LGBTQ+、そして神社関係者という二つの立場から差別に抗う団体『神道LGBTQ+連絡会』の運営のひとりである著者が、信仰/宗教への差別やLGBTQ+など他のマイノリティ性との交差について、感じたことを発信していきます。
「2022年6月、『神道政治連盟』によって、LGBTQ+に対する差別的内容を含む冊子が国会議員らに配布された。2022年7月に発生した元内閣総理大臣銃撃事件は、『世界平和統一家庭連合(旧統一教会)』への恨みなどが動機とされている。世界的なバックラッシュの影では、いわゆる『宗教右派』と呼ばれる者たちが暗躍しているとの噂が飛び交う。そして2023年10月、パレスチナ/イスラエル問題(*1)が激化し、多くの命が失われている。その背景には、様々な「宗教の確執」が関わるといわれている――」
「特定の宗教への信仰を持たない」と自負する者がマジョリティであるはずの本邦のニュースは、昨今、宗教の話題で溢れかえっている。そしてそれらの大部分は、信仰を持たないマジョリティたちの手によって発信されてきた。解釈に、切り取り方に、表現の端々に、宗教や信仰への誤解や偏見を多分に含みながら。
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ということで、初めまして。『神道LGBTQ+連絡会』という団体の運営をしております、楽丸こぼねと申します。戸籍上同性のパートナーと長年一緒に暮らしているノンバイナリーであり、神道を信仰する神社関係者です。
本題に入る前に、まずは弊会についてもう少しだけ説明を。我々の『神道LGBTQ+連絡会』は、私のような神社関係者かつLGBTQ+の当事者と、そのアライによる団体です。神道を信仰する者という括りの中ではLGBTQ+というマイノリティであり、LGBTQ+という括りの中では信仰者というマイノリティである、要するに、どっちへ行ってもマイノリティな者たちの集まりです。
正直に言えば、我々はただ当事者というだけで、何某かの専門家というわけではありません。畢竟、信仰というものは、SOGI同様に持つ(持たない)者によって千差万別、十者いれば十色の在り方があり、その全員が大きな時代のうねりの中でそれぞれに試行錯誤を繰り返していくものであり、説明も分類も容易ではありません。
できることは少ないですが、それでも我々は、「ちいさな誤解」や「素朴な疑問(の元となる違和感)」がいつしか「異質なものへの恐怖」「理解できないものへの蔑視」「仮想敵への怒り」に変わり、そしてあらゆる加害と差別へ繋がっていく流れを、可能な限り全力で止めなければならない、と思っています。綺麗事ではなく、自分たちが生きるために。誰も殺さないために。
というわけで、そのために、東で誰かが「LGBTって、ドウセイコンしたいひと? 神社でできる?」と首を傾げれば、行って「まずLGBTQ+とは、その前に性別や性自認というものは、というかQ+を付けてくれ、あとセクシャルとロマンティックはまた別で、婚姻の平等とは、婚姻制度とは、戸籍とは、そもそも祭祀とは云々」としどろもどろに説明し、西で誰かが「カンヌシさんって、オボウさんとどう違うの? あの〇〇さんは女性だしアマさんかミコさんかな?」と呟けば、「まず東アジア西アジアの信仰というものは、儒教と道教とヒンドゥー教と仏教は、神道と日本仏教の神仏習合と神仏分離が、あとさっきのってジェンダリングじゃないですかね然々」とぎこちなく対話を試み、日頃は差別を再生産しない信仰の実践について考え、時には直接的な差別を行う者たちに対し声を嗄らして抗議する、というのが現在の弊会の主な活動です。
さて、様々な場で差別への抵抗を行っている皆様もきっとご同様ではと思いますが、この社会へ既にあまねく蔓延している差別を、さあ一体どこから指摘しようか、と考えた際、①用語・表現を問う、②制度・慣習を問う、③意識を問う、のどれかを切り口にすることが多いのではないかと思います。特に①は、誰もが日常で触れ、かつ今日からでも個々の責任で変えることのできる部分なので、「せめてコレは、もう安易に使うのはやめて欲しい! 今すぐに!」という想いを込めて発信されることが多いのではないでしょうか。私はそうです。
宗教差別の中で①の話というと、たとえば、「神話」「信仰」「崇拝」「信者」などの使い方に対して、「ちょっとそれは」と言いたくなることが多いなと感じます。
曰く、「〇〇の安全神話が崩れた、しかし彼らの〇〇への信仰はなおも根強いものがある、〇〇のコミュニティは自浄作用を失い、ただ〇〇を崇拝するだけだ、もはや彼らは〇〇教だ、〇〇信者だ」――とまあ、大体このような調子で使用される場面に多く遭遇してきました。
当事者のひとりである私としては、「神話とは無根拠に信じられている中身のない作り話であり、宗教は非科学的な虚構の上に成り立ち、信仰に生きる者は横暴な信仰対象に対し絶対服従で現状への必要な批判も要求もアップデートもできず、ただ与えられたものを頑迷に闇雲に信じ込んで不幸を受け入れ非論理的に生きている」という、信仰を持たない者からの偏見や蔑視を感じてしまう使い方のように思われます(もし「そこまで酷いことなんか考えていないよ!」とびっくりさせてしまったならすみません。でも、本当に?)。
実際の我々はというと、神話は信じるよりも学ぶものであろうと(少なくとも私は)思っておりますし、「崇拝」している神々に対し毎日大量に(たとえば神道では祝詞というかたちで)祈願≒要望を伝えてもいますし、そういった信仰の解釈や実践については多くの宗教の多くの当事者の間で議論や研究が日夜続けられ、現場や個々の生活においても様々な試行錯誤とアップデートが行われています。そしてほとんどの信仰者は、信仰を持たないほとんどの方々と同様に、この現代社会の中で科学を含むあらゆる学問に接しつつ暮らしています(もし理系の研究者に信仰を持つ者がいないと思っているのならば、それは偏見です)。
いや、そんなことはない、自分の知る〇〇教は、〇〇信者はこうだった!と反論したい方もいらっしゃるでしょうが、その前にぜひ、周りを見渡してみてください。
前述の通りこの国では、「特定の宗教への信仰を持たない」と自負する者がマジョリティであったはずです。では貴方の周囲は皆、いつでも論理的で科学的で、柔軟な思考をし日々絶え間なく認識をアップデートできているのでしょうか?(そうすることが善いか悪いかはまた別の問題として)
例えば、「トランス女性を排除することが性暴力の防止に繋がる」という非論理的な考えを支持する方々は、全員が全員、何らかの信仰を持っているのでしょうか?
……えっ、「彼らはトランス差別教だ」ですって?
いやいや、持論にがむしゃらにしがみつくだけで信仰が実践できると考えているのなら、それはちょっと宗教と信仰を舐めすぎです。そしてまた、たとえ貴方の周りの信仰者がたまたま全員頑迷な差別者たちであったとしても、「誰かの行いとその者の属性自体を紐付けてはならない」というのは、差別というものを考える際の基本事項のはずと思います。
我々信仰を持つ者たちも、ただこの社会に生きる者のひとりです。その中には頑固な者も素直な者も、幸運な者も不運な者も、罪を犯す者も善を為そうとする者も、勿論どれでもない者もおり、その誰もが貴方と同じ地球上で、それぞれの共同体の文化と経済と法の下で、信仰の違う者や持たない者と混ざり合ってずっと一緒に日常を送ってきました。
誰がどんな信仰を持っているかはSOGI同様に見た目だけではわからないので、まるで特殊な宗教施設にしかいない存在のように思えるかもしれませんが、実はいつでも、どこにでもおります。多分貴方の側にも、今も。
………え、怖い? なぜ?
見えなくて、シューキョーの「魔の手」が、どこに潜んでいるか分からないから? 魔の手って、一体どんな手? もしかして、冒頭で出てきた『宗教右派』とかいう、何だかよく分からない闇の組織のことですか?
はい、その〈宗教右派〉という言葉こそ、昨今私が「信仰」や「神話」の否定的文脈での濫用以上に問題視し、「せめて、これはもう安易に使うのはやめて欲しい! 今すぐに!」と思っている言葉です。
次回はぜひ、そのお話ができればと思います。
2023年10月20日 楽丸こぼね
*1:冒頭の一段落は「よくある報道」風味の導入であり、あえて差別や偏見を助長する表現をしている箇所があります。なかでも政治と宗教の問題の混同が多く発生している「パレスチナ/イスラエル問題」については、文脈によってはこの名称自体が宗教、政治、人権の問題を引き起こしかねない懸念があります。しかし、これらをクリアし留保なく使用できる適切な代替案を、我々は現時点で見つけられずにおります。この問題に関わる全ての方との共通課題として、今後引き続き模索してゆきたく思います。
楽丸こぼね(らくまる・こぼね)
『神道LGBTQ+連絡会』運営メンバーのひとり。全ての差別を許さない神社を目指すノンバイナリーの神社関係者。
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