反差別とは?ということをあらためて考えてみました
誰もがより安心していられる場所(を目指すこと)=セーファースペースとしての本屋、というのを意識し始めてから、ではその実践とはどのようなものなのだろうか?ということをより深く考えるようになりました。その思索について、一度ここでまとめておこうと思います。もちろん、以下に記したあれこれは必ずしも「常に正しい」ものではないし、自分の中で答えが明確になっていないものもあります。だからこそ、反差別・反ヘイトやセーファースペース、といったことに意識のある方は一読してもらえるとありがたいです。いつだって「ともに考え、実践して」ほしいからです。
*なので、そもそも反差別・反ヘイトの意思がない者からの批判や賛同には私は応答しませんし、みなさんも積極的に応答する必要はありません。理由については後述します。
*以下、理論や定義の説明・具体例の提示などのためにトラウマなどのトリガーとなりうるキーワードが含まれる可能性があります。ご自身の状態などを勘案のうえ、読み進めたり読み飛ばしたりしてください。
誰もがより安心していられる場所(を目指すこと)=セーファースペースというのは、いわば「唯一絶対の正解が存在しない」場所であり、永遠に辿り着けない場所=ユートピアのようなものなのだと思います(ユートピアの原義は「どこにもない場所」です)。そのことを、ここ数ヶ月あらためて感じています。少し具体的に言い換えるならば、反差別・反ヘイトとは「誰のことも排除しない」ということであり、その実践によっていつか辿り着けるであろう場所がセーファースペースなのだということになりますが、実はこの「誰のことも排除しない」というのが、非常に難しい。そして悩ましい。なにが正しい(あるいは望ましい)実践なのかが、わからなくなってしまうのです。
なぜか。反差別・反ヘイトの実践をしているつもりでも、時として排除が生み出されてしまうからです。たとえば、“女性”差別に反対するための実践で生じてしまうトランスジェンダー排除があります(ここでは話をシンプルにするために“女性”と限定していますが、トランスジェンダーには当然男性もいれば男女の枠組みに自分を位置付けていない者もいます)。反差別・反ヘイトの実践をしている方なら文字通り体感できると思いますが、それをやっている当人は「自分は正しいことをしている」と思っています。そしてその通り、ある特定の面については正しいことをしています。ただ、上記の例でいえば、それは「一部の“女性”の安心のため」だけを対象とした正しさであり、トランスジェンダーを含めた「あらゆる存在の安心のため」に対しては、正しくない(=排除を生んでいる)のです。ある属性のための反差別の実践が、別の属性の排除を生んでしまうのであれば、それはセーファースペースという目的とは相容れません。
差別=排除=周縁化は、その集団の中で「より弱い立場にある者」に対してより強く働いてしまいます(ここで「働いてしまう」と書いたのは、差別が意図にかかわらず構造によっても生じてしまうものだからです)。そして「より弱い立場にある者」というのは「より存在を感知されにくくされている者」でもあるので、差別=排除=周縁化の被害にあっていることが気づかれにくいのです。ゆえに、反差別の実践をして「自分は正しいことをしている」と思っている者ほど、自らが生じさせている「別種の」差別に気がつきにくい。これが本当に悩ましい。当然、私もそのひとりであるはずです。私はこれまでも/いまも/これからも、自覚しない差別をしています。
ではどうすれば「反差別の実践をしているつもりなのに別種の差別を生んでしまう」という悲しい状況を避けられるのだろうか、少なくともその可能性をできる限り小さくできるのだろうか、ということを考えてみました。だって、みんな真剣に差別がなくなることを願って必死にやっているのに、それが逆の効果を生じさせてしまっているなんて、悲しいことこのうえないですから。
まず必要なのは「差別の原理=差別が生じる論理とはどのようなものなのか」を理解することなのだと考えました。つまり、個別的/具体的な差別の内奥にある「仕組み」そのものに目を向ける、ということです。表面に出てきているものももちろん重要ですが、それだけを見てしまうと見逃してしまうものもあるのです。
仕組みがわかれば、それが様々な差別・ヘイトに共通しているということもわかってきます。人種や国籍などに向けられる差別も、性別やセクシュアリティなどに向けられる差別も、どちらも同じ(ような)論理=仕組みで生じています。あるいは、意図的になされています。となると、ここで大事なことがもうひとつあることに気がつきます。この論理と同じ論理のもとで反差別の実践をしてしまった場合、それこそがまさに、「自分は正しいことをしている」と思っている者による、気がつきにくい「別種の」差別になる(可能性がある)ということです。つまり、自分が実践している反差別の論理が「(別種の)差別の論理と同じ/似ている」場合、その実践には危険性=別種の差別が生じている可能性があるということにもなります。あるいは、これを逆転させればこのように言うこともできると思います。「別種の差別に応用されてしまう論理」を持つ反差別の実践はしてはならない、ということです。「誰のことも排除しない」ためには、差別を正当化するための論理として活用されてしまうことがあっては絶対にならないからです。
では「差別の原理=差別が生じる論理」とはどんなものなのか、という話に入っていきます。これはふだん私たちが意識していることをあらためて振り返っていくことで、逆説的に見えてくるものだと思います(なのでその形式をとります)。しかし、このセクションには異論が多く生じる可能性が高いと思いますし、私は私の考えが絶対に正しいとは思っていません。異論は歓迎です。ただ、先述したように「反差別・反ヘイトの意思やセーファースペースを目指すこと」を共有していない者からの意見や反応には応答しません。それに乗っかると議論の方向性がおかしくなり、本来なら敵対しない者どうしが対立することもあるからです。
たとえば○○人による性暴力事件が起き、その加害者の国籍が強調された報道や言及がなされたとき、私たちは「性暴力への反対」と、その事件を機に生じる「○○人差別への反対」を同時におこなう必要があります。しかし「○○人差別への反対」の主張をする者の中には「性暴力を擁護する」ことを目的とした者(=アンチフェミニズム的立場の者)も存在します。というより、アンチフェミニズムだったり悪意を持った性暴力擁護の言説に「○○人差別への反対」という文字列のみが悪用されてしまう状況も、残念ながら生じてしまうということです。ここで私たちがすべきことは、その「○○人差別への反対」という文字列がどのような意図でもって発せられているかを確認することです(「差別反対」という文言=目的そのものは常に正しいはずなので)。「性暴力への反対という意思があり、それと同時に○○人差別への反対をする」という意図のもと発せられた「○○人差別への反対」なのか。「性暴力を擁護するために(あるいはフェミニズムを腐すために)」発せられた「○○人差別への反対」なのか。このふたつには大きな違いがありますし、ゆえに私たちが批判すべき相手は後者です。あるいは、「○○人差別への反対」と「性暴力擁護」が結びつけられてしまうこと自体おかしな話ですので、そのような誤った前提自体を生じさせないようにすべきでしょう。本来なら敵対しない者どうしが対立してしまう背景には、この「○○人差別への反対」と「性暴力擁護」が結びつけられてしまっているという、誤った前提があるように思えます。これは、この事例に限らず様々な状況において見られる仕組み=論理かもしれません。
では、本題に入ります。
①「属性」で判断しない
なにを当たり前のことを、と思うでしょう。しかし、ここをあらためて丁寧に考えていかないといけません。差別は自覚のないまま行なわれているものだからです。
たとえば人種や国籍に関する差別であれば、その仕組みは非常にわかりやすいかと思われます。「○○人であるから」という理由で判断しない。つまり「○○人」という同じ属性を持っているからといって、すべての○○人が同じことをすると考えてはいけないということです。あるいは、ある○○人が犯した罪や加害をほかの○○人もすると考えてはいけない、ということですね。
②問われるべきは「行為」そのものだけ
属性で判断してはならない、を言い換えると「行為そのもので判断すべき」ということになります。あるいは、その行為主=個人の単位で問われるべき、ということでしょうか。ある特定の個人が犯した罪や加害行為を、その個人が持つ属性全体に当てはめてはならないわけです。これもまた、なにを当たり前のことを、かもしれません。
③行為可能性(その行為をするかもしれないという危惧)で判断してはならない
「行為そのもので判断すべき」をより正確に言い換えると、「すでになされてしまった行為(とその行為主のみ)で判断すべき」であるということになります。なぜなら、「まだなされていない行為」によって判断するというのは、まさに「属性で判断する」ということと同義だからです。たとえばある本屋がヘイト本を置いたとしましょう。しかしだからといって本屋すべてがヘイト本を置くと断じてはならないでしょう。確かに、あらゆる本屋はヘイト本を置く「可能性」を持っています。それは意図や悪意の有無にかかわらず、です。しかし、その「可能性」があったとしても、実際にヘイト本を置いていない本屋が(どこかに)ある(かもしれない)以上、本屋という属性全体を「ヘイト本を置く可能性がある」からといって排除することはできないのです。あくまでも批判すべきなのは「実際にヘイト本を置いてある本屋」だけであり、ある特定の本屋がヘイト本を置いているからという理由で「ほかの本屋も置いてある」と判断してはならないのです。
そして「置いてあるかもしれない」という危惧を理由に、本屋全体を悪魔化するのもNGです。もちろん、その危惧=恐怖を抱くこと自体は認められるべきです。特に、ヘイト本によって加害されている者たちにはその権利があるべきです(その危惧=恐怖だけでもって「(本屋に対する)差別主義者だ」などと断ずることはすべきではないと思います)。しかしそれを全体に適用し、本屋であるからという理由だけで存在そのものを否定してしまってはならないでしょう。
仮にヘイト本を置いてある本屋が99%の割合を占めているとしても、「多くの/ほとんどの本屋がそうであるから」という理由で「本屋」という属性を持つ存在を排除するのもNGです。なぜなら、その「多くの/ほとんど」という根拠は恣意的にその頻度や数値をスライドできるからです。99%が許されるなら80%も許されるし、80%が許されるのなら20%だって許されます。差別=排除を正当化するためにはたったひとつの事例さえあればよい、と言ってもいいかもしれません。実際、すでに社会に存在する差別はそのようにして生じています。「○○人」という属性を差別するには、ひとりの「○○人」による行為がありさえすればいい。様々なところで見てきているものだと思います。
④「属性=行為可能性=欲望」という図式を作ってはならない
以上を踏まえると、反差別の実践とは「属性=行為可能性=欲望」という図式を作らないようにすることである、という結論が導き出せるのではないでしょうか。
・属性:本屋
・行為可能性:ヘイト本を置く可能性(意図的でない場合も含む)
・欲望:ヘイト本を置きたいという欲望
本屋には「ヘイト本が置いてある可能性がある」から本屋は危険な存在だ/排除してよい、という理論を許してしまうと、それはそのまま「本屋にはヘイト本を置きたいという欲望がある」から危険な存在だ/排除してよいという理論にスライドすることが可能になります。なぜなら、実際に「ヘイト本を置きたい」という欲望を持っている本屋は存在しているからです。繰り返します。「○○人」という属性を差別するには、ひとりの「○○人」による(欲望を伴った)行為がありさえすればいい。そして、究極的には、欲望≒意図の有無は行為主本人以外には判断できません。逆に言えば、欲望≒意図の有無は行為主以外の他者によってどうにでも決めつけることが可能だということです。少なくとも、差別を意図的にしたい者にとっては、「○○人が犯罪行為をした」のは「そういう欲望があったからだ≒意図的な行為だ(過失ではない)」という図式にする必要があり、そしてそれは容易にできてしまいます。「ひとりの「○○人」による(欲望を伴った)行為」かどうかは、恣意的に判断が可能なのです。そして、そのように恣意的に判断をすることこそが差別なのです。わかりやすくするために簡易な事例を出すのであれば、○○人が殺人を犯してしまったとして、仮にそれが事故によるものであっても、意図的に差別をする者はそれを「故意的な殺人」として捉え、それを根拠として「○○人(全体)は殺人を好んでおこなう」と主張するわけです。つまり「殺人欲求がある属性だ」と断定するわけですね。
属性と行為可能性と欲望を結びつけてしまうこと、それすなわち差別だと考える必要があるのです。少なくとも、その図式を根拠にして下された判断には差別の可能性がある。そう考える必要はあるでしょう。たとえ、反差別の意思のもとでなされたものであったとしても。だって、ヘイト本を置く本屋を批判するのは反差別という目的があるためですよね。でも、それが「属性=行為可能性=欲望」という図式のもとでなされたものになると、残念ながら「実際にはヘイト本を置いていない本屋」までもが悪として認識され、排除されることになってしまうのです。
また、属性と行為可能性と欲望を結びつけたうえで「その属性の者を排除すれば加害が生じなくなる」と判断するのもよろしくありません。本屋とヘイト本の例で考えるならば、仮に「ヘイト本を差別の目的で置く書店員」を排除したとしても、実際に「本屋にヘイト本が置かれてしまう」という状況はなくなりません。なお、(調査などが存在しないのでこれは推測の域を出ませんが)ヘイト本を差別の目的で置いている本屋は少数派だと思います。色々と理由をつけて「返品しないことを正当化する」本屋でも、流石に「差別するために意図的に置く」ことがまずいことはわかっているはずです。にもかかわらず、日本の多くの本屋にはヘイト本が置いてあります。本屋だからといって「ヘイト本を差別の目的で置く」わけではないし、本屋にヘイト本が置いてあるという状況を作っているのは「ヘイト本を差別の目的で置く本屋だけ」ではないのです。
このような事例は、歴史を振り返ってみてもたくさん観測できるものです。たとえばHIV/AIDSとゲイ差別。ゲイの中にはHIV/AIDSに感染している者や感染拡大に寄与した者がいたのは事実です。しかし、それはゲイだけではありません。あらゆる性別のあらゆる性行為をする者が、HIV/AIDSに感染しその拡大に寄与しています。にもかかわらず、ゲイがその原因だとして差別されたわけです。これは①「属性」で判断しないを守れなかったため起きた差別なのではないでしょうか。「行為」そのもの以前の段階、「存在していること」自体で差別が起きた、非常にわかりやすい事例だと思います。
あるいは、同性間での性行為を忌避した結果生じた差別でもあるので、複合的な差別とも言えるでしょう。この場合、確かに「性行為によって感染(拡大)に寄与したゲイ」はいたはずですが、異性愛者を筆頭としたそのほかの属性を持つ者も感染(拡大)に寄与しています(くわえて、性行為以外でも感染は生じる=感染可能性はあるということは忘れてはなりません)。ゆえに「ゲイ(という属性全体)は感染(拡大)に寄与した」と断ずることはしてはならないわけです。これは②問われるべきは「行為」そのものだけや③行為可能性(その行為をするかもしれないという危惧)で判断してはならないを守れなかったため生じた差別と言えるかもしれません。念のため記しておきますが、同性愛行為自体に加害性などがあるということではありません。便宜上ここでは事例として適用しましたが、別段で記した殺人行為や本屋がヘイト本を置くとかの行為と同列で語るべきものではありません。
以上①②③による差別が正当化されると、④で言及した「属性=行為可能性=欲望」という図式も成立してしまいます。「同性間での性行為をしたい」という欲望は「同性間での性行為をするかもしれない=HIV/AIDSの感染(拡大)に寄与するかもしれない」という行為可能性と同一視され、そのような傾向=特徴を持つ「ゲイ」という属性そのものが忌避されてしまう。あるいは逆に、「ゲイ」という属性から「同性間での性行為をするかもしれない=HIV/AIDSの感染(拡大)に寄与するかもしれない」という行為可能性(と「同性間での性行為をしたい」という欲望が)導き出され、あらゆるゲイが忌避されてしまう。
*以上の数段落では「性行為」に絞って話をしていますが、ある対象に「惹かれる=魅力を感じる」ということと「性行為(がしたいという欲求を感じる)」ということは別物として考える必要があることは、念のため記しておきます。
*ここから特にトリガーになりうるキーワードが頻出します。
つまり、端的にまとめると⑤属性と行為(の可能性)は切り分けて考えなくてはならない、ということです。これは、トイレを舞台にした加害行為についてのあれこれをイメージすればわかりやすいはずです。
トイレでの加害行為は性別や性的指向を問わず起きています。トイレでの加害行為という文字列を見て真っ先にイメージするのは「女性トイレでの男性による加害」かと思いますが、当然「女性トイレでの女性による加害」もあるし「男性トイレでの女性/男性による加害」も存在しています。そして当然「トランスジェンダーによる加害」も男性/女性トイレの両方で起きているでしょう(トランスジェンダーの人口比率を考えれば圧倒的に少数ですが、ここではあえて記しています。前述したように、頻度や割合は判断基準にしないほうがよいからです)。つまりここで言いたいのは、どのような属性の者であってもトイレでの加害行為をする可能性がある、ということです。しかし、ここで属性と行為を切り分けることができないがゆえに生じているのが、最もわかりやすい例を出せばトランスジェンダー女性への差別です。確かにトランスジェンダー女性の中には女性トイレで加害行為をした者がいるでしょう。しかしだからといってすべてのトランスジェンダー女性にその行為可能性を当てはめて判断してはならないのは前述した理論の通りです。そのうえ加害行為をした者の中にはトランスを自称する男性(=加害をおこなうために悪意を持って自称している者)もいるわけで、実際にはトランスではない者もいる。しかしこれは本来は議論すべきことではありませんね。「トランスなのかそれを自称する男性なのかを見分けられない(からすべての“生物学的男性”を排除せよ)」という言説には、そもそも関与すべきではないですから。なぜなら、これもまた「属性とは無関係に、実際になされた行為そのもので判断すべき」という原則を無視しているものであるからです。そして、仮に行為可能性のみで判断してよいとするならば、実際に「(“生物学的”)女性による女性への加害」も生じている以上、(“生物学的”)女性もまた女性トイレから排除されなければ、論理の辻褄が合わないからです。
*(適合手術を受けていない/受けられないなどの理由から)いわゆる「パス度」が低いと自らを認識しているトランスジェンダー者は、場の混乱や他者に恐怖を感じさせてしまうことを防ぐために、自分の望む性とは異なるトイレを使ったり多目的トイレを使ったりすることを、自ら選択していたりします。このことからも、属性がなんであるかよりも「反差別の意思=他者に危害を加えないように努力する意思」があるかどうかのほうが重要なのは理解できるのではないか。ということも付言しておきます。トランスジェンダーがトランスジェンダーであることを「わざわざ」明かさずとも、すでに加害が生じていない=安全な状況は成立しているのです。むしろ、わざわざ属性を問うような真似をするからこそ恐怖が生じてしまう、とも言えるかもしれません。問われなければ属性は明かさずに済むし、属性が明かされなければ「すでにこの社会に浸透してしまっている偏見をもとにした恐怖」も生じません。
また、属性と行為(の可能性)を切り分けずに判断することが正当化されてしまうと、自らの属性を明かすだけで加害行為と認定されてしまう、という事態をも正当化することになります。つまり、属性と欲望が結びつけられ、それゆえに行為可能性とも結びつけられ、その行為可能性でもって排除が正当化される、という仕組みです。たとえば、以下のような事例で考えてみましょう。
性加害は「あらゆる性別/あらゆる性的指向を持つ者」によって「あらゆる性別/あらゆる性的指向を持つ者」に対して生じています。あるいは人種や国籍や年齢なども含めた、文字通りすべての属性がこれに当てはまります。であるならば、行為(の可能性)を理由にその属性の者を排除することが許されるのであれば、そして、自らの属性を明かすだけで加害行為と認定されてしまうのであれば、私たちの誰ひとりとして存在することが許されなくなります。あるいは、その理論が適用される属性と適用されない存在があり、その適用判断を何者かができるというのであれば、それはまさに差別そのものではないでしょうか。冒頭のあたりで述べたように、差別=排除=周縁化はその集団の中で「より弱い立場にある者」に対してより強く働いてしまいます。これを言い換えると、集団内において「より強い立場にある者」が「より弱い立場にある者」の存在可否を判断できてしまうということであり、つまるところこれが「その理論が適用される属性と適用されない存在があり、その適用判断を何者かができる」という状況にほかならないわけです。あらためて記しておきますが、そのような判断は誰にもできない/してはならないし、私たちの誰ひとりとしてその実存を否定される謂れはありません。
具体的に言えば、異性愛が規範=正常とされる社会では異性愛者が強者になるわけで、ゆえに異性愛者の男性/女性は存在を否定されないにもかかわらず同性愛者の男性/女性は存在を否定されてしまう、という事例がわかりやすいのではないでしょうか(あえてここでは性別二元論で話をしています)。異性愛者だろうと同性愛者だろうと性加害はしています。つまり行為可能性はあるわけです。しかし異性愛者はその「異性愛者」という属性あるいは「男性/女性」という属性を明かしただけで存在そのものを否定されることはありません。一方、同性愛者は「同性愛者」という属性を開示しただけで存在を否定されます。その理由のひとつとして、異性愛者の自分に同意のない性行為がなされるかもしれない、という恐怖を覚えるためというものがあるでしょう。しかし「同意のない性行為=性加害」はあらゆる属性の者にその行為可能性があるわけで、つまり「行為(の可能性)を理由にその属性の者を排除する」あるいは「自らの属性を明かすだけで加害行為と認定する」という理論が同性愛者=弱者にのみ適用されているがゆえに、このような事態が生まれるわけです。もちろん、この理論の適用判断をしているのは強者である異性愛者でしょう。
ゆえに、属性=行為可能性だけで判断することが許されるのであれば、あるいは、自らの属性を明かすだけで加害行為と認定されてしまうのであれば、たとえば「私は男性です」と明かすことすらできなくなるわけです。もちろん女性も。異性愛者も同性愛者も。日本国籍を持つ者もそのほかのあらゆる国籍を持つ者も。誰ひとりとして自らの属性を明かすことは許されません。そして性別に関して言えば、それは他者によって見た目から「勝手に判断する」ことができてしまうわけですから、存在しているだけで属性の開示をしていることになります。わざわざ「私は男性です」などと言わなくても判断がされてしまうのです。
そしてこの存在しているだけで属性の開示をしているということを根拠に差別を正当化しているのが、トランスジェンダー差別なわけです。属性の開示(あるいは他者による勝手な推測に基づいた判断)そのものを欲望や行為可能性と結びつけ、その属性に当てはまる者を一律的に排除する。⑤属性と行為(の可能性)は切り分けて考えなくてはならないというルールが守られない場合に正当化されてしまう差別の一例として、理解しておくべきだと考えます。⑤が守られない場合、最終的には存在そのものが属性=欲望の開示とみなされ、それを理由に排除されることが正当化されてしまう、ということです。
トランスジェンダー差別は「“女性”差別に反対する」という目的のもとなされてしまうものですし、HIV/AIDSと関連したゲイ差別はなんらかの差別に反対するという目的ではないにせよ、「HIV/AIDSに感染(拡大)しないように」というそれそのものとしては正しい心がけから生じたものでもあるように思えます(もちろん、元からゲイに対して悪感情を持っている者がHIV/AIDSを理由にここぞとばかりに攻撃した面もあるわけですが)。つまり、それそのものとしては善意からなるものなわけです。ヘイト本を置いてある本屋という事例に関しても同様です。反差別・反ヘイトの意思があるからこそ本屋を批判したわけですから。
でも、上記①〜⑤のルールが守られなかった場合、そこには別種の差別(やよくない結果)も生じてしまいます。もちろん、本来の目的(“女性”の人権を守る、HIV/AIDSの感染拡大を防ぐ、本屋からヘイト本をなくす)も達成はしています。しかし、「誰のことも排除しない」という反差別の根本目標は達成できていません。冒頭と同じフレーズを繰り返しますが、ある属性のための反差別の実践が、別の属性の排除を生んでしまうのであれば、それはセーファースペースという目的とは相容れないのです。
もう一言付け加えるならば、私たちはどうしても「ひとりにひとつのラベル/マイノリティ性」という思いこみをしてしまいがちですが、実際はそうではありません。外国籍のセクシュアルマイノリティもいれば、トランスジェンダーのゲイもいます。そのほか様々な組み合わせが無限にあり、組み合わせも2つではなく3つ4つ5つと多くマイノリティ性を持っている者もいます。ゆえに、ある属性を排除しさえすれば差別や加害は生じなくなる、という理論で反差別の実践をしてはならないわけです。インターセクショナリティとは、そしてセーファースペースを目指すこととは、そういうことではないでしょうか。反差別の実践はどうしても「差別者の排除」という方向性で捉えられがちです。たとえば人種差別や国籍差別を意図的にしてくる者を「敵」と認定し、その敵を倒しさえすればいい。あるいは“女性”差別を意図的にしてくる“男性”を「敵」と認定し、その敵を倒しさえすればいい。そういう構図に、たとえそうはならないように意識をしていたとしても、ちょっと気を緩めた瞬間になってしまうのかもしれません。となると私たちに必要な意識は「敵を倒す」類のものではなく、排除される存在がいないようにするという方向性、つまり「どうすればより多くの存在を〈包摂〉できるか」という意識なのだと思います。反差別の実践はパイの奪い合い/奪い返しではなくパイの総量を増やす試みである、というものと近いかもしれません。
ここで、反差別の実践においてどうしても生じてしまうジレンマについても触れておきたいと思います。実際になんらかの被害を受けた(がゆえにトラウマ・恐怖心を抱えてしまっている)者がいること、そしてその被害者へのケアと反差別の実践が時として衝突してしまうという点についてです。
前述した、たとえば○○人による性暴力事件が起き、その加害者の国籍が強調された報道や言及がなされたとき、私たちは「性暴力への反対」と、その事件を機に生じる「○○人差別への反対」を同時におこなう必要があるという事例をもう一度見てみましょう。この場合、過去に「○○人からの性暴力被害を受けた者」にとっては「(性暴力事件を発端にした)○○人差別反対」の意思表明を目にしたり耳にしたりすることは、苦痛を覚えるものである可能性があります。事実として過去に性暴力を受けたことと、そのことによって感じてしまっている恐怖などは、どちらも他者が否定すべきことではありません。しかし、「(性暴力事件を発端にした)○○人差別反対」の意思表明はなされなくてはならない。このジレンマを解消することができるのかどうか、いまの私にはわかりません。
ただ、最終的にはなにを防ぐべきなのか/誰を守るべきなのかということを考えると、ジレンマ解消への方向性のようなものは見えてくるような気がしています。なにを防ぐべきなのか、それは「性暴力被害が生じてしまうこと」です。誰を守るべきなのか、それは「性暴力被害者」と「(性暴力事件を発端にした)○○人差別の被害者」です。となると、その両方を同時に同じ熱量で目指すこと/まなざすこと、それができる方法を考えるということです。
「性暴力被害が生じてしまうこと」への抵抗は、当然「性暴力への反対」の表明や実践です。「(性暴力事件を発端にした)○○人差別の被害者」を守るのも、同様に差別反対の表明と実践によってなされるものです。そして「性暴力被害者」を守るために必要なのは、この議論における文脈で考えるならば、ケアなのだと思います。トラウマになること、そして恐怖心を覚えてしまうことは、決して被害者の罪=落ち度ではありません。ゆえに、そのトラウマ/恐怖心を可能な限り小さくしていくこと、決してなくなりはしないけども、少なくとも「○○人差別反対」と自らも発信できたり他者がそれをするのを見ていられるくらいには、ケアによって回復がなされることが必要なのではないでしょうか。性暴力に反対すること、性暴力被害経験者のケアをすること、「属性と行為(の可能性)を結びつけてなされる差別」に反対すること、これらはすべて同時に同じ熱量で目指すこと/まなざすことが求められますし、実現可能なことだと考えています。
と、ここまで書いて気がついたのですが、そもそも反差別とは「他者の善意を信用できるようになる」ということなのかもしれません。あるいは、差別とは「他者とのコミュニケーションにおいて悪意を前提としてしまう」ことから生じるものなのかもしれません。悪意を前提としてしまうのはそこに恐怖があるからであり、恐怖は様々な被害経験によって生じてしまうものです。対して、他者の善意を信用するということは、その恐怖にうち勝つ/うち勝てる状況にあることで手に入れられるものなのだと思います。そして、一度損なわれた善意への信用を回復するには、十分なケアがなされることによって「他者の善意を信じられる」という経験が積み重なっていくことが必要なのだと思います。上記のジレンマも、善意に対する信用が回復されないまま反差別の実践がおこなわれてしまうことから生じるものなのでしょう。危険性を排除するという方向性でおこなわなければ、被害者の安心と安全が守れないからです。しかし危険性の段階で一律的に排除をしてしまうことが別種の差別になりうることは指摘したとおりです。ゆえに、この「差別を受ける→他者の善意を信用できなくなる→排除の方向で安心・安全を得ようとする→新たな差別の素となる→差別を受ける」という循環を生まないようにする、あるいは生まれてしまったそれを断ち切る=ケアをするということが、反差別の実践/目的なのだと思います(反差別の実践をしている者ほど実際になんらかの被害経験がある割合は多いでしょうし、ゆえにこのジレンマが生じやすいのだと思います)。
最後にもうひとつ、確認しておかねばならないことがあります。それは「差別とは偏見から生まれるものである」ということです。なにを当たり前なことを、とまた思うでしょう。しかし、偏見=「だってそういうものじゃん」という思考停止によってより深い理解を拒むことは、私たちの誰もが逃れられない事象です。つまり、これまで反差別・反ヘイトの実践を真剣にやってきた者ほど、気をつけなくてはならないことなのです。ここでも前述のフレーズを繰り返しますが、反差別・反ヘイトの実践をしている方なら文字通り体感できると思いますが、それをやっている当人は「自分は正しいことをしている」と思っているのです。
もしかしたら自分の実践は別種の「より周縁化された存在」への差別を生んでいるのではないか。そのように自己点検することは常に必要ですし、その際に確認すべきチェックポイントとして、以上の①〜⑤が役に立つのではないかと思います。役立ってほしいと思います。
私もその真っ只中にいますし、居続けるつもりです。上で延々と述べてきたあれこれを、過去の私はしていたし、これからも無自覚にしてしまうのでしょう。そして理解や受容には時間がかかることも、おのれの身でもって知っています。だからこそ、おのれの過ちを指摘・批判されたときには、まずそれを受けとめること、受けとめたうえで理屈がわからなければ質問するし、理屈はわかっても心が追いつかないのであればそれを素直に言えるような、そういう環境を維持・構築したいとも思っています(ただ、これを180公開の場ですることには意図しない加害/被害を生む可能性があるので、特に後半部分のやりとりはクローズドな場を設けておこなうべきだとは思います)。
それはとても難しいことだと思いますが、この記事を最後まで読んでくれたみなさんとなら、たとえほんの少しだけだったしても、セーファースペースに近づけるような気がします。私は言葉を尽くしたいし、心を砕きたいのです。