出版業界におけるヘイト本と反差別(2023年時点での個人的な考察)
2024年1月に刊行予定となっていたKADOKAWAの本が出版中止となりました。詳細は各自SNSなどで追っていただければおおよそのことはわかるので省略しますが、KADOKAWAの声明文はまあなんというか、なにが問題とされているのかわかってないよね、というものでした。ただ、それについてもこの記事では主題とはせずに、あくまでも話のとっかかりとしてのみ言及し、もう少し大きく出版業界という括りにおけるヘイト本と反差別について考えておこうと思います。
あくまでもこの記事は「出版業界」という環境内での話なので、もっと本質的なところ、つまり反差別とはなんなのか的な観点からは「甘い」記述になるところもあると思います。
①なぜ今回の本は出版中止にできたのか
今回の件で「なぜこれは出版中止にできたのか(いままでたくさん出されてきた別のマイノリティへのヘイト本は野放しだったのに)」といった声がよく見られました。確かに、正直この速度感で出版中止になったのには驚きましたが、同時に納得もしました。出版業界における「環境」がだいぶ変わってきているからです。
出版業界におけるヘイト本との関わり方について、軽くおさらいしておきます。私が観測&認識しているのは2013年あたりからの話なので、それ以前については別の詳しい方による補足をお願いしたいのですが、なんだかんだで2013年というのがキーポイントだと思います。基点であり起点。この頃にいわゆる「中韓ヘイト」を中心とした本が頻発するようになり、よろしくない問題として掲げられ始め、それに抵抗するような本も2014年あたりから出始めています(たとえばころからの本①、②とか)。このとき、出版業界にいる者らの念頭にあった「ヘイト本」における「ヘイト」という言葉は、主に「中韓ヘイト」のことを指していたように思えます(上記ころからの本2点はその典型です)。ゆえにこの業界における「反差別・反ヘイト」という言葉や態度、そして実践は、その基点/起点を「中韓ヘイト」に設定していたように思えます。そして、その傾向は無意識ながらいまもあるのではないでしょうか。
少し風向きのようなものが変わったのは、2018年の杉田水脈「新潮45」問題なのではないかと考えています。ここでやっと、(出版業界における)差別・ヘイトという言葉の中に「ジェンダー」「セクシュアリティ」といった概念がインストールされた感覚があります。かく言う私もそのひとりで、それまではLGBTという「言葉を知っている」程度の認識と意識しかありませんでしたし、もっと言えば、トランスジェンダー差別の存在をまともに認識したのはそこからさらに数年後です(私が出版業界のひとりとして活動を始めたのは2017年前後で、当時からなんらかの形で「反差別・反ヘイト」を掲げていましたから、その意識の低さの事実は自戒・反省とともにここに残しておこうと思います)。
もちろん、差別・ヘイトはここであげた属性以外にも向けられますし、すべての差別・ヘイトに対する認識を持つことは難しいことでもあります。ただ、そのための日々弛まぬ努力というか、自省というか、とにかくそのような積み重ねは必要なわけですが、それがこの業界においてできているのかは甚だ疑問です。ここについては③で再度触れますので、一旦置きます。
とにかく、出版業界における「反差別・反ヘイト」の基点/起点は中韓ヘイトにあり、そこを中心に議論や実践もなされてきています。また別の観点を加えれば、中韓ヘイトへの抵抗の方法を基礎にしてほかの差別への抵抗方法も考案・実践されている(これは出版業界に限らない話だと思いますが)。というのが現時点での私が感じていることです。そして、そのような前提=環境のなかで変わってきた環境がもうひとつあります。SNSが持つ影響力です。現時点で、特にTwitterに関してはもはや出版業界における最重要インフラと化しており、そこでの反響の大小や良し悪しが出版社の生命線=売上を握っていると言ってもいいでしょう。ゆえに、そのTwitterでの反響が悪いほうに影響を及ぼしたと判断したKADOKAWA経営層が、今回は中止の判断をしたのだろうと推測しています。
出版社にとっても読者にとっても、いまやTwitterの世界は現実世界と同義です。2013年以降というスパンで考えても、この10年でTwitterの持つ「インプレッション」力は跳ね上がっています。つまり、ヘイト本(として悪評が立っている本)が刊行される/されたということを知っている者の数も、10年前と比較したら確実に増える、そういう環境にあるわけです。となると、大手企業であればあるほど「メンツ」が大事になるということも考えると、KADOKAWAの対応(の速さ)も納得がいきます。そしてなにが問題なのかをわかっていない感じの声明文も同様に、そうなる背景を推測できるわけです。つまり、経営的な観点からの合理的判断であり、自らの差別・ヘイトを反省する類のものではないということ。KADOKAWAのような大規模会社になると、現場がどのような本を作っているかなんて経営層は把握していません。これだけTwitterで話題になって、やっと本の存在を知ったはずです。だからこそ、「流石にこれは(メンツ=経営的に)やばいな」と思い、即座の刊行中止判断と声明発表になったのではないか、と推測しています。
逆に言えば、これまでどれだけ批判の声を上げても刊行中止にならなかったヘイト本は、「単にその存在が知られていなかっただけ」という理由であることがほとんどのように思えます。話題になっている、の規模が違うのです。皮肉なことに、それは反差別運動の中にいて真剣に実践している者ほど体感できないことかもしれません。話題になっているのは、いわば「界隈」だけだったわけです。もちろんいまも社会的に見れば界隈でしかないのですが、その界隈の規模が確実に大きくなっているのだと思います。もちろんこの社会における「意識」が変わってきたという面もありますし、そこに至るまでのあらゆる運動を否定するつもりは一切ありません。意味も効果も確実にあったし、これからもあるのです。この記事に関しては、主題がそこにはないというだけです。
②ヘイト本は刊行されなくなってきた、わけではない
ここまでの流れを踏まえて、ヘイト本の刊行数についても触れておきます。そして、そこに関わる出版業界のシステムについても。見出しの通り、ヘイト本の刊行はいまだに続いています(なお、ここで言うヘイト本は「中韓ヘイト本」を指していますので、そうではない場合はその旨を明記します)。確かに点数は減っているし、Twitterの影響力が大きくなっているにもかかわらず大きな話題にもならなくなってきています。でも、新刊チェックを細かくやっていると、なんだかんだで定期的に刊行されていることに気がつきます。では、なにが変わったのか。答えはシンプル。大手が出さなくなったこと。そして「露骨な=わかりやすい」タイトルのものを出さなくなったこと。このふたつが大きいです。つまり、今回KADOKAWAが話題になったのはこの2点を押さえているからです。
悲しいことに、大手ではないところからは定期的に刊行されていますし、タイトルからヘイト本であることが推測できてしまうような「露骨な」ものではない本は大手からも出ています。後者の「露骨かどうか」については、特に説明をしなくても仕組みが理解できると思うのでさらっと書きます。その中身=本文が差別・ヘイト的要素を多分に含んでいることがバレていないだけ、ということです。前者の「大手が出さなくなったこと」については、出版業界の仕組みとも関連している点なので、少し説明します。
この国にある多くの書店は、いわゆる独立系書店と呼ばれるものを除き、概ね取次(問屋)による「配本」システムを活用して本の仕入れを行なっています。この配本システムは、大雑把に言うと「本の仕入れを代行してくれる」もので、代行してくれる本の種類もまた大雑把に言うと、「今日の新刊はこれですよ」「いま全国的によく売れてる本はこれですよ」のふたつです。そして、配本システムは基本的に大手出版社ほど活用している割合が大きいです。もちろんこれは正確な表現ではないので業界関係者からはツッコミが入るでしょうけど、本題はそこではないので悪しからず。とにかく、業界の仕組みを知らない一般読者でも知っているような出版社の本は、配本システムによって「書店が発注しなくても」入荷してくる環境がある、ということを押さえてください。ヘイト本が話題になりがちだったのは、これが大きな理由のひとつです。かつて2010年代に話題になっていたヘイト本の多くは、講談社や小学館、新潮社、幻冬舎、宝島社、などなど名の知れた出版社から出されていました(もはや懐かしのケント・ギルバートや百田尚樹などを思い出す人も多いでしょう……)。これらは新刊配本で入ってきますし、それなりに売れてしまってもいたので、定期的にやってくる「これ売れてますよ配本」でも入荷します。そうやって本屋店頭に置かれていたからこそ話題にもなるし、話題になるから「刊行されている」ということも認識されるわけです。しかも2010年代に流行っていたヘイト本はタイトルも露骨でしたし、読者はもちろん書店員もその存在を認識しやすかったはずです。だからといって出版社も書店もなんらかの対応をしたのか、というとそうではないことはご存知の通りですが。
しかし、現在出ているヘイト本は配本システムには乗らない(乗っていてもかなり大きな書店にのみ配本されるだけの)ような出版社から出ていることが多く、たとえ露骨でわかりやすいタイトルのものだったとしても、本屋店頭に並びにくいので認識もされず、話題にもなっていない(こちらの出版社を一例としてあげておきます。たくさん出ていますが、きっと書店員でも知らない本ばかりだと思います)。現在書店店頭にその陣地を獲得しているのは「ウィル」「ハナダ」くらいのものでしょう。少なくとも、私がいまもアルバイトとして勤務しているお店(千葉の中では田舎的な扱いをされる地域にある、そこまで大きくはないチェーン店)では、ここで述べたような景色が広がっています。たまに配本されることもあるけど、1冊しか入ってこないから棚に紛れてしまう、あるいは即返品されてしまうわけです(勤務先に関しては後者です)。ちなみに、雑誌だと文藝春秋社の「文藝春秋」や、新書だと新潮社なんかが、大手の出す露骨ではないヘイト本常連組、という印象があります。
ということで、ヘイト本はいまだに定期的に刊行されているわけですが、それが認識されない=話題にならなくなっていることもまた確かだと思います。そこには配本システムがある程度の影響を及ぼしているのではないか、というのがここまでの結論です。
③出版業界における「反差別」の限界
ここまでを踏まえたうえで、考えたいことがひとつあります。出版業界における「ヘイト本」の範疇が「中韓ヘイト」に限られがちであるということ、そして露骨でわかりやすいヘイト本は少なくなってきていること、このふたつがかけ合わさることによる「限界」についてです。
先ほど書いたように、出版業界における「反差別・反ヘイト」の基点/起点は中韓ヘイトにあり、そこを中心に議論や実践もなされてきていて、それゆえに中韓ヘイトへの抵抗の方法を基礎にしてほかの差別への抵抗方法も考案・実践されていると感じています。極端なことを言えば、「反差別です、と言いさえすれば実践できているように思えてしまう」ということです。それは中韓ヘイトがほかの差別やヘイトと比較するとシンプルな構造の差別・ヘイトであることが、理由の大きな部分を占めているのではないでしょうか。
たとえば「女性差別に反対です」と宣言しその実践をしたとしても、それが別の属性への差別に加担することになる可能性があります。今回のKADOKAWAの本のように。あるいは、トランスジェンダー差別に反対する意思があるからといって、別の差別に加担しないわけでもありません。このように、特にジェンダーやセクシュアリティに関するものは、反差別の実践は簡単なものではありません。ノンバイナリー差別、ゼノジェンダー差別、ペドフィリア差別、ポリアモリー差別など、考えるべきことが多くあります。私が認識していないままその差別に加担しているものが、まだまだたくさんあるでしょう(認識しているから差別をしないわけでもない)。もちろんこれはジェンダーやセクシュアリティのみに限りません。たとえば障害者差別とか。つまり、反差別を掲げその実践をしているからといって差別に加担しないとは限らないし、マイノリティ当事者だからといって差別に加担しないとも限らない。この視点を、中韓ヘイトを基点/起点にした反差別の実践は見逃してしまっているのではないでしょうか。というのが、結論を先に言えば私の言う「限界」の要点なわけです。
反差別を掲げる書店は増えています。しかし、そう掲げているにもかかわらず(一例として)トランスジェンダー差別に加担すると指摘されている本を仕入れている書店は多いです。もちろんタイトルや紹介文からはそうとわかるような露骨なものではなかったりするのですが、日々その知識をアップデートする努力をしていれば気がつけるようなものもあります。ではなぜ気づけないのか。勉強していないからです。あるいは、反差別の意識が無自覚に「中韓ヘイト」のみを対象としているからなのかもしれません(それとも、反差別が流行っていて「売れる」からでしょうか)。もちろん中韓ヘイトにも複雑さはありますが、端的に「外国人を差別してはいけない」という文言だけで理解できた気になれるのも事実ではないでしょうか。少なくとも、たった数年前までトランスジェンダー差別のことも認識していなかった私には、自分ごととしてそのような感覚があります。ようするに、いわゆる「道徳」だけで判断&実践がしやすいのです。言い方を変えれば、そこには矛盾やジレンマのようなものがない。外国人差別はしてはいけない。当然です。女性差別をしてはいけない。当然です。しかし、だからといってトランスジェンダー(含めたあらゆるジェンダー)を差別するようなこともあってはならない(そしてジェンダーに限らずあらゆる差別に加担してはならない)。この後段のような感覚/知識があるかどうかは、非常に大きな違いを生むと考えています。
もちろん中韓ヘイトにもその観点は必要だし、持っている実践者も多くいます。しかし、その活動の中で多くの「別の差別に加担」しているにもかかわらず、そしてその指摘を受けているにもかかわらず振る舞いを変えない者もいます。あえて実名を挙げますが、特にCRACの活動に関しては私はまったく賛同できません。その理由がわからないのであれば、おそらく反差別の実践には常に矛盾やジレンマがあるという感覚もまた理解できないのではないでしょうか。そして残念ながら、出版業界における反差別の運動も、このCRACの活動あるいはCRAC的な反差別のあり方とともに広がっているものだと、個人的には考えています。ヘイターは頭がおかしい、ヘイターは低脳だ、だからヘイターをしばきさえすればいい、そういうあり方です。
もちろんCRACやその支持者からは反論がなされるでしょう。そんなことはない、そんなシンプルな話ではない、そういうやり方をしているのにはいろいろな理由があり、そこにも長い歴史の積み重ねがあるのだ、などと。しかし、そうであるならばこそ、批判を伴う指摘には真摯に向き合うべきです(今日Twitterを見ただけでも障害者差別に関する指摘とまともに向き合っていなかったり、ヴィーガンを実践する者への差別的投稿が確認できます)。自分たちがやってきた実践に誇りがあるのならなおさら、アップデートをすべきです。それを拒否してしまうのは、正直なところ、自らの過ちに向き合えない歴史修正主義的な振る舞いと同様に写ります。反差別の実践の目的は「差別をなくすこと」であり、決して「差別をした者を叩く/排除する」ことではありません。もちろんそれがある程度の効果を持つのは確かですが、それが手段ではなく目的となってしまうのであれば、そのあり方は見直されなくてはならないはずです。
話が逸れてきたので戻しますが、とにかく反差別の実践はそれを掲げて「言いっぱなし」になってしまってはいけないものです。そしてもうひとつ、出版業界の抱える見直すべきスタンダードがあります。「言論のアリーナ論」というものです。これもまた2013年を基点/起点とした反差別運動の中で提唱され、浸透していった理論ではないでしょうか(正直、これを「理論」と表現するのはどうなんだとも思いますが)。詳細はこの本に書いてありますが、端的に説明すれば、「書店店頭を民主主義の実践の場と捉え、ヘイト本も排除はせずにその周辺に対抗言論となる本を置くことでアリーナ=闘技場とすること、そしてその結果まっとうな言説が勝つだろう(それを信じよう)」というようなものです(だいぶ前に読んだので細かいところ間違っていたらすみません)。
非常に問題含みな理論です。その結果「勝たない」ことはあらゆる事例で証明されていますし、たとえ勝ったとしてもそのたたかいにおいて傷を負うのは誰なのか、ということをまったく考えていない理論です。しかしこれが出版業界におけるスタンダードになっているのが、業界関係者なら否定しようのない事実でしょう。ゆえに「置かない」と宣言した書店が目立ってしまう=称賛されるわけですが。端的に言えば、この理論は典型的な「マジョリティ目線」によるものです。マジョリティ=気にせずに済む者によって設計・運営される、マイノリティ=気にせざるを得ない者を置き去りにした、かつそのマイノリティ自身を闘技場でたたかわせることにもなる代物。そんな無責任な理論が、なぜか出版業界ではスタンダードとされ、なんなら素晴らしいものとして認識されていたりします。差別やヘイトの問題に正面から向き合うのが面倒だから、あるいは提唱者が業界内では権威的な存在だから……。理由は正直どうでもいいのですが、とにかくこのマジョリティ目線での理論がいまだに否定されていないわけです(局所的にはこのように批判の声があがってはいますが、状況を変えることにはなっていません)。これもまた、「言論のアリーナ論」を掲げた「言いっぱなし」です。
想像よりも長くなってしまったのでここらでまとめますが、こういった業界内の状況を鑑みると、今回のKADOKAWAのあれこれはひとつの(よい意味での)ターニングポイントであると同時に、このままでは今後もまた同様のことが繰り返されるだけである、ということをも示しているように思えます。
業界のシステムが見えにくくしているだけで差別的な本はなくなってはいないし、刊行取りやめになったのも経営的な観点からの「合理的」判断によるものだろうし、出版業界の掲げる「反差別」は言いっぱなしのままアップデートがなされなくてもいい環境にある……。当然、そのすべてに私自身も関係していて、この記事で書かれたことはすべて私自身への追及でもあります。「ヘイト本を『置かない』本屋」など存在せず、あくまでも「ヘイト本を置かないように『努力し続ける』本屋」でしかあり得ない。あるいは、ヘイト本を置いていないのは反差別の実践を真摯にしているからではなく、単にそういったテーマに興味がないだけの場合もあります。特に独立系書店的な、セレクトショップ的な本屋にヘイト本が置いてないのは、単純に「そんな本を置くだけの物理的余裕がない」とか「そんなわかりやすく露悪的な本は店の雰囲気に合わないから置かない」とか「配本がないから」とか「そもそもそこまで新刊チェックしてないから本の存在自体を知らないだけ」とか、そういった理由の場合もあるでしょう。意識して置いていないのではなく、「結果として」置いていなかっただけ。これもまた同様に、私自身に向けられる追及です。気づいていない差別の種はそこらじゅうに落ちているわけなので。ここから派生する「意図的な差別ではないが、本の中に差別に加担するような記述がある場合はどうすればいいのだろうか」という問題、つまり「露骨でわかりやすいヘイト本は少なくなってきている」ことに関わる問題に関しては、また別途書きたいと思います。