社会的マイノリティについて書かれた本をメインに取り扱い、「小さな声を大きく届ける」ことを目指す新刊書店「本屋メガホン」を運営する著者による雑記。本屋を運営しながら考えたこと、自身もマイノリティとして生きる中で感じたことなどを思いつくままに書いていきます。
2025年6月に「たねをまくこと」という小さな集まりを開催した。岐阜での実店舗営業を終了し、固定の場所に依存しない形で活動してみるための実践/実験として位置付けたもので、前回の連載でも書いたように、抵抗や連帯や言語化のための「たねをまきあう」ことを目的に、自作のZINEを販売したりフリーペーパーを頒布したり、ただ寝転んだりお菓子を食べたり、黙々と作業したり等々、各々好き勝手に振る舞いながら「一丸となってバラバラに」ただいることを目指した。
「たねをまくこと」という名前で集まりを企画した背景には、『庭の話』(宇野常寛/講談社)を読んだことが影響している。著者は、SNSを筆頭とした、「市場からの評価」や「共同体からの承認」のみを交換し合うゲームとしてのプラットフォームに対抗するためには、それらに依存しない第三の回路としての「庭」をつくることが必要だと提起している。
「家」の内部で承認の交換を反復するだけでは見えないもの、触れられないものが「庭」という事物と事物の自律的なコミュニケーションが生態系をなす場には渦巻いている。事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ。プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ。(#1 プラットフォームから「庭」へ/p60)
その「庭」を成立させる具体的な条件として、「人間が人間外の事物とのコミュニケーションを取るための場」であること、「人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を構築している場所」であること、「人間がその生態系に関与できること/しかし、完全に支配することはできない場所である」こと、「人間を孤独にすること」などが挙げられている。上記の要素を備えた「庭」的なスペースの事例として、高円寺にある銭湯「小杉湯」や喫茶店とコインランドリーが併設された「喫茶ランドリー」といった施設が例示されており、それらは「何者でもない」ままいられる場所であること、「個人があくまで個人のまま、共同体に属さなくても金銭さえ支払えばその場所にいて、サービスを受けられる」「自由」を享受できる場所であることなどが、それらを「庭」的なスペースたらしめている要素として定義されている。
岐阜での実店舗営業を終了し、本屋メガホンのこれからの活動形態を模索していた時に本書を読み、固定の場所に依存しない形で活動できないかと考えていたことや、差別と憎悪を増幅し続けるプラットフォームから一旦距離を置いて、偶然隣り合わせた人としんどさを共有しあったり、直接的な会話や交流はなくてもセーファーな空間で互いの存在をまなざしあったりするためのスペースをひらきたいと考えていたこともあって、その思想的な土台として「庭」のイメージを援用してみようと思った。「何者か」であることを常に要求され続ける相互評価のゲームから一旦おりて、「何者でもない」ままただ存在できる場所をひらくための試みとして「庭」の力を借りてみることにした。
また、著者は「庭」をつくるだけではプラットフォームに対抗するだけの大きな力を持つことは難しいことも同時に指摘しており、「そこを訪れる人間の活動を変える」ことも必要だと結論づけている。確かに、「たねをまいて」「庭」をつくり、プラットフォームから一時的に避難する場所を作ることはできても、それに対抗しうるだけの力を持つことは難しく、「楽にはなる」が不十分であることは認めざるを得ない。著者はそれに対して、「共同体からの承認」によってでも「市場からの評価」によってでもなく、自ら「制作」した事物そのものを通じて「世界に関与する実感」を得ることが必要だと指摘している。「作庭」そのものだけでなく、その「庭」を訪れる人の意識や活動をそうやって変えていくことを、「庭」を十全に機能させるためのもう一つの重要な要素として提起している。
こうした『庭の話』における議論を踏まえつつ今回は、「庭」をつくる具体的な実践として「たねをまくこと」を開催してみて感じたことや発見したことを中心に、「庭」的なスペースと「店」的なスペースの違いについてや、生き延びるために「制作」すること、「制作」することと「庭」をひらくことを循環する関係性として位置付けてみることで見えてくる可能性などについて、本屋メガホンのこれまで/これからと照らし合わせながら考えてみたい。
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「たねをまくこと」を開催してみてまず抱いた感想としては、思っていたよりも先述した「庭」のイメージに近づくことができた、ということだった。当日の様子や企画側の意図などを改めて確認しつつ振り返ってみたい。
会場は、駅からのアクセスやバリアフリーを考慮して岐阜駅前の小さな緑地とし、大きめのビニールシートを芝生の上に敷いて、スーツケースに詰めてきた本やZINEを広げて販売を行った。企画側で用意したものはそれだけで、「たねをまきあう」というコンセプトを体現するべく参加者側でやりたいことやつくりたいもの、話したいことなどを持ち寄ってもらうように告知を行った。告知では会のことを、「じぶんでつくる/支配しない・されない/死なないための たねをまきあう小さな集まり」と表現し、「自作のZINEを売ったり見せたり交換したり」といった文言を告知文やサムネ画像などに盛り込みつつ、主催者側が一方的にたねを「ふるまう」のではなく、互いに「まきあう」という意図が伝わるよう工夫した。本屋メガホンとしてもこういったテーマのイベントは初めての試みになるので、中々思ったようにはいかないだろうなと考えていたが、その予想はいい意味で裏切られることになった。
イベントの参加者は6人で、会の前半は会場にある本を読んだり買ったり、それぞれお喋りしたりしながらゆったり時間が流れ、後半になると各自持ち寄ったものを見せ合う流れに自然となった。先述した会の意図が伝わった結果なのかどうかはわからないが、想定していたよりも参加者の方で色々と持ち寄ってくれたおかげで賑やかな会となった。例えば、自分や友人が制作したZINE・フリーペーパーを持ち寄ってくれた人や、自分で制作したアート作品を参加者に配布し、作品を制作した背景やなぜ自分の作品を出会った人に配布するようになったか等について話してくれた人、映画にまつわるエピソードを話すと、所有している中古のDVDを一枚無料でくれる「きき映画や」という屋号で活動をしている人など、実に様々な「たね」が持ち寄られた会となった。
面白かったのは、主催者である自分としては全く予想外の出来事としてこれらがある種「勝手に」「コントロールの外で」巻き起こっていたことで、まさに「庭」の条件にある「関与はできるが支配はできない」状態になっていたように思う。自分は場を設えることはできても軽妙なトークで場を回すみたいなことは不得意なので、参加者同士が話したり黙々と本を読んだりしている様子を横から眺めていた時間の方がむしろ長かったのだけれど、参加者の一人が自分の持ってきたものをみんなに配り始めたことをきっかけに自然と輪ができて、それからは主催者/参加者という境界は曖昧になっていってそれぞれの「制作」に対する熱や物語に巻き込まれていった。それは「庭」的なスペースが持つ隙というか「支配できなさ」というか、固定の場所で営まれる「店」とはまた違った磁場が発生しやすいことが起因しているように思う。
約2年間岐阜で店舗営業を続けた後に「たねをまくこと」を実施してみたことで、「店」的なスペースと「庭」的なスペースの違いを実感することができた。例えば、「庭」には「店」よりも偶然の出会いやコントロール外の事物を呼び込みやすい余白があるように感じる。それは「店」が店主によって選別され陳列された事物の中から客が購入する商品を選ぶ空間であるのに対して、「庭」(特に「たねをまくこと」のコンセプトにおいて)は自分で「制作」したものあるいはその「たね」を持ち寄って見せ合うことを前提としていることを考えると自然なことではあるのかもしれない。確かに「たねをまくこと」では、自分が「制作」したものあるいは自分自身の「物語」を見せたい/聞かせたいという純粋な動機を許容するだけの余白があったように思う。
あるいは、「店」では「店主/客」「売る/買う」といった関係性が固着したものになりやすいのに対して、「たねをまくこと」において「きき映画や」がひとたび始まると主催者である自分自身も映画にまつわる話を披露する側に瞬時に立場が入れ替ってしまったように、「庭」では主客の関係性は曖昧で流動的になりやすく、上下は限りなくフラットになりやすいように感じた。また、「店」ではカウンターの向こう側とこちら側でどうしても線が引かれてしまうが、「たねをまくこと」においては誰もが地面に近い距離でフラットに目線を合わせることが前提になっていたから、もし途中から参加した人がいれば誰が主催者で誰が参加者か一目では判断がつきにくかっただろう。このフラットさは「庭」的なスペースが「関与できるが支配できない」場であるためには重要な要素であるように感じる。「店」が店主による選書とその配置=ある種の「関与」と「支配」によってコンセプトを持った場としての強度を担保するのに比べると、「庭」はそのフラットさを一つのフィルターとして「支配」のみを排除することで特定の人物やコンセプトによる場の支配を否定し、様々な行為や物語や「制作」物などを呼び込みやすいのではないかと思う。
『庭の話』の後半では、「庭」を十全に機能させるためには人々がより「制作」に向かうようにエンパワメントする必要があると提起していて、「共同体からの承認」や「市場からの評価」によってではなく自ら「制作」した事物そのものを通して「世界に関与する実感」を持つことが肝要だと説いている。そのためには、ハンナ・アーレントが『人間の条件』において示した人間の三大活動「労働(Labor)」「制作(Work)」「行為(Action)」の相互関係をアップデートする必要があるとしていて、『庭の話』においては「制作」をエンパワメントすることと「庭」をひらくことは(もちろん文脈としては繋がっているが)別々の取り組みとして並置されている。しかし、自分なりに「庭」的なスペースを小さくひらいてみて感じたのは、主催者である自分の予想を超えて様々な行為や「制作」物や物語がそこに持ち込まれ、それが参加者それぞれの語りを引き出していったように、「庭」をひらくことそのものが「制作」をエンパワメントする契機となることもあるのではないかということだった。「庭」的なスペースへと誘い込み、そこで様々な事物や「制作」物や語りへと「思いがけず」触れる機会をつくることによって、「制作」へ動機づけるための「たね」をまくことも可能ではないだろうか。あるいは止むに止まれず「制作」してしまった事物を他者と共有し、「何者でもない」まま社会で生き延びるための道筋をひらくために、「庭」を使いこなす/ハックするという回路もまた成立し得るのではないだろうか。
社会的マイノリティの「小さな声を大きく届ける」というコンセプトを掲げてセーファースペースをつくることを目指す本屋を運営していると、やはりその場に訪れる人も何らかのマイノリティ性や生きづらさを抱えた人が多くなる。自分が本屋メガホンの活動当初にZINE『透明人間さよなら』を作り始めた時がそうだったように、そうした人々にとっては「制作」することそのものが、自分自身の存在や属性を透明にしようとしてくる社会から生き延びるために、あるいはヘイト的な言説が飛び交う言論空間から一旦おりて自分自身の内的な言葉を獲得するために、必要な手続きとして迫ってくることがある。自ら「制作」した事物を通して「世界に関与する実感」を得られるかどうかが文字通り生死に関わる問題となることは、自分の体験と照らし合わせてみても何ら誇張した表現ではないように思う。
『庭の話』においては、「庭」的なスペースをひらくことと「制作」をエンパワメントすることはそれぞれ別の働きかけとして並置されていたが、「たねをまくこと」の開催を通して、「制作」そのものが「庭」への道筋をひらく、あるいは「庭」をひらくことそのものが「制作」への動機づけとなるという循環の関係があることが見えてきたし、本屋的な活動体が主体となって「庭」をひらくことによって、よりその関係性を滑らかなものにすることも可能なのではないかと感じた。本やZINEといったメディアを文字通り「媒体」として、「庭」的なスペースを様々な場所に出現させつつ“生き延びるための「制作」”へと動機づけること、その循環へできるだけ多くの人や事物を巻き込んでいくこと、その循環の渦の中でプラットフォームへと対抗するための素地をゆっくりと耕していくこと。実験的に実施した「たねをまくこと」の第1回は思いがけず、本屋メガホンのこれからの活動方針を示してくれるたくさんの「たね」を拾い集めることができた有意義な会となった。
和田拓海(わだ・たくみ)
1997年兵庫県生まれ。2023年より岐阜市にて新刊書店「本屋メガホン」を主宰。
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