頭がいたい。おそらく身体の凝りからくる偏頭痛で、これまたおそらく花粉が主な原因だ。寝ている間もヤツはやってきて私を苦しめているので、寝不足だし身体も凝っている。しかし私はわざわざこれを書いている。書かねば生きていられないからだ。
というわけではない。私は別段書かずとも生きていられる。いわゆる生粋の作家ではないのだろう。そしてやるべき仕事は鼻腔内に侵入した花粉以上に溜まっている。主に『灯台より』関連のもので、文字起こしとか文字起こしとかである。あとゲラのチェックもある。これは編集目線のものと書き手目線のもの両方。あ、4月下旬に本が出ます。その最終「根つめ」大会がWBCよりも熱く開催されているのです。私の中で。
にもかかわらず書いているのは、その本の執筆を通して「書くことが生を引き寄せる/つなぎとめる」ということをあらためて考えたからである。ゆえに私は書かねばならないのだ。書かねば生きていられない、というより、書くことで私(とあなた)は生きていられる、という感じか。
今日3.11をキーポイントにした日記本『わたしは思い出す』は、書くこと(つまり後世に残すこと)の重要性を感じさせる本だと思う。厳密には「3.11前からつけていた約10年分の育児日記を再読して、そのとき感じたことを話したもの」を別の書き手がまとめたものなので、純粋な日記本ではない。しかしその重層性こそ、この本があらわす「書き残すことの持つ意味」を強めているような気がしている。
と書いてはいるものの、私はまだこの本を読めていない。1月に発売されてからずっと読みたいと思いながら今日を迎えてしまった。「読みたい」本は「読める」本ではない。常に「読まねばならない」本に先を越されてしまう。この「読まねばならない」も「読みたい」本であることに違いはないのだが、この日までに読まないといけない、的な制限および期限があるためそれが優先され、ということを積み重ねていくと「読みたい」本が積まれていき、おのずと積読率(=手元にある本の中で未読の本の割合)が95%を超え、それが物象化・実体化されたのが本屋なのである。この進化はBボタンでとめることはできない。
本というのはそれ自体が生存であり、ゆえに抵抗なのである。ということをつい最近発明した。たぶんこの特許はすでに多くの先人が申請・取得しているはずなのだが、独占権ではないので私も申請・取得した。大手出版社が実質絶版状態にしているにもかかわらず他社が新訳に手を出せない翻訳書とは違うのだ。そう、本はそれ自体が生存=抵抗なのである。ゆえに「書かれたもの」は必ずどこかの誰かの生を引き寄せる/つなぎとめる。どこの誰が書いたものかは問わない。書かれたものはすべて、この世界に影響を及ぼす。佐々木中は『切りとれ、あの祈る手を』のなかでこう書いている。
彼(=ニーチェ)はこういう意味のことを言っている。いつかこの世界に変革をもたらす人間がやって来るだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、ふと開いた本の一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行で、革命が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのだ。(206頁)
厳密にはこれは文献学者の役割についての文脈から発せられたものなのだが、文献=本なのだから言っていることは同じである。書かれ、残されたものには必ず意味がある。もちろんこの定義にヘイト本は含まれない。あれはそもそも本ではなく悪意、剥き出しの刃だからだ。
そして佐々木中はこうも言う。
「読んだことは曲げられない、ならば書き始めなくてはならないのです」(136頁)
ゆえに私は本を書いたし、そもそも本屋をやっている。そして本屋である前にひとりの人間として生き、それをなんらかの形で残そうとしている。いや、すでに残している。SNSの投稿だってひとつの生存であり、抵抗だ。ゆえに誰もがみな、すでに/常に生存と抵抗(の可能性)を積み重ねている。
だから私はこれからもいろいろなものを書きたい。とあらためて思ったのだが(まだ刊行されてないどころかゲラが手から離れていない、という事実は一旦忘れて)、執筆中に都度都度感じたのは、私がいかに物事を忘れていってしまうかということと、それゆえの「書きたいことの書けなさ」あるいは「覚えていれば書けたであろうことの多さ」からくるもどかしさだった。良質なアウトプットは良質なインプットから。しかしそのインプットが取り出しが容易な場所に保管されないのだから困ったものである。佐々木中の文章は「いつかなにかのエピグラフに使えるかも」と考えてメモしていたから残っているのだ。しかしそのことを忘れていたので、今回刊行される本には登場していない(ギリギリ参考文献的なところに入れることができた)。
そこで読書日記である。作家的な人の多くが(読書)日記をつけたりしている理由はこれか、といまさらながらにして気がついたのである。みんな天才だね。だから私も真似したいと思った。その日に読んだ本のなかで気になったことをメモする感じの日記をつけることで、読んだ本の内容も覚えていられるし、なんらかの機会に参照することも可能になる。そしてそれを公開することで自分以外の人の「変革」を促す可能性も生まれる。ということでこれから定期的に読書日記的なものを作成・公開していきます。たぶん「最新号は無料購読可能、過去号になったら有料購読者のみ」という形式でやると思います(これまでは本の草稿をコンテンツのひとつにしていたので、その新番組的な役割も担っています)。
おそらくこの読書日記で明らかになるのは、いかに私が本を読めていないか、である。積読率が95%を超えた者が本屋になる。そしてこの記事のような気合の入り方が続くとは思えない。期待をせずにお待ちください。しかしそんな程度のものでさえ、そこには生と革命の可能性があるのです。みんなももっと書いていこう。読んでしまったら、読めてしまったら、私たちは書かねばならない。ジョージ・オーウェルは「私はなぜ書くのか(原題:Why I Write)」というエッセイのなかで、彼自身の書く理由をこのように書いている。
という引用からの流れで最後を締めたかったが、肝心のその内容を覚えていないので締められない。私はなぜ書くのか。バッチリ決まる締めを書きたいからです。
花粉症って寝てる間もやってくるとは知らなかった。お家の中に杉植えてるとか?アレルゲンが夜も家の中にあったら、それゃあ逃げられないから大変ってか、そんなことありなんですか???ご愁傷様です。