社会的マイノリティについて書かれた本をメインに取り扱い、「小さな声を大きく届ける」ことを目指す新刊書店「本屋メガホン」を運営する著者による雑記。本屋を運営しながら考えたこと、自身もマイノリティとして生きる中で感じたことなどを思いつくままに書いていきます。
本連載の第2回「閉じながら開く」にて、Twitterをやめて代わりにメルマガを始めることを宣言し、営業日誌や刊行のお知らせなどをそこで配信するようになって約1年半が経過した。現在の主な発信手段はインスタとメルマガで、インスタでは入荷した本や月ごとの営業日などをメインに発信し、メルマガでは営業があった日の売上金額や冊数、その日に思ったことなどを日記的に書いた営業日誌をメインに発信している。様々な情報を高頻度で更新しているSNSに比べると、そもそも月の営業日が少ないのもあってメルマガの更新は月数回とかなりスローペースだ。更新頻度の違いだけでなく、SNSでは公開しにくいお金周りのことをメルマガでは公開したり、お店を運営する中で違和感を感じたことを日誌の中で書いたりと、書く内容や文章のトーンなども異なってくる。
お店の情報を発信するという目的は同じでも、SNSはあくまでも「本屋メガホン」という人格として文章を書いている感じがして、「ちゃんとしたことを書かないといけない」という感覚が無意識にあるような気がする。逆にメルマガは、営業日誌という建て付けも相まって、それを運営する「和田拓海」一個人として感じたことをそのまま書きやすいような感じがある。もちろんSNSとメルマガで同じような内容のことを発信していては意味がないので、意識的に書き分けている部分もあるが、それよりも両者の言語空間としての質の違いが、そこで書かれることに影響を与えている部分も大いにあるような気がする。今回は、SNSとメルマガの大きな違いは「弱さをみせられるかどうか」なのではないかという仮説のもと、先述したような「書きやすさ」が一体どこから来ていて両者の間にあるものは何なのか、考えてみたい。
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そもそもメルマガを始めたきっかけは第2回でも書いた通り、Twitterがもはやマイノリティにとって安全な言語空間としてみなすことができなくなったことや、SNSにのみ発信手段を限ることの危うさなどを考慮した結果だ。投稿に対して誰でも容易にリアクションをつけることができる双方向性の高いSNSではなく、メールを一方的に送ってそれを受け取るという双方向性の薄さ、その単純さに一度立ち返ってみたいと思った。メルマガを始めた当初は、SNSを年齢的に利用していない層に向けてもアプローチできればと考えていたが、現状そこまでフォローできていない気もするので、その辺りはもう少し検討の余地があるものの、SNSではないツールを用いての発信手段としてはかなりしっくりきている。
先述の通りメルマガで配信している営業日誌では営業日ごとの売上を公開していて、もちろんそこに記入される金額が0円の日も年に数回ある。例えばこの原稿を書いている3月8日(土)は13:00-17:00で営業して売り上げは1,650円/1点で、営業日誌には「2ヶ月後に店を閉めるとは思えない来客のなさと売り上げ」と書いてある。別の日、イベントに出店したときの営業日誌では、「お客さんに、パレスチナ関連の本が多いですが関心がおありなんですか?と聞かれて、関…心……と思って一瞬フリーズしてしまった。「興味/関心がある」という言い方だったり、パレスチナ「問題」として自分とは関係のない外部にあるものとして他者化する言説に、最近なんとなく違和感を感じるようになってきて、この問いかけにもなんだかモヤモヤしてしまった。「われわれの」問題やろがい、という気持ちになる。」と書いてある。イベントに出店すると、普段の店舗営業時とは違って多くの人と話したり、制作したZINEの感想を直接聞いたりできたりして励みになる一方で、その分モヤモヤする言動に出会うことも多くなる。SNSでこうやって売上の悪さを嘆いたり、モヤモヤしたことをそのまま書いたりするのは気が引けるが、営業日誌として書くと「まぁそんな日もあるわな」くらいのカラッとした明るさで公開できるような感じがする。SNSでの投稿は、元々の文脈から切り離されて誤読されたり過大評価されたりするリスクがあるが、メルマガでは営業日誌という一つの連続した記録として見せられることが大きな違いなのかもしれない。「点ではなく線として見られている」という信頼関係があるのと、登録した人にだけ届くというクローズドさがあるからこそ、売上が悪かった日も思ったまま感想を書けるし、運営する中でモヤモヤしたこともそのまま書くことができる。
そう考えると、自分にとってある種メルマガは「弱さをひらく練習」として機能しているのかもしれない。SNS上では見せにくいナイーブな部分を見せても、それを過剰にネガティブに受け取られたり消費されたりすることはないだろう、という一方的な信頼をメルマガの購読者に対しては感じていて、本屋メガホンのセーファースペースポリシーにもある「弱いままでいられる場所」を目指すために、まずは自分自身の弱さを開示する練習をそこでしているのかもしれない。これはメルマガを始めた当初から考えていたことではなくて事後的に感じるようになったことなのだけれど、SNSでは書きにくいこともメルマガではすらすら書けるような感覚は確かにあって、その書ける/書けないの境界にあるのは、店として(あるいはそれを運営する個人として)の「弱さ」にあたる部分なのかもしれない。売上が悪いことは書店の経営として別に大したことではない、わけではないのだけれど、自分が思っているラインを超えて共感されたり心配されたりすることに対する違和感がどうしてもあって、そういう意味でもSNSに息苦しさを感じやすいのだと思う。
特にSNS上で独立系書店について語られる際は、過剰にエモーショナルに扱われたり、社会的な構造の話ではなく個人の感覚や情緒の話と結びつけられて(あるいはすり替えられて)語られてしまうことが多かったりして、少し過激な表現かもしれないが「弱さを消費されやすい」面があると思う。良く言えば共感を集めやすいということになるのだろうが、悪く言えばありのままの弱さを弱さそのものとして差し出しにくいということでもある。ポジティブなこともネガティブなことも、過剰に共感されたり他のことと勝手に結びつけられたりせずに、ただそこにあるものとして認識されたいと考えている自分にとって、それらをただ情報として置いておくための場所としてメルマガは適しているような気がする。
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連載第2回「閉じながら開く」では、メルマガを始めることで「少しずつ閉じながら開いていくような、そんなコミュニケーションのあり方を模索していきたい」と書いていた。日誌を送りつけることを「コミュニケーション」と呼べるのかどうかについては議論が必要かもしれないし、送り手側からの一方的な認識ではあるのだけれど、約1年半メルマガの更新を続けてみて、「閉じながら開くことで交わされるコミュニケーション」に近しいものの手応えは感じられている。メルマガの双方向性の薄さを起点として「弱さをひらき」、それを比較したり消費したりせずにそれそのものとしてまなざし合うような関係性を、メルマガをわざわざ読んでくれている人とは構築できているように思う。それは「弱さを消費されやすい」性質のある書店という業態を、精神的な健康を保ちつつ持続可能な形で運営するために必要な居場所にもなりうるはずだ。
私がメルマガを通してひらいた弱さが、それを受け取った誰かの何かのきっかけになればいいし、そうならなくても、弱さをみせることがコンテンツにも消費の対象にもならないと(たとえ一方的にでも)感じられる場所の一例としてあれたら本望だ。SNSというプラットフォームは、あくまでもそれを運営する企業の裁量一つで人を殺すための凶器にもすばやく成り変わってしまう。誰もが弱さを弱さそのものとして安心して差し出すことができる社会を目指すためには、弱さをひらく練習とそのための土壌が必要だ。私にとってはその一つがたまたまメルマガだっただけで、人によって居心地の良さを感じられる環境や方法は様々だと思う。本屋メガホンとしてzineの制作やメルマガの更新を続けながらまずは目の前の土地を耕すことで、「弱さをひらくための土壌」をいろんな人の手を入れながら育てていければと思う。
〈編集部からの宣伝〉
4月6日(日)東京・下北沢のBONUS TRUCKにて開催の日記祭にて、和田さんが登壇するトークイベントがあります。
15:00〜16:00 「小さな声をひらく ― 日記という記録と抵抗」出演者:小沼理 × 和田拓海
配信もあるようなのでぜひ٩( ᐛ )و
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和田拓海(わだ・たくみ)
1997年兵庫県生まれ。2023年より岐阜市にて新刊書店「本屋メガホン」を主宰。
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