内/現実世界)に罪を犯したことのない「穢れなき存在」はいないし、贖罪によって「帳消し」になるわけでもない。ではなぜこの物語はハッピーエンドなのか、少なくとも私はそう感じたのはなぜなのか、ということが重要になる。
②「正直になれ」が持つ意味
チャーリーは受け持っているライティングのオンライン授業で、常々「正直に書け」という旨のことを言っている。エリーの書いた『白鯨』に関するエッセイを大事にとっているのも、それが正直に書かれたものだからなのだろう。とにかくチャーリーにとって「正直であること」はポリシーのひとつであり、当然そこには自らの(セクシュアリティに関する)経験が影響を与えているはずだ。
異性愛規範が圧倒的に強く支配する社会において、同性愛者が正直であり続けるのは困難である。正直になれば異性愛規範を疑わない他者から攻撃され、嘘をつけば自分で自分を攻撃することになる。いずれにせよ正直ではいられない世界だ。そんな状況で自らが下したあらゆる選択を肯定するには、正直であることを誇りに思い、かつ他者にもそれを提案するほかに、手段がないのかもしれない。
あるいは、チャーリーが言う「正直になれ」は、自らを取り巻く環境によって罪/悪事をなすほかなくなってしまった者を肯定するためのものなのかもしれない。チャーリーが過食を繰り返し医療につながることを拒否するのも、エリーが非行に走り他者を傷つけ続けるのも、自らの状況に正直に従った結果であるとも考えられるからだ。あるいは、正直にならざるを得なかった、とも言えるかもしれない。正直であることが罪とイコール関係になってしまうこと(=異性愛規範が支配する社会で同性愛者であること)も、自らを守るためにとらざるを得なかった正直な行動が罪になってしまうということ(=自らを取り巻く環境によってなさざるを得なくなったあれこれ)も、どちらも行為主のみの責任ではない。そうであってはならないはずだ。ゆえに、チャーリーの「正直になれ」は大事な意味を持つ。
エリーの「正直な振る舞い」にも、もう一度光を当てたい。作中で描かれるそれは、たとえばA:非行関連、B:エッセイ、C:自らのセクシュアリティに分けられる。Aに関しては上述したとおりだが、Bに関して少々付け加えるならば、『白鯨』に関するエッセイもチャーリーに渡したノートへの殴り書き(「このアパートは臭い。こんなノートはバカ。みんな大嫌い」)も、いわゆる成績的なものを意識して書かれたものではないという意味で「正直」だと言えるだろう。『白鯨』エッセイに関しては確実なことは言えないが、すでにチャーリーから捨てられた後で非行に走っている状態にあり、かつ『白鯨』という面白いと思えるのは大人でも少ないであろう小説を読まされて書かされたエッセイなのだから、先生(=大人)に褒められることを書いてやろうなんて下心/向上心はなかったことが推測できる。こんなつまらないもの読ませやがって、である。しかし、エリーにはなにか感じるものがあったのかもしれない。後半になるにつれて筆が乗ってきている。にもかかわらず、このエッセイはどうやら書きかけで終わっているらしい。そのあたりも含めて、非常に「正直」だと思う。
そしてCだが、これはあくまでも推測でしかないものであり、慎重に扱うべきものであることは先に述べておきたい。エリーのSNSをチャーリーが見る場面で、エリーの投稿についたコメントで「このレズビアンが!」のような侮蔑の言葉があることが確認できる。ここから推測できることは、エリーが実際に同性愛者であるということと、あるいはそうではない(少なくとも断定できること/すべきことではない)にもかかわらず誹謗中傷を受けている、ということになる。親の離婚原因が「父親が同性愛者だったから」と知ったクラスメイトなりなんなりが、子どもであるエリーもそうであると勝手に断定して揶揄う可能性は容易に想像がついてしまう。あるいは、実際にエリーは同性愛者なのかもしれない。いずれにせよ、セクシュアリティは他者によって踏み込まれていいものではなく、自ら明かすかどうか決める権利も当人にしかない。ということをチャーリーは知っている。ゆえに、エリーに対してそのような問いかけはしないし、そういった観点からのエールも送らない。ただただシンプルに、正直であること/正直に書くことを推奨し、実際にそれがなされた場合には肯定する。大切なことだから何度でも書くが、ここで重要なのはエリーが同性愛者であるかどうかではない。エリーのセクシュアリティがどうであれ、チャーリーの「正直になれ」という言葉が意味を持つということが重要なのだ。それを理解してからであれば、この一連のシーンが示唆するあらゆる可能性に想いを馳せることができるし、馳せるべきなのだと思う。
③果たしてエリーはエイハブなのか
『白鯨』をモチーフにしている物語である以上、登場人物を重ねて捉えることはどうしてもしたくなってくるし、しなくてはならないことでもあると思う。当然、チャーリーは白鯨=モービィ・ディックそのものであるとする見方が多い。もちろん重ね合わせは1対1である必要はないのだけど、きっとそのような想定のもとで作られた物語なのは間違いないだろう。
しかしエリーはどうだろうか。おそらくエイハブと重ね合わされることが多いだろう。白鯨に対する憎悪からなる執着心。白鯨を殺すことが己の人生の唯一の目的であることを疑わない片足の人物。白鯨(=チャーリー)によって片足(=片親)にされてしまったことへの復讐心、というのは穿ちすぎだろうか。とにかくエリーはエイハブとして機能している。途中までは。
ここでエリーのエッセイ全文を確認しておきたい。例によって英語原文は映画パンフレットからの引用、訳文は英語嫌いの英文学専攻者である私によるものだ(エリーがこれを書いたのが8年生=14歳あたりでよかった……)。
In the amazing book Moby Dick by the author Herman Melville, the author recounts his story of being at sea.
(ハーマン・メルヴィルの手になる偉大な作品『白鯨』において、語り手は自らの航海の体験を語る)In the first part of his book, the author, calling himself Ishmael, is in a small sea-side town and he is sharing a bed with a man named Queequeg.
(冒頭、語り手は自らをイシュメイルと名乗り、海辺の小さな町でクイークェグと名乗る男と同じ布団で眠る)The author and Queequeg go to church and later set out on a ship captained by the pirate named Ahab, who is missing a leg, and very much wants to kill the whale which is named Moby Dick, and which is white.
(語り手とクイークェグは教会へ行き、その後エイハブ船長が指揮する船に乗り込む。エイハブは隻脚で、モービィ・ディックと名付けた白い鯨を殺すことに執着している)In the course of the book, the pirate Ahab encounters many hardships.
(この物語を通じて、エイハブは多くの困難に遭遇する)His entire life is set around trying to kill a certain whale.
(彼の人生はすべて、モービィ・ディックを殺すことに捧げられている)I think this is sad because this whale doesn’t have any emotions, and doesn’t know how bad Ahab wants to kill him.
(これは悲しいことだと思う。鯨には感情がないし、エイハブがどれだけ殺したがっているかも鯨にはわからないのだから)He’s just a poor big animal.
(鯨はただただ大きくて哀れな生きものだ)And I feel bad for Ahab as well, because he thinks that his life will be better if he can kill this whale, but in reality it won’t help him at all.
(エイハブのことも残念に思う。エイハブはモービィ・ディックを殺しさえすれば状況がよくなると思っているけど、実際にはそうはならないだろうから)I was very saddened by this book, and I felt many emotions for the characters.
(この物語を読んでとても悲しくなったし、登場人物たちにはさまざまな思いを抱いた)And I felt saddest of all when I read the boring chapters that were only descriptions of whales, because I knew that the author was just trying to save us from his own sad story, just for a little while.
(鯨の描写ばかりが続く退屈な章を読んでいると、とても悲しかった。語り手はその悲しい結末に私たち読者が辿りついてしまうのを、ほんの少しでも遅らせようとしているように思えたからだ)This book made me think about my own life, and then it made me feel glad for my…
(この物語は自分の人生を考えるきっかけになったし、それから……)
*ちなみに、映画の字幕およびパンフレットに記載の訳文は以下。「メルヴィルの見事な小説『白鯨』で語り手は海での体験を話す。本の最初でイシュメールと名乗り、海辺の小さな町でクイークェグと同宿してる。2人は教会へ行き船で旅立つ。船長は海賊で片足のエイハブ。ある鯨を殺したがっている。白い鯨だ。この本の中でエイハブは多くの苦難にあう。人生のすべてはその鯨を殺すこと。悲しいと思う。なぜなら鯨には感情などないのだ。ただ大きく哀れな生き物だ。エイハブは鯨を殺せば人生がよくなると信じている。だが、そうならない。私は登場人物たちに複雑な思いを抱いた。鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りする。少しだけこの本は私の人生を考えさせ、よかったと思う…」文字数やコマの時間制限があるから仕方ないとはいえ、特にラスト3行くらいは「なんでそっち残した?」となる訳文だと思う。少なくとも『白鯨』自体を読んでいたらこうはならなかった気がする……。後ほどあらためて言及するが、ラストの「it made me feel glad for my…」を無理して訳してしまったのが痛恨。ここは観客の解釈に委ねるべきだったと思う。日本語と英語の文法構造が違うからすごい難しいことなんだけども……。
仮に、エリーも我々同様にチャーリーを白鯨と重ね合わせて認識していたとしたならば、白鯨を憎み、殺しさえすれば自分の人生もよい方向に向かうのではないかと思っている(と認識している)エイハブに、自らを投影することも考えられるだろう。となると、どこかのタイミングで自分がチャーリーに向ける憎悪の無意味さに気づいた可能性が高い。しかし理屈がわかったからといって納得するわけではないし、振る舞い自体を変えることも難しい。ゆえに映画の最後の最後まで、エリーはチャーリーを苦しめ続ける。
しかしラストシーンで、エリーは泣きながら、ほんの少し笑うのだ。心臓発作が起き、死を悟ったチャーリーはエリーに『白鯨』エッセイの朗読を頼む。エリーは一度拒絶し立ち去ろうとドアを開けるが、なにかを感じ取ったのかそのまま振り返り、外の明るさをバックにして朗読を始める。朗読の最中、チャーリーは歩行補助器具を使わずにエリーのもとへ歩み寄る(これは数日前にエリーの「悪意」によって求められたことの再演でもある)。エリーも少し歩み寄り、ふたりははじめて至近距離で「対面」する(それまでエリーが意図的にチャーリーの後ろをとるようなことが続いていた)。エッセイを最後まで読み、チャーリーを見上げるその瞬間、エリーは微かだがたしかに笑っている。「for my…」に続く言葉がなんだったのか、あるいはこれからエリーが紡ぐであろうそれはなにになるのか。「feel glad」を「感謝」と訳すか「悪くないと思った」のように訳すのかでも変わってくるが、いずれにせよそこには自ら/他者への肯定がある。
そしてその瞬間、エリーはエイハブではなく語り手・イシュメイルとなる。エリーは自らが言うように「なんでも覚えている」のだ。語り手の素質として、これほどぴったりなものはない。白鯨との闘いのすえに海の藻屑と化した捕鯨船の中で唯一生存し、その物語の結末を「先送り」しながらも書き綴ったイシュメイル。チャーリーや自らを取り巻く環境との闘いを経て、エッセイの結びの単語を綴ることを「先送り」してきたエリーは、このときやっとその単語を見つけたのかもしれない。エッセイを書いた8年生のときから、それが自らを見捨てたはずのチャーリーの手に渡り、さらに人生の最後に読みたい/聴きたいエッセイとして最上級の評価がされることで、正直に書くこと/正直であることを数年越しに肯定されるのだ。その結びはきっと、正直なもの、エリーが心から紡ぎ出した言葉になっている/なっていくだろう。
そもそも、エリーははじめから正直な語り手だったのだ。鯨に関する退屈な描写ばかりが続くことを、語り手による知識のひけらかしではなく、読者が悲しい結末に辿りついてしまうことを先送りにしようとしている語り手の善意なのだと感じる、そのやさしさをチャーリーは見抜いていた。だからあとは、そのやさしさ/正直さを肯定してあげればいい。エリーが心から安心できるように。チャーリーの、あるいはこの世界のうちに存在しているはずの善意を信じられるように(もちろんこの数日の出来事だけで、これまで積み重なってしまったチャーリーおよび世界への不信感は拭いきれないだろう。しかしそれを少しずつでも塗り替えていく、そのわずかな糸口にはなったはずだ)。
そうしてはじめて、チャーリーの贖罪は達成される。とはいえエリーが生きていく世界がクソなものであることは変わらないため、その達成は不完全なものにしかならない。しかしそれでも、正直であること/正直な語り手になることが救いになる可能性を持っていることを、チャーリーはエリーに伝え遺していった。それは自らのセクシュアリティの肯定であり、クソな世界で我々が犯さざるを得なくなる罪/悪事への赦しであり、不完全なものになるしかないことがわかっていながらもせざるを得ない、我々の自分勝手な=正直な贖罪行為に対する希望である。
ということで、映画『ザ・ホエール』のブルーレイを入手したので半年ぶり2度目の鑑賞をし、そのために必死に読み飛ばしていた読んでいた『白鯨』もちゃんと意味があったのではないか、と思える感想文が書けました。なお、これから読むのはトム・マスティル『クジラと話す方法』(柏書房)です。『白鯨』でテキトーに読んでしまった鯨の生態学的なところをこれで補完します。ごめんねイシュメイル。