五輪開始当初より、というか事態を把握した数年前からずっと、五輪開催に反対の立場を取ってきました。パラを残すとはいえ「本体」が終わったいま、あらためて反対の意と、その理由についてまとめておこうと思います。
この文章は、なぜ五輪を反対するのかわからないとか、なぜ選手を応援することも批判されてしまうのかわからないとか、そういう思いを抱いていた/いる人にこそ読んでもらいたいです。結論から(そして簡単に)述べると、「あなたのその善意(=応援)、すべて悪い人たちに利用されてしまうだけなので」ということです。その利用/搾取/回収の理屈をいまから説明していきます。
まず論点を整理します。
① そもそもこの五輪は「アスリートファースト」なんかじゃない
② ①はコロナがなくてもそうだった
③ 故に「選手を応援すること(五輪を楽しむこと)」が罪である、という本来なら生じないはずの矛盾もしくは歪みが生まれてしまった
④ ③のせいで本来なら生じないはずの分断が市民の間に生まれてしまった
⑤ ①〜④の状況を作った(放置した)のは政治であり、そこから利益を得る存在=政府やIOC/JOCや企業である
⑥ なぜ「アスリートファースト」ではない五輪が招致&開催されてしまったのか、という理由が⑤に繋がる
⑦ つまり選手のがんばりも市民の応援もすべて政治家や企業の利益に回収されてしまう
⑧ よって、私たちはこの五輪に反対すべきである
ということです。以下、具体的にいきます。
そもそも「アスリートファースト」ではない(①②)、ということは数々の「悪環境」からわかると思います。
・コロナ(言わずもがな)
→1年延期したのだからもっとやりようがあったはず。「五輪をやりたい」はずの政府が、その障壁となる原因の排除に必死に取り組んできた形跡がまるでない。本当に「安心・安全」な五輪にしたかったのなら(「コロナに打ち勝った証」とかも含めて)、十分な補償付きでの自粛要請をせめて開催直前から開催期間中だけでもすべきである。なぜそれをしないのか。やる気がないからである。
→念のため「なぜコロナ(の蔓延)がアスリートファーストではないのか」についても書いておく。そもそも死の可能性すらある感染症が蔓延しているなかで激しい運動をする「リスク」を選手に負わせている時点で失格である。さらにワクチンを打つのすら選手にとってはリスクとなる。ドーピング防止のために普通の風邪薬や栄養ドリンクすら飲まない(飲むとしても徹底した管理を要する)こともあるし、水1杯すら体調管理のために慎重に飲む/飲まないの判断をしている。それがアスリート。ワクチンを打つのもリスク、打たないのもリスク、そんな環境を放置していた運営側=政府や五輪委員会に責任がないわけがない。
・そもそも招致の時点で嘘をついている
→夏の東京はスポーツに適している、などと大嘘をこいて五輪を招致した政府や五輪委員が「アスリートファースト」を考えているわけがない。招致の時点(2012年くらい?)でもすでに日本の夏は「酷暑」だった。そして東京湾はずっと前から汚かった。さらに言えば原発は「アンダーコントロール」ではなかった、というかいまもまだそうではない(「東北」「復興」のことなんか一切考えてないことももうお分かりでしょう。なにが「復興五輪」だ)。「アスリートファースト」というのは「アスリートが一切の不安なくプレーに集中できること、そしてそのことによって新記録や自己ベストの達成を応援すること」だと考えているのですが、そうじゃない世界があるのなら教えてください。あ、JAPANのことでしたね。
→さらに言えばこの「アスリートファースト」は五輪に出場するすべての人に対して適用すべきもの、つまり公平に適用されるべきものなのですが、どうもこの五輪を招致した人たちはそう考えてはいないようです。コロナもそうだし、コロナ以外の日本の環境も含めて、外国人選手にとっては不利、というか危険な「プレー環境」を整備、というか放置しておいて、なにが「おもてなし」なんでしょうか。正直に「日本人ファースト」を表明してくれたほうがスッキリします(「相手チームにコロナ感染者が出ることは自分たちにとって有利」などと公言した「トップアスリート」もいましたね。種目「人権感覚皆無」圧巻の金メダルです、おめでとう)。
ということで、まったくもって「アスリートファースト」ではない五輪が開催されてしまったわけです。五輪って「スポーツ大会」ですよね?スポーツの大会なのに、スポーツする主体=選手が大事にされてないのって、どういうことなんでしょうか。さらに言い添えておくと、「五輪しか競技の舞台がない」アスリートもいるんですよね。要するにマイナースポーツのアスリート。「これしかない」彼らにとってこの「notアスリートファースト(というかただの地獄)」な「スポーツ大会」はどう映ったのでしょうか。つまり本当の被害者はアスリートです。ならば、こんな酷い環境での五輪は開催するな(もっと環境整えろ)、と批判するのが本当の「アスリートファースト」な精神でしょう。そうです、「アスリートに罪はない」んです。人権や公平性の感覚を失くしたアスリートを除いて。だからこそ私たちは批判すべきでした。応援よりも前に。
ではなぜ「アスリートファースト」ではない「スポーツ大会」が開催されてしまったのでしょうか。ということで少し飛ばして⑤にいきます。理由はもちろん、五輪を開催することによって何かしらの利益があるからですが、その利益のためにアスリートが無視もしくは利用された「スポーツ大会」になっている、ということは、何度でもしつこく書いておきましょう。
さて、まだ理解できていない人のために少し遠回りをします(もちろんそんなあなたを馬鹿にはしません。ここまで読んでくださってありがとうございます。もう少しついてきてください)。スポーツ大会ではない「たとえ話」で理解を深めていきましょう。
あなたは受験を控えた子どもを持つ親です。あなたは子どもの目標(=志望校に入学すること)のために精一杯環境を整えようとするでしょう。たとえば塾に入れるとか。
構図を整理します。
・子ども=アスリート
・子どもの目標のために環境を整えること=アスリートファーストの精神
・塾=五輪(とその運営をする政府や委員会)
・志望校合格=五輪での活躍(メダル獲得)
と、それぞれ置き換えながらイメージをしていってください。
あなたの子どもは塾に入りました。塾にはクーラーがありません。なぜか強制的に使わされる/買わされる塾オリジナルの鉛筆は芯がすぐに折れます。そんな塾、すぐに辞めさせませんか?あるいは改善を要求しますよね。あなたが子ども想いの、つまり「子どもファースト」の親ならば。
そして塾というのも本来は「子どもが勉強するため」の場所なのだから、「子どもファースト」の精神で運営がなされるべきです。なぜクーラーを設置しないのでしょうか。なぜすぐ折れる鉛筆なんかを指定にするのでしょうか。クーラーを設置しないのはやる気がないからでしょうし(もちろんそのことだけでもう失格ですが)、鉛筆に関しては「何か裏がある」のでしょう。たとえば鉛筆製造業者と繋がっていて、金銭のやりとりがあるとか。それは果たして「子どもファースト」の精神に則った運営なのでしょうか。違いますね。本来の目的は「金儲け」です。そしてそんな運営側にとっては、あなたの大事な子どもの「志望校合格」も宣伝材料でしかありません。彼らが欲しいのは「○○大学合格△△名!!」という数字だけです。彼らはあなたの子どもの名誉=合格を誇っているのではなくて、「私の塾の素晴らしさ」を誇っているのです。クソみたいな環境の塾のくせにね。
さらにこの塾、受験会場にも使用されていて、受験本番にはほかの塾の子どもたちもやってきます。
・ほかの塾の子ども=外国人アスリート
ほかの塾の子供たちは「クーラーなし」「すぐ折れる鉛筆」になど慣れていません。本来の力など発揮できるわけもなく、不合格ばかり。そんななかこの塾の子どもたちは合格していきます(汗だく&折れる鉛筆に苦労しながら)。そしてこの塾の運営は「合格者数ナンバーワン!」「我々の子どもたちは優秀です!」などと誇っています。もう一度同じようなことを書きますが、塾の存在意義は本来「子どもの学力向上」であり、受験会場になるのであれば「そこに集う子どもたちが皆万全の状態で受験できるようにすること」が義務です。でもこの塾の運営の目的は違います。金儲けです。もちろんビジネスである以上利益の追求は必要ですが、その利益はあくまで「本来あるべき目的」を果たしたうえで得られるものであるべきです。100歩譲ってそうじゃない企業があってもいいとして、少なくともその企業は「悪徳企業」として批判されるべき存在です。彼らが求めているものは金儲けと、金儲けにつながる名誉です。
といったところで構図が見えてきたと思います。アスリート、五輪、政府/五輪委員会などに再度置き換えてみましょう。あら不思議、TOKYO2020と同じですね。アスリートファーストと言いながら環境を整えない政府/五輪委員会、日本の夏に慣れていない海外アスリートが被る不公平を黙認(どころか喜ぶ)政府/五輪委員会(と選手)、その政府/五輪委員会と繋がることによって何らかの利益を得る企業。アスリートの頑張りと活躍、そのアスリートを応援する私たち市民の善意は、すべて彼らの利益に「回収」されていくのです。
ここで③④に戻りましょう。
③ 故に「選手を応援すること(五輪を楽しむこと)」が罪である、という本来なら生じないはずの矛盾もしくは歪みが生まれてしまった
④ ③のせいで本来なら生じないはずの分断が市民の間に生まれてしまった
「アスリートファースト」というスポーツ大会として当然の前提が成立していたならば、③④は起きていません。でも私たちはいま「アスリートファースト」という意識を共有しているがために、意見が対立し分断の被害に遭っています。これは相当な皮肉、いや悲劇であり、それでほくそ笑んでいるのはやはり「運営側」です。整理します。
・「選手を応援しよう」というアスリートファースト
→これまで頑張ってきた選手に罪はないし、努力の成果を発揮するための舞台を取り上げてはならない。そしてそんな彼らが残した好成績は、一緒に喜びたい。それが選手のためでしょう?
・「選手を守ろう」というアスリートファースト
→選手の努力とその努力を発揮する舞台を奪いたくはないけど、その舞台の環境があまりにも酷いのだから、これでは選手も力を発揮できないし、それどころか命の危険まである。そんな環境でプレーさせちゃダメ。それが選手のためでしょう?
・「すべての選手が公正/公平な環境でプレーできるように」というアスリートファースト
→確かに日本人選手や応援している選手が活躍するのは嬉しいけど、それが明らかに不公平な条件下でのものだったらダメでしょう。選手本人だってフェアな環境で勝ち取ったものでなければ本心から喜べないはず。それにこの五輪に人生を賭けてる人がいるのは海外選手だって同じなはず。彼らの人生や努力はどうなるの?それを考えるのも選手のためでしょう?
1つ目はいわゆる五輪賛成派で、残りは五輪反対派ですね(賛成も反対ももっとほかの「アスリートファースト」があると思いますが、とりあえずこれくらいにしておきます)。賛成派「アスリートファースト」、もちろん本来なら何も悪くないんです。つまり運営側がちゃんと「アスリートファースト」の精神を遵守していれば。でも運営はそうしてない。ということで僕は反対派「アスリートファースト」の立場に立っています。でもやはり、あらためて書きますが、賛成派だって善意、そこにあるのは「選手のため」なんですよね。少なくとも「運営側=政府/五輪委員会に対する批判」もしている人であれば。政府や委員会はクソだよ、でも選手には罪はないんだから、彼らのことは応援しようよ。ということを100%否定することはできません。それも正しいことだから。でも違う視点、違う「アスリートファースト」から見たらそれは正しくない。逆もまた然り。ということで私たちは対立しています。どちらも「選手のため」を思いながら。(もちろん例外もありますが)
さて、ここで最も「正しくない」ことをしているのは誰でしょうか。すぐに答えは出るはずです。「選手のため=アスリートファースト」を意識していない存在です。蔓延するコロナや酷暑などの酷い環境=選手の努力の成果が十全に発揮できない状況、そして命の危険すらある状況を放置している存在。日本人選手だけに都合の良い環境を整え、その活躍を喜ぶ存在。何度でも書きますが、五輪は「スポーツ大会」です。正しくないことをしているのは、誰でしょうか。
そして最悪なことに、その「最も正しくないこと」をしている存在が最も利益を得ているのがこの五輪です。アスリートではなく。政府や五輪委員会の人間にとって、アスリートの活躍はすべて「自分の利益や名誉のため」に存在しています。架空の塾が「○○大学合格△△名!!」と宣伝することで自分たちの宣伝=優秀さのアピールをしていたように、「日本人選手メダル△△個獲得!!」はすべて政府や五輪委員会、それに付き従うことで利益を得ている企業などの名誉に回収されてしまいます。
同様に、私たちの善意=「選手のため」もすべて彼らによって回収されてしまいます。私たちの応援や感動、つまり「五輪を楽しんでいる姿」は彼らの「五輪やってよかったでしょ」の根拠として利用されます。たとえ私たちの心中には「でもコロナで苦しんでいる人やその対応にあたる医療従事者もいるのだから、こんな環境で開催したこと自体は良くないと思ってるよ」という批判精神があったとしても、彼らにとってはそんなこと知ったこっちゃありません。「だって楽しんでたじゃん」で終わりです。
そもそも「スポーツ大会」なのに「アスリートファーストではない」環境での開催をなんとも思わない人間たちなので、良心とか倫理とか論理とかなんてものを彼らは持ち合わせていません。故に私たちの持つ「常識」や「理屈」はまったくもって通用しません。彼らにとっては「自分にとって都合の良いもの」だけが「必要なもの」で、それ以外はすべて「不要なもの」です。というより、そんなものは「最初から存在していない」のです。書き換えられた公文書や廃棄された資料のように。私たちがどれだけ良心や常識や論理を持って「対話」を試みたところで、一切理解(するつもりの)ない「バケモノ」なんです。
もうすでに「五輪やって正解だったね」などと言っている政権側の人間が多数います。たとえば
とか。「今中止すべきだったと思っている人はどれだけいるのか」とまだ未調査の不確定なものでもって「世論の移ろいを見越して大会を決定した菅総理と小池知事の判断は誠に正しかった」と断定しちゃえるような論理もへったくれもない人間に、私たちの「応援」「楽しんでた姿」は「根拠」として利用されるんです。「選手のため」という善意ももちろん。
このあと、パラリンピックが控えています。ここでも矛盾は生じているので、私たちは無用な分断の被害に遭うことになります。パラが開催されようと中止されようと、「コロナやそのほかもろもろの「悪環境」は変わらないのだから選手が危ないだろ」と「五輪本体はやったのにパラはやらないなんてパラアスリートが可哀想だ」がぶつかり合うわけです。もちろんこれ、どちらもそれぞれの「アスリートファースト」の精神が導き出した結論であり、善意ですよね。どちらも正しいことを言っている、のに、対立してしまう。この矛盾を生み出しているのはもちろん「正しくない」ことをしている存在です。この対立でほくそ笑んでいるのも。
ここまでほぼ「コロナ(で苦しむ人や医療従事者への負担)」についてのことは書きませんでしたが、それは「当たり前に考慮すべきこと」だからです。こんな状況で自分たちだけ「お祭り」を楽しむことは批判されるべきことです。それは当然のこととして、そのうえで仮にコロナがなくてもこの五輪は開催されるべきではなかった、ということを示したかったので、意図的に触れませんでした。最後にそのことだけ、書いておきます。
まだ十分でないところは多々あるでしょうけど、一旦ここで終わりにします。では、よりより社会のために、私たちの「善意」が「正しくないこと」をしている人間に「回収」されないように、今後の振る舞いを考えていきましょう。五輪が終わっても五輪反対。何もかも、「なかったこと」にはさせない。