LGBTQ+、そして神社関係者という二つの立場から差別に抗う団体『神道LGBTQ+連絡会』の運営のひとりである著者が、信仰/宗教への差別やLGBTQ+など他のマイノリティ性との交差について、感じたことを発信していきます。
信仰を持つ/持たない/持ちかたの違う方々への差別に関する内容が多く含まれます。また、宗教/信仰以外の差別問題や、実際に起こった/起こっている事件や戦争に言及しています。
本稿で引用する文献の内容およびその著者の考えに100%賛同するものでないこと、また内容に差別や加害が含まれている可能性もあることを、はじめに明記しておきます。
#1 宗教ヘイトに気づくための最初のヒント はこちらから
#2 宗教差別について考えること
クリスマス、正月、ラマダン──前回の更新から今回までの間は、信仰に関わる大きなイベントがいくつも行われました。彼岸会や仏生会などもありましたし、妨害による中止が危ぶまれた春祭り「ネウロズ」も無事開催されましたね。
……というわけで、大変ご無沙汰しております。神道LGBTQ+連絡会の楽丸です。
こういった大きな行事の時期というものは、信仰を持つ者にとっては、己の信仰について考えたり、自分と違う信仰の方々と相互理解を深めたりと、多かれ少なかれ特別なものであることが多いのではと思います(冒頭に記した行事についても、当事者の皆様におかれましては「ウチは呼び方が違う」や「これはウチの行事じゃない」など仰りたいことが多々あるかと思います、すみません)。
そして同時に、世間の興味関心が集まる分、宗教/信仰への差別を受けやすい辛い時期でもあります。また、その賑わいを何かの利益に繋げるために宗教/信仰が利用・消費されやすい、危うい時期でもあります(プライド月間なども似た面があるかなと思います)。
こう聞いて、「今回も色々あったよね」と思われるでしょうか。「思い出したくもない」と辛い気分になってしまった方がいらっしゃったら申し訳ありません。
この後は、差別について具体的な話をします。どうかお読みになる際は、ご無理のないようお願いいたします。
それとも、「そんなことあったっけ?」と思われるでしょうか。
差別というものは多くの場合、それを受ける者以外には、差別があるということさえ認識されないものです。今回お話しする予定である〈宗教右派〉という言葉についても、「なにが問題なの?」と思う方が多くおられることでしょう。
そしてきっと、それよりもまず先に、こう思われる方も多いのではないでしょうか。
「宗教差別ってなに?」
○ 宗教差別とはなにか──宗教/信仰へのマイクロアグレッション10選
「具体的な例がないと、イメージが掴めないな」という方もいらっしゃると思います。なのでまずは、宗教差別について我々が(特にこの国で)発信している際によく受けるマイクロ(マイクロとは?)アグレッションたちをご紹介しましょう。
ひとまず少なめに、10個にまとめました。多いでしょうか? これでも少なめなのです。ではどうぞ。
①無宗教の自分たちには、宗教差別や宗教問題は関係ない。
②自分は寺や神社にお参りにいくし、クリスマスも祝うが、宗教に関する差別を感じたことはない。
③宗教や信仰は個々の自由だが、「過剰な/過激な」信仰は困る。社会の邪魔にならないようにすべきだ。
④〇〇は△△より劣った(優れた)信仰だ。
⑤宗教や信仰は非科学的であり、現代的でない。過去の文化として容認すべきではあるが、ゆくゆくは淘汰されるものである。
⑥宗教のせいで様々な問題が生まれた。戦争や差別を引き起こし、民衆を騙し、洗脳し、犯罪の温床になっている。信仰を持つ者はそれに加担している。宗教は悪だ。
⑦宗教は民衆の麻薬であり鎮痛剤。ただの虚構だが、弱い/恵まれない者たちには必要だ。逆に言えば、宗教を必要とする者は、弱い/恵まれない者である。
⑧宗教はなんだか怖いが、魔法やおまじない、祈りやお祭りや幽霊や天使、様々なモチーフや巫女などの聖職者には夢があるので、コンテンツとして皆で楽しみたい。
⑨宗教・信仰、またその施設は「資源」である。社会/経済/学術/芸術/国家など、公共の利益のためによりよく活用されるべきだ。
⑩差別や問題が生じるのを避けるため、宗教に関するものを避けるべきだ。宗教差別は、信仰者に失礼なことを言わなければそれでよい。
いかがでしょうか。このうちのいくつが、貴方にとって「差別だ」と感じられたでしょうか。
ちなみに私にとっては、全て「差別」「思い込み」「消費」「搾取」「アグレッション」等と感じられます。どれもこれも、言われた瞬間に頭から布団を被ってそのまま冬眠したくなるご意見たちですが、今回は被るのをちょっと我慢して、もう少し詳しく説明してみようと思います。
そのために、まずは「宗教差別とはなにか」について、ひとまず当方の考えを述べておきましょう。
〈宗教の違い、あるいは信仰がある/ない/持ちかたが違うことを理由として行われる差別〉
「宗教差別」というものについて、私は今のところ、このように理解しています。
宗教や信仰に関する差別や問題というと、「(特定の)宗教を信じる特殊な者たちだけのもの」と考えてしまう方が多くいらっしゃいます。しかし実際は、「信仰心がある/ない/どのように持つか」という、この社会に生きる全ての者の「持ちかた」の多様性についての話なのだということを、どなたにもまずは知って頂きたいと思います。
では、誰から誰に対しての差別か?
〈そのコミュニティにおける信仰的マジョリティから、信仰的マイノリティに対して行われる差別〉
こちらも今のところ、このようにご説明しておきましょう。
宗教差別というものを「分かりにくい」と感じさせる原因の一つに、「想定するコミュニティごとにマジョリティとマイノリティが変動する」という点があるのではないかと思います(人種や国籍などの差別と少し似ていますね)。
たとえば、白人社会においてはキリスト教(本当はもっと細かく正確な表現が必要ですが、ここでは大雑把に表現します)がマジョリティとされ、それ以外の宗教の信仰者や無宗教者(本当はもっと細かく正確な……略)はマイノリティとされてきました。
ですが本邦においては、無宗教者は「特定の宗教への信仰を持たない」というマジョリティ層の一部と考えられています。世界中にどれだけ同じ宗教の信仰者がいようと、キリスト教であれイスラム教であれ、どこか特定の宗教への信仰を持つ者は「ニホン」という社会の中では基本的にはマイノリティです。
さらに、宗教差別は「〇〇教と××教」「無宗教と信仰者」のような分かりやすく大雑把な括りだけでなく、同じ信仰の名を持つ/持たないグループ内でも起こるということも知って頂きたいと思います。
……というと、様々な宗教の派閥間の争いが思い浮かぶかもしれませんが、「持ちかた」の差別は無宗教者の中であっても起こります。
たとえば、誰かが神社のお祭りやお寺の縁日、クリスマスパーティーなどについて「その宗教への信仰がないから行かない」と言ったなら、周囲からどんな反応が返ってくるでしょう。本邦ではマジョリティのはずの「特定の信仰を持たない」に反しない行動なら、周囲に当たり前に受け入れられて当然ではないですか?
しかし実際は、どうやらそうではないようです。
私は他宗教のお祭りには(その宗教の信仰者からのお招きがない限り)積極的に参加しないことにしているのですが、上のような発言をすると、高確率で「変わっているね」と返されます(しかも、私が神道の者であると知らない方からは特に)。
「またまた〜、シューキョー上の理由だってさ(笑)」と、ただの冗談のように受け取られることもありますし(「宗教上の理由」を冗談と思うことは、本邦では当然のことになっていますね)、相手に宗教への悪感情があれば、「シューキョーの話をされた!? うわあ、勧誘とか洗脳とかしないでよ」と、びっくりするほど飛躍した反応が返ってくることもあります。
どれも、自分と「信仰の持ちかた」が違う者に対する、差別的な反応であると感じます。(もし私が同じ「無宗教者」であっても)「自分も行かないつもり」と全員から返ってくる確率は極めて低いでしょう。
信仰の持ちかたは、個々に違って当然のものです。多様で千差万別なそれらの上に無理矢理に、かつ無根拠に引かれた曖昧な線を挟んで、我々はマジョリティ/マイノリティとして生きています。
同じ「マジョリティ」の中にいても、貴方と貴方の隣にいる誰かの「信仰の持ちかた」がどれくらい違うかは、本当は誰にも分かりません。
その違いを「なんかいやだな」「怖い」と思ったとき、宗教/信仰への差別は始まるのではないでしょうか。
ではそろそろ話を戻して、先述のアグレッションたちについて説明していきましょう。とはいえどれも一度に語り切れるものでないので、今回はこれもなるべく手短に、ざっくりお伝えします(手短です、これでも手短なんです)。
アグレッション①②:「自分のまわりには宗教差別はない」?
①無宗教の自分たちには、宗教差別や宗教問題は関係ない。
②自分は寺や神社にお参りにいくし、クリスマスも祝うが、宗教に関する差別を感じたことはない。
①と②の二つはどちらも、「自分のまわりには宗教差別はない=だからこのままでいい」という、現状を追認するための言葉です(無宗教や神仏習合は宗教差別だ! なんて話ではもちろんありません、悪しからず)。
しかし実際はそうではなく、「無宗教者」を自認する者たちの間でさえも差別が起こりうることは、先程お伝えした通りです。
まずは「信仰のありかた」が個々に違うということ、そして「この場には信仰を持たない者/持つ者/特定の持ち方の者しか存在しない」という意識でなにかを発信することが、アグレッションとなりうる行為であることを認識して頂きたいと願います。
また、①②の後には「宗教差別はもっと、宗教の力が強い『よその国』で起きている問題だ。日本においては、主に他国にルーツを持つ者に起きる問題だ」という話が続くことがよくあります。
宗教に対してユルいニホン/ニホンジンは安全で平和だ(そうでないものは危険だ)という、ルーツによる差別、排外主義と宗教差別を繋げるための言説にもなっているのです。
二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロは、日本人無宗教説にも大きな影響を与えた。(略)アフガニスタンに報復攻撃を行うアメリカのブッシュ(子)大統領の支持基盤がキリスト教保守勢力だったことなどから、世界情勢はキリスト教世界とイスラム世界の対立としてとらえられるようになった。そして、一神教は排他的で攻撃的であり、それに対して日本の無宗教は安全だ、あるいは無宗教に見えるアニミズムや多神教は寛容で平和だという説が出まわる。この議論は七〇年代から見られたが、九・一一をきっかけとして一気に拡大した。[1]
『日本人無宗教説』では、先の言説についてこのように分析されています。9.11直後からの苛烈な宗教差別、特にイスラム教への差別については、記憶にある方も多いのではないでしょうか。
「信仰に熱心な者ほど危ない」という誤った思い込みのもと、「過激派」「原理派」「保守派」「カルト」などの言葉が連日飛び交い、ターバンを巻いていたというだけで殺害されるヘイトクライムも発生しました。
本邦ではそれ以前からの新宗教への差別とも結びつき、「宗教が弱者を洗脳している」という差別的言説が毎日のように流れました。この流言は(昨今のトランスジェンダー差別にもあるように)いまや宗教差別だけでなく、あらゆる差別の被差別者を犯罪と紐付け、危険だと憎悪感情を煽る文句の定番になっています。
この「宗教に関する問題は、自分たちとは違うどこか遠くの誰かのもの(だったはずが、いまや自分の近くにまで忍び寄っている!)」という感覚は、本邦ではとてもたくさんの方が持っている感覚ではないかと思います。ひょっとすると、信仰を持つ者たち自身でさえも。
この感覚を持ったままで宗教について考え、「自分と隔たった場所にある差別には反対するけれど、身近にある宗教差別には気付かない」という、よくあるダブルスタンダードに陥ってしまっている例も多く見ます。
大事なことなので、もう一度言いましょう。
宗教差別/宗教問題は、信仰を持つ者だけの問題ではありません。「信仰心がある/ない/どのように持つか」という、この社会に生きる全ての者の「持ちかた」の多様性の話です。
アグレッション③④:「過激な信仰は危険、信仰(の持ちかた)には優劣がある」?
③宗教や信仰は個々の自由だが、「過剰な/過激な」信仰は困る。社会の邪魔にならないようにすべきだ。
④〇〇は△△より劣った(優れた)信仰だ。
昨今は「カルト」の語が(宗教/信仰と直接的に関係のない場でさえ)便利なレッテルとして軽々しく飛び出しますが、さて、己の信仰に真摯であること(それは多くの信仰者が「かくありたい」と目指すところだと思います)と、過激な信仰を持っていることはどう違うのでしょう?
……え、周囲の迷惑? それって本当に、信仰や宗教のせいでしょうか。そもそも、なにをもって「過激」と判断するのでしょう?
大前提として、「社会」はあらゆる面でマジョリティのためにデザインされています。それは宗教や信仰についても例外ではありません。「社会にとって過激」と判断しているのは、多くの場合マイノリティである当事者でなく、周囲のマジョリティです。
フランスでは2004年から、公共の様々な場所でのヘジャブ(スカーフ)着用を禁止する法令がいくつも制定されてきました。
これらの法令は、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報道官からも「服装のような宗教的信条による表現の制限は、公共の安全が懸念される場合など極めて特殊な状況でしか認められない」と差別の指摘を受けていますが、フランス世論では八割が賛成しているとされ、年々その適用範囲が広げられ続けています。(仏政府、パリ五輪で自国選手のヒジャブ禁止 国連「女性差別」と批判)[2]
我々は皆、信教の自由という権利を有しています。「過激」な行為としてよく取り上げられる「信仰の強要」はもちろん信教の自由の侵害ですが、逆に「信仰しないことの強要」「持ちかたを変更させることの強要」も、その侵害にあたります。しかし、後者はあまり「過激」とは言われません。
それどころか、「宗教/信仰的マイノリティという存在は『迷信』の影響で『奇矯な振る舞い』をしてしまっている被害者だ」という思い込みのもとに、個々の当事者の意思さえ十分に確認されないまま抑圧・排除・同化する行いを、「迷信から救った」「因習を廃した」「洗脳を解いた」と称揚することさえあります。
「カゲキなシューキョーは危険」という差別的言説は、「マジョリティにとって有益・無害な信仰者は、信仰に対して不真面目である」という、裏返しの使われ方もされてきました。
これらは、信仰を差別に利用する者が「自分たちは信仰に真面目なだけ」と差別的な行いを正当化するための決まり文句にもなっていますが、本邦では信仰を持たないマジョリティたちが、自分たちとの同化を促すために使うケースも多いように感じます。
定期的にSNSなどで話題になる、「戒律を“破った”信仰者と一緒に〇〇を楽しんだ」というような、無理解と決めつけが過ぎる「ほっこり」エピソードなどもそのひとつと言えるでしょう。
信仰における様々なルールについて、どのように理解しどのように守るか、周囲の状況に合わせてどう表現するか、どうしても守れない際はどうするか、そもそもなんのために守るのかなど、刻々と変わってゆく社会や生活の変化のなかで、信仰者は日々向き合い方を模索しています。
その判断を、外から簡単に「信仰のルールを破っている」などと評価すべきではありません。
この言説はまた排外主義的でもあり、「国籍やルーツや所属が同じであれば、信仰の持ちかた/表現の仕方は同じになる(そうでない者はルーツが違う者である/我々の仲間になるには信仰の持ちかたも同じにしなくてはいけない)」という考えを下敷きにしている点、もっといえば、信仰の持ちかたをナショナリズムに利用している点も大きな問題といえます。
信仰は、個々のものです。信仰の持ちかた、向き合いかたや表現の仕方は、それぞれが学びと実践を繰り返して日々アップデートしながら、生涯を懸けて得てゆくものです。
我々はその営みの全てが、同等に尊重され保障されるよう求めていかなくてはなりません。そのために行うべきは人権について学び考えることと、宗教/信仰の多様性を理解してお互いがなにを求めているかを考えてゆくことであり、マジョリティにとって有益かどうかを評価して優劣をつけたり、同化や同調を促すために「過激」「不真面目」などとレッテル貼りをすることではありません。
アグレッション⑤⑥⑦:「宗教は害悪/虚構/過去の遺物」?
⑤宗教や信仰は非科学的であり、現代的でない。過去の文化として容認すべきではあるが、ゆくゆくは淘汰されるものである。
⑥宗教のせいで様々な問題が生まれた。戦争や差別を引き起こし、民衆を騙し、洗脳し、犯罪の温床になっている。信仰を持つ者はそれに加担している。宗教は悪だ。
⑦宗教は民衆の麻薬であり鎮痛剤。ただの虚構だが、弱い/恵まれない者たちには必要だ。逆に言えば、宗教を必要とする者は、弱い/恵まれない者である。
④もそうですが、⑤⑥⑦はどれも直球の差別的言説であり、自分と違う宗教や信仰の持ちかたへの誤解、思い込み、無理解から生まれる考えです。
というか、端的に信仰の否定です。やめましょう(他者の信仰を侵害せずに、自分の信仰がある/ない/持ちかたが違うことを表現する方法を考えましょう)。その言葉に触れるのは、自分と同じ信仰の持ちかたの者たちだけではありません。
自分と違う宗教や信仰がなくなればこの世が争いや差別のない理想的な社会になるわけではありませんし、誰かの理想的な社会に宗教や信仰の居場所がないならば、それは排除です。
また、(これも多くの方が誤解していることですが)宗教/信仰の解釈や実践は、どれほど長く続いている、昔ながらのもののように思えるものでも、実は不変ではありません。ほかのあらゆる分野と同様、常にアップデートされ続けています。先に述べたように個々の実践や解釈も様々です。
何につけても、信仰や宗教だけが例外ということはありません。差別や加害に繋がらない信仰の表現や実践についての試行錯誤は、既に行われてきています。今それが足りず改善すべき部分があるならば、今後そうしてゆけばよいだけのことです。
しかし、そういった批判を受けやすいものは、往々にして「奪われたものを取り返した」「奪われゆくなかで守り抜いた」「完全に取り返せず現在も交渉している」ものであることも多く、アップデートのための丁寧な議論やトライアンドエラーができる場(とその場を得るための余力)が数十年数百年分奪われた結果であることもあります。
そういった様々なありかたを「〇〇には△△という教義があるので差別的だ」などと安易に外から断定することは、「〇〇教の者なんて皆同じ」「いつまでも進歩しない奴らだ」という誤った思い込みに基づく差別的な行為であるし、そういった思い込みのもとに、主体性を取り上げてマジョリティの力で根こそぎ排除するような行いは、スタートラインの違いも、リソースを奪ってきたのが一体誰だったのかも考えない、理不尽な行為であると思います。
そしてこの思い込みは逆に、「〇〇には△△という教義があるので差別は仕方ない」と、己の差別を肯定するためにも利用され続けています。
差別の指摘を受けたならば、その是正に向けて動くことは当然であり、そこに議論の余地はありません。誰かから差別や搾取を受けていることは、自分が誰かに搾取や差別をしてよい理由にはなりません。
宗教/信仰を差別と紐付けることは、「差別しなければお前の信仰は『本物』ではない」、「差別なんてする奴はみんな〇〇信者だ」と、個々の信仰のありかたを勝手に決定し、信仰を質に取って差別を促すことにほかなりません。
差別・加害に宗教/信仰を利用する言説、差別・加害と宗教/信仰を紐付ける言説に強く反対します。それは信仰の持ちかたを問わず、我々全ての者の、信教の自由を侵害する言説です。
アグレッション⑧⑨:「宗教には利用価値がある」?
⑧宗教はなんだか怖いが、魔法やおまじない、祈りやお祭りや幽霊や天使、様々なモチーフや巫女などの聖職者には夢があるので、コンテンツとして皆で楽しみたい。
⑨宗教・信仰、またその施設は「資源」である。社会/経済/学術/芸術/国家など、公共の利益のためによりよく活用されるべきだ。
続く⑧⑨は、一見ポジティブな考えのように思えますが、信仰をほかの目的に利用・消費・搾取することを促すものです。個々の信仰の持ちかたを保障するために社会があるべきであって、特定の誰かにとって理想的な社会を作るために個々の信仰があるわけではありません。
そして当たり前のことですが、宗教施設は信仰の場であり、観光施設ではありません。
信仰の場は、信仰のためのインフラとして、いま必要としている者だけでなく(観光客を含め)これから必要とするかもしれない者にも(なるべく)開かれているべき場所ではありますが、それはあくまでも、信仰のための行いであるべきです。
観光や商業的価値を軸に信仰の場を評価することは筋違いですし、信仰そのものを軽んじる行いであると思います。
⑧はそれに加えて、「宗教はなんだか怖い」という己の宗教への悪感情を省みるのでなく、「このコンテンツとは無関係なもの」と宗教や信仰の存在を隠すことで、自分たちの楽しみのために消費しやすくしている点をとても遺憾に思います。
この世界のあらゆる事象は、様々な要因が複雑に絡まり合って作り上げられています。その一要素である信仰や宗教のみを抜き出して(先の⑥のように)全ての責任を負わせることも問題ですが、それとは逆に、必ず含まれているはずの宗教/信仰の要素のみを「無関係」と消し去ることも問題です。
また、先述のアグレッション⑦にも通じるものですが、信仰や宗教、祭祀・祭儀や(魔法を含む)呪術といったものは、過去の遺物や気休めの迷信などではなく、信仰者/実践者のいる生きた営みです。 夢のあるもの・素朴なもの・奇祭やホラーな風習というような消費はある種オリエンタリズム的であり、実践の場が(多くの場合)存続の危機にさらされている当事者へのアグレッションに繋がりかねないものです。
「自分たちにとって不要なものは『宗教』、利用価値のあるものは『文化』」
「『文化』は大事に守らなくてはいけないが、『宗教』は増えるから危険だ」
このように、同じものを自分たちの都合で呼び分けて印象を変え、ルーツを曖昧にすることで同化を促し、他者の営みを分解して盗用し、都合よく消費する行為は、「近代化」の名のもとに繰り返し正当化されてきた、侵略行為のひとつです。
このあたりについては次回、詳しくお伝えできればと思います。
これは余談ですが、神社で働いていると、日常的にものすごく撮影されます。撮影の是非については(無断でなければ)それぞれの考えがあるところでしょうが、なぜ自分が、宗教施設の職員を撮りたいと思ったのか? 巫女や神主でない職員の姿も撮りたいと思うか? 手続き等で訪れた役所や、通院中の病院でも職員の写真を撮りたいと思うか? もし思わないならばそれはなぜか? を、今一度考えて頂きたく思います。
アグレッション⑩:「トラブルを避けるためには、宗教を避けるべき」?
⑩差別や問題が生じるのを避けるため、宗教に関するもの自体を避けるべきだ。宗教差別は、信仰者に失礼なことをしなければそれでよい。
「政治・宗教・野球の話はするな」などというつまらない軽口を言う者は、今日も後を絶ちません。確かに話題そのものを避ければ、マイクロアグレッションは減らせることでしょう。その調子で何もかもを避け続けるのも、ひとつのやりかたかもしれません(大概「宗教を避ける」と言いつつ、宗教に由来するイベントやコンテンツは楽しんでいらっしゃることが多いのですが……)。
しかし、(これも宗教差別に限った話ではないですが)そもそもマイクロアグレッションは、差別構造があるからこそ起きるものです。マイクロアグレッションが減ることは喜ばしいですが、差別構造が改善されない限り、差別は生まれ続けます。
我々は、差別を引き起こす構造から根本的に変えてゆかねばなりません。
そして、宗教や信仰に関するものを避けることでは、このマジョリティ専用の社会を変えることはできませんし、信仰的マイノリティを更に抑圧してしまいかねません(冒頭で紹介した他宗教へのお祭りの不参加への差別的反応なども、この「宗教の話を避ける」ことが助長しているのでは、と思います)。
ただ忌避するのでなく、宗教/信仰というものに向き合い、その多様性を知り、差別をなくすためのアクションを始めて頂きたいと願います。
○ 「宗教右派」の指すもの
ではこれらを踏まえて、前回「せめて、これはもう安易に使うのはやめて欲しい! 今すぐに!」とお伝えした〈宗教右派〉という言葉について考えてゆきたいと思います。
ですがもし、これまでの10個の説明から「あれ? もしかして『宗教右派』って言葉、これまでのアグレッションのハイブリッドみたいなやつじゃない?」と思ってくださったなら……ありがとうございます、この章はもう読まなくても大丈夫です。
まだよく分からないなという方、分かったけれどもうちょっと考えたいなという方だけ、このままお付き合い頂ければ幸いです。これまでの話の繰り返しの箇所が多くなりますが、どうぞご容赦ください。
では改めて、「宗教右派」と聞くと、皆さんはどんなものを思い浮かべるでしょうか。
きっと、人権侵害を扇動し犯罪や詐欺を斡旋し、陰からこそこそと社会を操っていそうな、なんだか悪そうで奇怪な者たちや団体が頭に浮かぶのではと思います(以前、「それって頭から白い頭巾被ってるオバケみたいなひとたち?」と聞かれたことがあります。なにを想像されていたのか、今でも謎です)。
そもそもの「宗教右派」という日本語は、アメリカ大統領選における候補者の支持勢力を説明するための言葉として、1980年代から使用され2000年代に(本邦に)定着しました。基本的には立候補者の支持基盤についての「対抗勢力からの他称」であり、統一された思想があるわけではありません。
そして、アメリカ白人社会という「キリスト教の信仰者がマジョリティの場」について説明するために使われてきた〈宗教右派〉という言葉の中の「宗教」は、そもそもはほぼ「キリスト教」の意でした。
その言葉が、特定の信仰を持たない者がマジョリティであるこの本邦で、どのようにキリスト教以外の様々な団体と結び付いていったのでしょうか。
これについて塚田穂高氏は、「この語が日本社会の特定の勢力なり動向を示す語として読み替えられ,転用されていく段階について(中略)決定的な役割を果たし先導したと言えるのが,アメリカの政治学者・日本研究者であるケネス・ルオフと,彼の議論に触発された近現代史家の上杉聰である」と結論付けています。[3-1]
ルオフは『国民の天皇』の「天皇制文化の復活と民族派の運動」の章において,「米国の最右派団体,キリスト教連盟と同じように神社本庁は個々の市民と国家との間に位置する市民社会の中に確固たる位置を占めている。(略)」(強調点は筆者による,以下同じ) と,アメリカの宗教右派の機能的代替物のように日本の神社本庁等の事例を論じた。(略)上杉は「日本会議―安倍の知られざる基盤 中核は宗教原理主義者」(『選択』2006年10月号)では,以下のように論じている。
...アメリカのブッシュ政権と,彼の重要政策にかかわったネオコンと呼ばれる政治家たちを支えたのが,キリスト教原理主義と呼ばれる宗教右派であることはよく知られている。「日本会議」も,そうしたものと考えることで,もっとも手早く,かつ正確に理解することができる。
このように試しに類比的に捉えてみよう,というのである。しかし,こうした「試み」は既成事実化していく。(略)このようにルオフの議論と現今の日本会議等の勢力等を,「宗教右派」の語が仲介して結びつけていったのである。[3-2]
要するに、
・アメリカで最も右派的な団体といえば『キリスト教連盟』である
・影響力を持つ宗教団体は日本にもある
・アメリカのネオコンは「キリスト教徒の中の右派的な集団」が支えており、宗教右派と呼ばれている
・日本会議は宗教右派のようなものと考えると理解しやすい
・日本会議は宗教右派である(と既成事実化した)
という流れです。
皆さんご存知のように(ご存知ですよね?)神道とキリスト教は、歴史を紐解くまでもなく全く違う宗教です。それぞれの信仰者の政治的思想を同じものに「仕向けられる」ほどの信仰上/教義上の共通点が両宗教にあるとは思えません(そもそも神道に共通の教義はありませんし……)。
そして「宗教右派」の筆頭としてよく名前の上がる『日本会議』は、神道・仏教・その他の宗教の信仰者・そして特定の信仰を持たない者も在籍している、所属者の信仰を問わない=共通の信仰や教義によって活動していない団体であり、宗教団体ではなく政治団体です。
では、この場合の「宗教右派」という語における「宗教」とは、一体なにを指していて、なんのために冠されているのでしょうか?
昨年2023年に刊行された『宗教右派とフェミニズム』では、宗教右派という言葉について、
本書で使う「宗教右派」という用語は、櫻井義秀がさしあたりの定義としている「保守的思想に基づいて政治活動をなす宗教団体」(櫻井義秀「戦後日本における二つの宗教右派運動——国際勝共連合と日本会議」、櫻井義秀編著『アジアの公共宗教——ポスト社会主義国家の政教関係』〔現代宗教文化研究叢書〕所収、北海道大学出版会、二〇二〇年、一四七ページ)、またそれらの関連団体や運動を総称したものである。[4-1]
このように定義しつつも、
特に宗教と関連をもつ団体や個人が、ジェンダーやセクシュアリティ、家族などのテーマに関して、ジェンダー平等やLGBTQ+の権利に反対の立場から政治的な活動をおこなったり、公益財団法人やNPOとして社会的活動をおこなったりしていることに着目している。[4-2]
と述べ、『倫理修養系団体』と書籍内で呼ぶ、宗教団体ではない団体も「宗教右派」として扱っています。
また、2024年2月に行われた『セクシュアルマイノリティと医療・福祉・教育を考える全国大会 分科会9「神道とLGBTQ」』にて、登壇者の岩本健良氏は〈宗教右派〉について、
「保守」的思想に基づいて政治活動をする団体 [5-1]
とし、もっと直接的に、定義から「宗教」を消し去りました。
当たり前ですが、保守的思想を持つかどうかと、信仰の有無は無関係です。また、政治活動をする団体は政治団体であり、宗教団体ではありません。個々の思想や言動に影響を与えるものは宗教/信仰だけではありませんし、宗教=信念体系という決めつけも誤りです。
特定の宗教への信仰を共有せず、各々の主義/主張/信条によって行動する個や団体に対して、「宗教」のラベルを貼って分類すべきと考えるのはなぜでしょうか。
宗教団体の活動であることを隠したり目立たなくする場合も多い [5-2]
岩本氏は〈宗教右派〉について、このようにも述べています。当たり前すぎて何度も同じことを言ってしまいますが、宗教団体でない団体は宗教団体ではありません(繰り返しますが、動画内で岩本氏が言及していた日本会議は政治団体です)。
ならばなぜ、「隠れている」と言われるのでしょう?
「隠れている」という言葉は、外見で判別できないマイノリティを差別する際によく使われてきた文言であり、様々な場でアウティングの強要にも繋がってきた言葉でした。己の属性を誰にいつ明らかにするか/しないかは、当然ながら、当事者の自由であるべきです。
しかし、今回の岩本氏の主張はそれ以前の問題であり、「宗教に『関わる』者、またその者が『参加した団体』は『全て』宗教のラベルを(自分たちに分かりやすく)貼れ、でなければ隠れているとみなす」という、非常に差別的なものです。
例えば我々の使う「LGBTQ+」や、虹色やフラッグなどのモチーフ、「プライド」や「セクマイ」などの言葉は、SOGIに興味を持つ必要のなかったマジョリティにとって「分かりやすくすべき」という義務を履行するために冠されているのでしょうか。「分かりやすくない」とマジョリティが感じた場合は、「コソコソ隠れている」と判断されるのが妥当なのでしょうか。
そしてそれは、アライや、単にパレードを歩いただけ、講習会に参加しただけという者にも適用されるべきでしょうか。パレードを歩く者が必ず同じ思想やSOGIを持っているわけでもありませんし、一度も歩いたことのない者の思想やSOGIがパレードを歩く者とどう違うかなど、外から分かるものでもありません。
SOGIは生活や思想の様々な要素に影響しますが、SOGIによって全てが決まるわけではありません。そしてそれは、信仰/宗教も同様です。全ての団体は、在籍メンバーのSOGIを明らかにすべきでしょうか? 性的マイノリティが在籍している団体は、全てLGBTを名前に冠するすべきでしょうか?
「すべきでない」と考えるならば、なぜ信仰に関しては違うのでしょうか。信仰を持つ者が参加する団体は、全て宗教団体と呼ばれるべきなのでしょうか?
差別を正当化するために自分と関わりの深い分野を利用することは、宗教/信仰に限らず科学や法、経済や芸術など、どんなものでも行われてきたことです。
ではなぜ「生物学右派」などの言葉は広まらなかったのでしょう?
〈宗教右派〉という言葉で差別を糾弾する方は、ご自身には何という属性を(他者から分かりやすくするために)貼られるべきと考えているのでしょう?
そもそも、「宗教に関わりがあるか」という線引き自体に、「ふつうの者は宗教なんかに関わりなどないはず」という、差別的な思い込みがまずあるのではないかと思います。
そしてまた、「保守的な思想を持つ信仰者」への呼称だとしながら、実際は「保守的思想が存在するのは宗教が原因である(だから保守的な者は宗教関係者だ/保守的な団体には宗教が関わっているはずだ)」といつの間にか話が飛躍し、差別に繋がる使用をされていることについても、非常に問題であると考えます。
岩本氏の定義でいえば、逆に「(保守の対義語としての)リベラルな団体」は全て「宗教左派」と呼んでよいことになります。また『宗教右派とフェミニズム』の定義に照らしても、岩本氏や同じく登壇者であり、神社で神前結婚式を挙げるために活動されたケータ氏、また両氏が所属する『どこで祈れるプロジェクト(旧:お賽銭のゆくえプロジェクト)」は〈宗教左派〉と呼んで差し支えないはずですが(岩本氏が監事を務めていらっしゃるLGBT法連合会も、岩本氏がお勤めの金沢大学も宗教左派ですか?)、これまでそういった名乗りはされていません。あくまでも、「安心してお参りしたいだけの『ふつうの者』」という立場から批判が行われています。
彼らはなぜ、「宗教左派」を自称なさらないのでしょうか? 彼らの団体名はその信仰を誰にとっても明らかにしているでしょうか? 所属者の信仰はどこかに明記されているのでしょうか? そしてそれは本当に必要なことでしょうか?
話は変わりますが、先日SNSを見ていたところ、神道LGBTQ+連絡会が(あるオープンリーゲイの牧師さんのいらっしゃる)キリスト教系団体の手先であるという投稿が流れてきました。否定しに行く元気も出てこないような、あまりに宗教に対して雑が過ぎる推測ですが、「こうやって宗教『左/右』派が作られていくのか」と腑に落ちた思いでした。
ゲイは危険だ、ガイコクから入ってきたものは危険だ、サヨク/ウヨクは危険だ、シューキョーも危険だ。だから、自分にとって危険そうなものは全部まとめて、自分たちに見分けられるように区別するべきだ──我々信仰を持つ者を「分別したい」という欲求の根底には、いつでもマジョリティがマイノリティに行なってきたように、自分が嫌悪を感じるマイノリティたちを自分たちと別物だと切り離し、そして「自分と違うものは危険だ」と考える、あまりにありふれた差別意識があるのではないか、と私は思います。
○「実際に宗教右派(と呼ばれる団体)は危険じゃないか!」
タイトルのように反論したい方もいらっしゃるかもしれませんが、どうかその前に、なぜご自分がその団体を「宗教」右派に分類したのかを、もう一度考えて頂きたいと思います。
きっと、先の定義のように「設立者/出資者/メンバーが宗教関係者あるいは信仰を持つ者だから」という答えが多く返ってくるのではないでしょうか。
もしかしたら、先のように「特定の主張をしているから」という信仰の有無とは無関係の観点や、「宗教関係の会合にメンバーの誰かが出席していた」など、相手が自分の信仰を明言していない状態での推測を根拠とする方もいらっしゃるかもしれません。
けれども、繰り返しますがそれは本当に、「宗教」のラベルを貼って分別すべきものでしょうか。
自らを示す言葉として(「〇〇教」等を)冠するならばともかく、「宗教か/宗教でないか」を、自身の信仰の持ちかたを明らかにしていない場合や信仰者が「接触した可能性がある」場合までもを、全て他者がはっきり区別できるようにすべき「義務」は、本当にあるのでしょうか?
先に皆さんが思い浮かべた様々な「(所謂)宗教右派」、もちろん批判すべき理由が多々あることと思います。
我々の神道LGBTQ+連絡会も、(いわゆる「宗教右派」の一つであるとされる)『神道政治連盟』という組織の行ったLGBTQ+差別に対して、批判や抗議を継続して行なっています(余談ですが、神道政治連盟は宗教団体ではありませんし、神道の教義等ではなく独自の綱領で活動している団体です)。
ですが、個人や一部の団体に問題があったとしても、それを同じ属性の者全てに還元し、属性や要素自体に問題の原因を紐づけることは差別です。
アメリカと中東諸国との戦争は、キリスト教とイスラム教の対立が原因かのように捉えられてきました。
現在のイスラエルによる虐殺についても、イスラム教とユダヤ教の宗教対立が全ての原因であるかのように語られています。
宗教への差別は、「どうせ宗教は非科学的で現代的でなく、非常識で理解できない。だから解決できないし、考えても無駄だ」とそれらの現状を追認し、切り離し、放置するための言い訳として利用され続けています。
一時の安心のためにマイノリティに罪や責任を押し付けることは、真の原因に向き合うことを放棄し、問題を放置する行為です。それは差別される者の権利を侵害するだけでなく、問題の抑止・解決にも寄与しません。
信仰の持ちかたがマイノリティとされている者も、マジョリティと同様に生活しています。参政権があれば投票にも行きますし、政党に所属したり、選挙に出馬する者もいるでしょう。各々の価値観にあわせて寄附も募金もしますし、デモに参加することも、政治的な運動を行うために団体を結成することも、あって当然であると思います(例えばLGBTQ+差別を行う者に抗議するために団体を結成した、我々のような)。
もちろん、逆に犯罪や加害をしてしまうこともあるでしょう。意図的に差別的思想を広めようと画策する者もいるでしょう。それらに対する批判や抗議、法的措置ももちろん行われるべきでしょう。
信仰の持ちかたは、その者の政治活動や社会活動を制限する理由になりませんし、逆にその者が行った不法行為や加害を免責する理由にもなりません(まさか、「宗教ってなんとなく危険そうだから」と、信仰者から参政権を奪う気ではないですよね?)。
先の論文で塚田穂高氏は、現在の「宗教右派」の使われ方について「単に「右派」的な動向に「宗教」が関わっているという点のみで,(中略)「宗教右派」の語が安直に」用いられていると批判しています。[3-3]
「宗教右派が危険」なのではなく、「危険と判断したものを宗教右派に分類している」のであると、私は思います。そしてこの分類は、信仰を持つ者の排除と差別に繋がるものです。
加害や差別を批判するならば、属性を問うのでなく具体的な団体に対し具体的な問題を指摘し、改善を促すべきです。「せめて、これはもう安易に使うのはやめて欲しい! 今すぐに!」という我々の主張について、ご理解頂ければありがたく思います。
「では、本来の『アメリカのキリスト教右派』という意味合いで『宗教右派』の語を使うのならば問題ないのでは」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが……ちょっと待ってください!
キリスト教は宗教のひとつですが、「宗教=キリスト教」ではありません。ある問題をそれに関わる個々の名称でなく「宗教」と大きな括りに呼び替えることは、信仰を持つ者や宗教の多様性の透明化に繋がるものと思います。
特に本邦では、「宗教=キリスト教(と本邦の信仰的マジョリティが考えるもの)のような様式を満たすもの」という価値観を政府が推し進めてきたため、これに当てはまらない宗教や信仰が蔑ろにされ続けている現状があります。
近年はキリスト教以外でも(例えば「宗教2世」など)特定の要素や様式を持つ信仰体系やコミュニティだけを括って「宗教」と呼ぶ向きもありますが、同様に安易な呼び替えは避けるべきと考えます。
○そもそも「宗教」とは何か
実は、「宗教」差別という言い方が適切なのか、そもそも「宗教」という日本語が、信仰の持ちかたやそれを共有するコミュニティについて語る際に適切なのかについても、検討の余地が多くあると私は考えています。
その理由のひとつ目は、先に述べたように「宗教」という日本語にまつわる様々な定義や概念の多くがキリスト教のみを基準としており、白人中心主義に繋がりやすい、また特定の様式/イメージのみを想起させ、宗教/信仰の多様性を透明化しやすい言葉であるから。
そしてふたつ目は、そもそも「宗教」という日本語自体が、信仰を国益に利用するためという国家主義的な立場から翻訳され広まった(少なくともその可能性がある)言葉だからです。
ここで少し話を戻しますが、先述のアグレッションの、
①無宗教の自分たちには、宗教差別や宗教問題は関係ない。
②自分は寺や神社にお参りにいくし、クリスマスも祝うが、宗教に関する差別を感じたことはない。
この二つの立場は一見相反するように見えますが、一体どちらが本邦のマジョリティなのでしょう? それとも、①の方々と②の方々でマジョリティが二分されているのでしょうか?
答えは、「①と②両方」ではないかと思います。そして①と②でマジョリティが二分されているというわけでもありません。本邦の宗教的マジョリティは多くの場合、その場その場に合わせて①と②を使い分けて暮らしているように思います。
この国では神社に参拝することも、お寺へお墓参りに行くことも、クリスマスを祝うことも、どれも宗教的行為であり、同時に宗教的行為ではないのです。
この状態が、一体どのようにできあがったのか? そして「宗教=キリスト教」という基準がなぜ作られたのか、そもそも「宗教」とはなにを指す言葉なのか?
それらについては、また次回にお話しさせて頂きたいと思います。
我々は誰もが、今も昔も、各々の関わり方で宗教や信仰と共に暮らしてきました。そのため使う文字ひとつ、身に着けた服一枚にも宗教/信仰との繋がりを感じることができます。
だからこそ、これまであらゆるものが「宗教/信仰のせい」「宗教/信仰のおかげ」と紐付けられ、それぞれの都合で利用されてきました。
そしていつからか「宗教/信仰」の名は、宗教や信仰に関係があろうとなかろうと、都合の悪いものや説明できないものを覆い隠し、閉じ込めるための便利な箱と化してしまっています。
宗教の違い、あるいは信仰がある/ない/持ちかたが違うことは、加害を許容する理由には断じてなりません。
それを知らないことが当然になっているこの社会が、今も多くの悲劇を生み、また新たな加害を呼び寄せています。
宗教/信仰への差別について考えることは、この社会が真に問題に向き合うために、誰もが考えるべきことのひとつではないかと思います。
この差別は常に、どこででも起きています。そしてご自身を含む全ての者の命と営みに深く関わっており、どなたも今、確実にその渦中にいるのだということを、ぜひとも知って頂きたく思います。
そしてどうか今日この日が、これを読んで下さった誰かにとって「宗教/信仰とはなにか」という箱を開き、差別の紐を解き始める日になりますよう。
引用・参考文献
[1]藤原聖子『日本人無宗教説』筑摩書房(第六章「無宗教の方が平和」から「無宗教川柳」まで──二〇〇〇~二〇二〇年……稲村めぐみ「九・一一後の無宗教平和説」より)
[2]仏政府、パリ五輪で自国選手のヒジャブ禁止 国連「女性差別」と批判
[3-1]塚田穂高「戦後日本における 「宗教右派」「宗教右翼」 概念の形成と展開」(『上越教育大学研究紀要 第40巻第1号』所収/266p)
[3-2]同上(266-267p)
[3-3]同上(268p)
[4-1]山口智美、斉藤正美、津田大介、ポリタスTV『宗教右派とフェミニズム』青弓社(16p)
[4-2]同上(16p)
[5-1]イベント概要:https://sekumai2024p9.peatix.com *アーカイブ動画はリンク切れ
[5-2]同上
〈追記:2024年6月1日〉
冒頭の注意文 「本稿で引用する文献の内容およびその著者の考えに100%賛同するものでないこと、また内容に差別や加害が含まれている可能性もあることを、はじめに明記しておきます。」について、
特に今回〈宗教右派〉に関する文献をポジティブな方向で取り上げさせて頂いた櫻井義秀氏については、現在、宗教差別をはじめ様々な問題指摘を受けていることを記しておきます。
詳しくは下記リンクをご覧ください。
追記事項はこちらから
楽丸こぼね(らくまる・こぼね)
『神道LGBTQ+連絡会』運営メンバーのひとり。全ての差別を許さない神社を目指すノンバイナリーの神社関係者。
*こちらの連載は「web灯台より」にて読むことも可能です。
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